7. おどっておどってぼろぼろになったくつ




小さな交差点を渡って少し歩いたところで、梨代子の十メートルほど前方の車道に、黒塗りのセダンが急停車した。運転席から出てきたのは、灰色のスーツを着た、三十代なかばほどの目つきの悪い男だった。男はスーツこそ着ていたが中のシャツは派手な柄物であり、尖った雰囲気も相まって、とても真っ当なサラリーマンには見えなかった。
その男がなぜかまっすぐ梨代子の顔を見すえてきたので、梨代子は背筋に冷たいものが走るのを感じた。見なかったふりをしてさっさと通り過ぎてしまおうと、うつむきがちに足を速めたとき、男は車の後部座席のドアを開けた。

開いた後部座席からのっそりと姿を現したのは、梨代子のよく知る白い髪を持った、赤木しげるその人だった。

「梨代子」

赤木は振り返ると、唖然として立ち止まった梨代子の顔を見て目を細めた。

「…赤木さん……?」
「じゃあ、俺はここで失礼するぜ。世話んなったな」

赤木は男にそう声をかけると、梨代子のそばまで歩いてきた。梨代子の手に握られているビニール袋を見て、わずかに微笑む。

「驚かせて悪かったよ、梨代子。買い物帰りか?」
「ええ…、そうです、けど」
「車ん中から歩いてるのが見えたもんでな。お前さんの家に寄ろうと思ってたからちょうどよかった」
「あの、赤木さん、その、あちらの車は……」
「詳しいことは家に着いてから話すよ。ほら、行こうか」

呆然と立ちすくんでいる梨代子の背中を軽く押し、赤木はずんずんと歩き始めた。梨代子は混乱しながらも、慌ててその後を追った。

「赤木さん」

車の傍に立ち、ふたりのことをずっと見つめていた男が、赤木を呼び止めた。その声色には静かな怒気がにじんでいたので、梨代子は肩をびくりとさせて、不安げに赤木を見た。赤木の顔はひどく冷たく、まるで知らない男のようだった。

「どうしてもだめだってんですか」

男の表情は固く、口調にはトゲがある。赤木はやれやれといった調子で立ち止まると、振り向きもせず呆れたように息を吐き、頭を振った。

「話はついたはずだろ」
「オレは納得してません」
「ったく、麻雀ができるやつなんていくらでもいる。他あたってくれ」
「ただの代打ちじゃない。オヤジはあんたを、神域の男を、必要としてるんですよ」

赤木は男に一瞥をくれると、梨代子が聞いたこともないような冷ややかな声で、にべもなく吐き捨てた。

「死んだよ、そんなやつは」

言葉に詰まった男を無視して、赤木はいきなり梨代子の手首を掴むと、大股で歩き始めた。梨代子は赤木の後ろを、半分引きずられるようにして小走りでついていった。角を曲がるときに、男が憮然とした表情で車の中に戻るのがちらりと見えた。
男の姿が見えなくなってからも、赤木はしばらくの間、梨代子の手を掴んで早足で歩いた。梨代子には前を行く赤木の顔は見えなかったが、歩き方や手首に感じる力具合から、赤木がかなり憤慨しているらしいことはわかった。

「あ、あの、赤木さん」
「なんだ」
「うちはそっちじゃありません、もうひとつ向こうの通りです」

赤木は歩幅をゆるめると、眉の間にしわを寄せてあたりを見渡した。

「…本当だ。どこだここは」
「さっき、曲がる角をお間違えになったんですよ」
「そうだったかな」
「すみません、赤木さん、その、手を……」
「ああ、悪い、痛かったか」

赤木は梨代子の左手首を掴んでいた手を、驚いたようにぱっと離した。梨代子はわずかに赤木の体温の残る手首をさすり、赤木の顔を見上げた。赤木はもう、いつもの穏やかな表情に戻っていた。



***



梨代子は赤木の前に紅茶を出し、自分も赤木の隣に座った。赤木は吸っていたタバコの火を消すと、紅茶のカップを持ち上げた。

「赤木さん、先ほどのことを聞いても…?」
「ああ、そうだな、巻きこんじまって悪かったよ。……なにから話そうか」
「ええと、では、あの車に乗ってらした方はどなたなんでしょうか」
「あいつは豊岡組の、あーっと、若頭補佐だったかな。つまりはヤクザもんだよ」
「ヤクザ……」
「たぶん梨代子は知らないと思うがな、ここの近くに豊岡組の組長の屋敷があるんだ。俺は今日、そこに行ってた」
「なにをしに、ですか」
「代打ちを辞退しにだよ」

梨代子はしばし、赤木が紅茶を飲む様子を見つめた。
組長などと呼ばれる人間の屋敷が自宅の近場にあることなんて、梨代子はもちろん知らなかった。真っ当な、という言い方が正しいかどうかはわからないが、少なくとも今までの人生を堅実に生きてきた彼女にとって、そういった人物と間接的に接触することすら初めての体験だった。

「代打ちというのは、麻雀の勝負をする人のこと、ですよね」
「そうだよ。あそこの組長は弱ぇくせに大の麻雀好きでよ、なにかと言っちゃあ俺のことを呼ぶんだ。正直、あのじいさんの顔見るのにも飽き飽きしてたとこだったからな」
「それで、お仕事をお断りした、と」
「うん、まあ、そんなことだ」
「だからあの若頭補佐さんは怒ってらしたんですね」
「そうだろうな。あいつは運転手っつうか、送迎係みたいなもんでな。あの男、開口一番『これは裏切りだ』とかなんとか抜かしやがった。じいさんとはきちんと話をつけたってのによ。今どき珍しい、オヤジ一筋な野郎だからな。車ん中でふたりきりになった途端にぐだぐだ文句つけられてまいってたとこに、外を梨代子が歩いてるのが見えたんだ。おかげでさっさと解放されて助かったよ」
「そうだったんですか。…あ、もしかして、最初にお会いしたときに図書館にいらっしゃったのは…」
「ああ、あの日もそうだ、組長の家からの帰りだったよ。ぶっ通しで麻雀打って、終わったのは昼頃だったかな。泊まってけって言われたのを断って、…あそこは妙に居心地が悪いんだ…、これからどこに行くかなと思いながら送りの車に乗ってたら、図書館が見えたんだ」

赤木は視線を窓の方に向けた。ちょうど日没の時刻で、レースのカーテン越しに見える家の庭は、ぼんやりとオレンジ色に染まっていた。

「俺は図書館なんて入ったこともなかったけどよ、なんだか知らねぇが、あのときは行ってみるかなと思ったんだ。それで車を止めさせて、中に入った。うん、想像してたよりも快適だったな。久しぶりに本でも読むかと思ってたんだが、気がついたら居眠りしちまってたらしい」
「それで、あんなところで眠っていらしたんですね」
「ああ。ま、その気まぐれのおかげでお前に会えたな」

赤木の真っすぐな物言いに、梨代子は照れたように目線を下げた。まさか赤木が暴力団と繋がりがあるなんて、梨代子は考えたこともなかった。たしかに、麻雀しかしていないはずなのに妙に金を持っているなと、疑問に思ってはいたのだ。これでやっと納得がいった。
同時に、梨代子の中の赤木という男が、じわじわと現実味を失っていく。テレビに映る俳優やスポーツ選手を見ているような、そんな感覚だった。すぐ隣にいるはずの赤木が、なぜだかひどく遠く感じられた。

「赤木さんは、すごい人なんですね。私とは住む世界が違います」
「そんなことねぇさ」
「いろんな方に頼りにされて、素晴らしい才能があって、私なんかとは大違いです」

梨代子はうつむき、スカートの布地をぐっと掴んだ。
いや、むしろ赤木が近くに感じられたことなんてあっただろうか?赤木はいつも常人とはどこか薄皮一枚、離れた所を漂っているような人間だ。肉体的には傍へ寄ることはできても、本当の意味で彼に近づくことはできない。赤木はやはり、凡人には手の届かない存在なのだ。
梨代子は自分自身と赤木とを見比べ、重い鉛を飲み込んだような、沈んだ気分になった。

「私は小さい頃から、いつも仏頂面でかわいげの無い子だと言われてきました。たしかに、自分でもそうだと思います。周りの女の子たちと一緒にはしゃぐのは苦手で、いつも本ばかり読んでいる暗い子どもでした。今も同じです。なにか得意なことや飛び抜けた才能があるわけでもありませんし、友人も多くない。私はなんの取りえもない、つまらない人間です。自分の力でまっすぐ立っている赤木さんが、少し、うらやましいです」

赤木は眉を持ち上げ、少々面食らった顔で梨代子のことを見ていたが、紅茶のカップを手に取ると中身を飲み干した。
ひと呼吸置いた梨代子は、脈絡なく自分のコンプレックスをさらけ出してしまったことが急に恥ずかしくなった。

「………ごめんなさい、いきなりこんなこと」
「梨代子はつまらない人間なんかじゃねぇよ」

梨代子が顔を上げると、赤木は目を合わせて笑った。

「俺の知らないことをたくさん知ってる。本を読むのも上手いじゃねぇか。仕事だってちゃんと毎日がんばってるの、俺は知ってるぜ」
「赤木さん……」
「だから、そんなに自分を卑下するな。梨代子は十分、魅力的だよ」

赤木は手を伸ばし、梨代子の頭を犬にでもするようにわしわしと撫でた。梨代子は少し困ったような顔でされるがままになっていたが、小さな声で「ありがとうございます」とつぶやいた。赤木の手は暖かく、梨代子の心のわだかまりを溶かしていくようだった。

「それにな、俺の方こそもう、なんの取りえもない人間だ」
「えっ…」
「あそこの組だけじゃない。俺はな、代打ちとして牌をつまむのは辞めにすることにしたんだ」
「……なぜ、ですか」
「勝てないからさ」
「勝てない…?」
「ああ。俺はもう、だめなんだ」

赤木はそれだけ言って、からりとした顔で微笑んだ。

「もうこの話は終いにしようや。そうだな、なにか話を読んでくれないか。梨代子の声が聞きたいよ」
「……はい」

梨代子はテーブルの上に置いてあった本を手に取り、しおりが挟んである場所を開いた。

「今日はこの、『おどっておどってぼろぼろになったくつ』にしましょう」

豊岡組の男との会話の中で、赤木は「神域の男は死んだ」と言い放った。話の内容から察するに、神域の男とは赤木の異名であろう。神の域に住まう男は死んだ。それがどういう意味なのか梨代子にはわかりかねたが、赤木が代打ちを退くのには、そのことが関係している気がした。
メガネのレンズを通して見る赤木は、少し疲れているように見えた。

「むかし、あるところに、ひとりの王さまがいました。王さまには、十二人のおひめさまが、ありましたが、そのおひめさまたちは、いずれおとらぬ、美しいかたばかりでした…」



Die zertanzten Schuhe
KHM 133