8. 金の毛が三本ある悪魔




「今の話、面白かったな」

タバコの煙をくゆらせながら、赤木はひとり言のようにつぶやいた。

「『金の毛が三本ある悪魔』ですか?」
「ああ。今まで聞いた中でいちばん好きかもしれねぇ」
「赤木さんはこういう冒険譚がお好きですね」
「そうかな」
「ええ。赤木さんが面白いって言うのは、男の子が主人公で困難を切り抜けていくタイプのお話ばかりですよ」
「んー、たしかにそうかもしれないな。やっぱりそういうやつのほうが聞いていて楽しいから」

赤木はタバコを消すと、グラスの中に残っていたウイスキーを飲み干し、そのグラスを持ったまま立ち上がった。

「そうだ梨代子、今日は俺が洗い物をやろう」

赤木の突然の申し出に、梨代子は驚いて赤木を見つめた。幾度となく梨代子の家に泊まっている赤木だったが、今まで諸々の家事に関して完全ノータッチであり、このような手伝いを申し出るのは初めてのことだった。

「そんな、気をつかって頂かなくても大丈夫ですよ。そこまで量もありませんし」
「いいんだ、やらせてくれ。いつもなにからなにまで任せっきりだろう。少しは恩返しさせてくれないか」
「あら、それはとても嬉しいのですけど、でも赤木さん…」
「ん?なんだ」
「洗い物、したことあります?」
「………」

赤木は数秒の間ぽかんとした顔をしていたが、考えこむように眉間にしわを寄せて「あるよ、たぶん、何回かは」と小さく答えた。

「本当に?」
「おいおい、俺だって食器洗うくらいならできるぜ。スポンジに洗剤つけて流せばいいんだろ?」
「ふふふ、冗談ですよ。でしたら、お願いしようかな」

梨代子はそう言って、はにかんだような笑みをこぼした。赤木はいそいそと台所の中に入ると、流し台にグラスを置き、腕まくりをした。

「赤木さん、これどうぞ」

梨代子は椅子の背にかかっていたエプロンを取って台所に行くと、それを赤木に差し出した。

「ああ、ありがとう」

赤木は少々まごつきながらエプロンを身につけ、後ろの紐をいい加減に結んだ。
空色の地に黒ネコの刺繍がワンポイントでつけられているそのエプロンは、フリーサイズとはいえ明らかに女性向けの物である。中年男性であり、しかもどう見ても堅気ではない赤木がそれを着ると、かなり面白い格好になるのだが、彼自身はそんなこと全く気にしていないようだった。
赤木がアクリルスポンジに洗剤をたらし、ぎこちなく泡立て始めたのを見届けた梨代子は、笑いをこらえながらソファーへと戻った。

ざあざあと水を流す音が聞こえる。タバコの匂いと他人の気配がするこの空間が、梨代子にはとても心地よかった。
梨代子はふと思いたち、テーブルの上に置いてあったグリムの昔話の本を取った。先ほど読んだばかりの『金の毛が三本ある悪魔』の最初のページを開く。そこに、ピンク色のリボンがついた紙製のしおりを挟みこみ、梨代子はこっそりと微笑んだ。

「いちばん好き、と」

梨代子は本を本棚にしまい、ソファーに座った。
テーブルにはバランタインの緑色のボトルがぽつんと置かれている。中身のウイスキーは、ボトルの底にもう指二本分ほどしか残っていない。新しいお酒を買わなくちゃいけないなと考えながら、梨代子は目を閉じて緩やかな時間を堪能した。

しばらくして、響いていた水音が止まった。食器がこすれる音がかすかに聞こえるので、洗い物が終わったのだろう。
赤木に礼を言って茶でも淹れようと、梨代子が腰を上げた時だった。

「あっ!」

鋭くあがった声に梨代子が驚いて台所を見ると、赤木が食器棚にもたれるようにして、左手で顔を覆っていた。

「赤木さん!?どうしたんですか!?」

梨代子が赤木に駆け寄ると、赤木はゆっくりと顔を上げ、目を何度かしばたいた。

「今、一瞬だけ、左目が見えな……」

そこまでつぶやいた赤木は、はっとした顔をして梨代子に目をやった。心配そうに眉を下げて赤木を見上げる梨代子に、赤木は取ってつけたような笑みを浮かべて見せた。

「いや、もう大丈夫だ、少し立ちくらみがしただけだから」
「でも、目のほうは…」
「大丈夫、なんともない」
「どこか痛むところとかはないですか」
「うん、平気だよ。悪かったな、気にしないでくれ」
「本当に大丈夫なんですね?」
「ああ」

梨代子はまだ疑うような視線を赤木の目に送っている。赤木はごまかすように、脱いだエプロンを梨代子に押しつけた。

「ほら、洗い物は終わったぜ」
「あ…はい、ありがとうございました」
「やってみるとなかなか楽しいもんだな」
「そうですか?……そうだ、お茶を淹れようと思っていたんです。なにがよろしいですか」
「うーん…甘くないやつがいいな」
「なら、緑茶にしましょう」
「ああ」

ヤカンに水を入れ始めた梨代子を台所に残し、赤木は居間に戻ってくると、ソファーに沈みこんだ。
赤木は梨代子が自分のことを見ていないのを確認してから、目を片方ずつ閉じて動かし、その見え方を確認した。梨代子にはなんともないと言ったが、赤木の左目の視界は、先ほどから一部が黒く欠けたままだった。以前から見づらい部分があったのだが、最近は確実に範囲が広がってきている。
テーブルの上の残り少ないバランタインを見つめ、赤木は唇を噛んだ。

「もう、時間がないな……」

赤木は両手を自分の頭にやると、忌々しげにその白い髪をかき乱した。



Der Teufel mit den drei goldenen Haaren
KHM 29