9. 六人男、世界をのし歩く




雨粒が窓を叩く音が部屋の中に響いている。梨代子は持ち帰った書類に蛍光マーカーで線を引きながら、職場で貰った土産のチョコレートを食べていた。
少し疲れてきたので、メガネを外して目頭を軽くマッサージする。最近また目が悪くなったのか、遠くのものが見えにくくなってきた。レンズを新しくする必要があるのかもしれない。
時計を見ると、午後十時半を回ったところだった。雨足はかなり強い。遠くで雷が鳴っている音も聞こえる。天気予報によると、明日の朝まではこの調子で降り続くそうだ。梨代子はメガネをかけ直し、書類のページをめくった。

ピンポーン。ベルが鳴った。
ピンポーン。もう一度。

梨代子は立ち上がり、台所に行ってドアホンの受話器を取ると「はい、どなたですか」と応えた。

『梨代子、俺だ』

それは赤木の声だった。

「赤木さん?」
『ああ、そうだよ』

いつもより来る時間が遅いうえに、どことなく声に張りがない。外では雨が強く降っている。梨代子は少し嫌な予感がして、急いで玄関まで行ってドアを開けた。
玄関前に立つ赤木の姿を見た梨代子は、驚きで言葉を失い、目を見開いた。そこにいた赤木は、上から下までぐっしょりと濡れそぼっていたからだ。髪は濡れて肌に張りついており、灰色のスーツは水を吸ってすっかり鈍色になっている。赤木が首を動かすと、あごから水がぽたぽたと滴った。

「よかった、梨代子の家はここで合ってたな」

うるさく玄関の軒を打つ雨音にかき消されそうな声で赤木はそう言い、弱く微笑んだ。

「あ、赤木さん…、どうして傘もささないで…」

玄関の中に入って来た赤木は前髪をかき上げて、濡れた顔を手で拭った。梨代子を見る赤木の色素の薄い瞳は、どこか暗く沈んでいた。

「……少し、迷っちまったんだ」
「迷った…?」
「最近はどうも道が…な」
「ああ、話は後にしましょう、ちょっとそこで待っていてください、今タオルを持ってきますから」

梨代子は慌てて風呂場に行って、棚から洗面用のタオルを取り出し、また小走りで赤木のもとへと戻った。
赤木は玄関のたたきの上に突っ立って、髪から雨水を滴らせながらぼんやりとしていた。梨代子は赤木の頭に広げたタオルを乗せ、濡れた髪を軽く拭いてやった。

「悪いな」

自分の足元を見ている赤木は、やはり暗い顔をしている。雨に濡れているからそう見えるのではない。
たたきと廊下では段差があるので、赤木の頭はちょうど梨代子の胸の位置になる。唐突に梨代子は、このまま腕を広げて赤木を抱きしめてやりたいと思った。そのくらい、目の前の赤木はやるせなく頼りなさげに見えたのだ。もちろん、小心な梨代子にそんなことはできなかった。
赤木は梨代子の手からタオルを取ると、顔を拭き、頭を拭いた。

「赤木さん、上着を脱いでください。びしょびしょですから」
「ああ」

赤木は大人しく、濡れて重くなったジャケットを脱いだ。梨代子は玄関脇の壁掛けフックからハンガーを取り、ジャケットをそれにかけた。
赤木が中に着ているシャツはそこまで濡れていないようだったが、スラックスは膝から裾にかけて濃い色に変色しており、くるぶしのあたりに泥が跳ねているのがわずかに見てとれた。

「靴下も濡れていますよね」
「たぶん」
「じゃあ、それも脱いでしまってください。気持ち悪いでしょう」

赤木は革靴を脱いで玄関マットの上にあがると、じっとりと水を吸った黒い靴下を引っ張って、足から無理やり外した。梨代子は赤木のためにスリッパを出し、濡れた靴下を受け取った。
外の雨は、また激しさを増したようだった。



「ごめんなさい、まだお風呂が沸いていないんです。もう少し待っていてくださいますか」
「別に構わねぇよ」

寝間着に着替えた赤木は、首にタオルを引っかけた状態でソファーに座って遠くを見ていた。梨代子は赤木のジャケットの中から持ってきたタバコの箱とライターをテーブルの上に置いて、自分もソファーに座った。

「タバコ…、濡れてしまっていたので、たぶん乾かさないと吸えないと思います」
「そうか、そりゃ残念だ」

赤木は、残念だと言う割には興味なさそうにタバコをちらりと見て、また髪をタオルでごしごしと拭いた。

「寒くありませんか。膝掛けかなにかを持ってきましょうか」
「いや、平気だよ」
「では、お夜食でも作りましょうか」
「腹は減ってないから大丈夫だ」
「…そう、ですか」
「ああ」
「……雨、たくさん降っていますね」
「ああ」
「明日も雨でしょうか」
「どうだろうな」
「雨だと自転車が使えないから困ります。本も濡れてしまいますし。早くやんでくれるといいんですけど」
「そうだな」

赤木の返答には先ほどから重さがない。梨代子は隣に座る赤木の顔に視線をやり、膝の上で組んだ手を所在なく何度も握った。

「なにか、あったんですか」

聞かないほうが良いのではという予感はあったが、梨代子は聞かずにはいられなかった。
赤木は無表情にまっすぐ前を見たまましばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「今日は、新宿の雀荘に行ったんだ。そこで半荘を何回か打った」

隠しきれない疲れがにじんだ声だった。

「結果的に言えばな、負けたんだ、俺は。相手はごく普通のサラリーマンや学生だった。手を抜いたわけじゃない、全力だった。それなのに、負けたんだ」

赤木は悲痛に顔を歪ませ、それを梨代子に見せまいとするかのように頭をたれた。

「相手の待ちがわからないんだ。何度も振り込んで、ああ、素人相手に振り込むなんて初めての経験だよ。最後にやった半荘のオーラスなんてひどかったな。対面の兄ちゃんが終盤でリーチをかけて俺は焦っちまった。河を見ても兄ちゃんがなにで待ってるのか全くわからなかったんだ。結局、俺がツモ切りした三萬が当たりだった。開けてみれば見え見えのタンピン。あんなのもわからないなんて、俺は、素人以下だ」

せき止められていた濁流がひと息に流れ出すように、赤木は早口で心情を吐露すると、悔しげに頭を振った。
麻雀のルールがわからない梨代子には、赤木の言っていることは半分も理解できなかった。だが、赤木がひどく落胆し、絶望していることはよくわかった。

「俺はもう、もう、」

赤木は両手で顔を覆い、ぎっと歯を噛みしめた。

「赤木さん」

梨代子は思わず赤木の肩に左手をやった。戸惑いながらもそのまま、母親が幼い子どもを寝かしつけるときのように背を撫でる。想像していたよりもずっと痩せて骨張った背中だった。

「私にはよくわからないのですが、麻雀というのはとても運の要素が絡むゲームなんでしょう?それなら、どんなに強い人でも負けることだってありますよ。今日の赤木さんはきっと、少しついてなかっただけです。だから大丈夫ですよ」

顔を上げた赤木に梨代子は微笑みかけ、明るく言った。

「お風呂に入って、温かいお茶でも飲めば気分も晴れます。そしたら今日はなにか楽しい話を読みましょう。なにがいいかな……そうだ、『六人男、世界をのし歩く』にしましょうか。たくさん人が出てきて、とっても面白い話なんですよ」

赤木は何度かまばたきをし、視線を落とした。赤木の目には薄い涙の膜すら張ってはいなかったが、その姿はまるで泣いているように見えた。

「ああ……そう…だな…、そうだよな…。すまない、梨代子。……ありがとう」

赤木は、膝の上に置かれていた梨代子の右手を取り、やんわりと握った。
どこか遠くで雷が鳴り、不穏な重低音が二人を包む空気を振動させた。



Sechse kommen durch die ganze Welt
KHM 71