6. 金の鳥




「それから、王子たちは、生きているあいだじゅう、なに不足なくしあわせにくらしました」

グリム童話の『金の鳥』を読み終え、梨代子は本をぱたんと閉じた。
梨代子のななめ前に座った赤木はいつもの調子でウイスキーを飲んでいたが、ふいにグラスをテーブルに置いて立ち上がると、梨代子の隣りに腰をおろした。梨代子は、肩が触れるほど近くにやってきた赤木をいぶかしげに見つめ、膝の上に置いた本の表紙を撫でた。

「なぁ、梨代子」
「はい?」
「金の城のお姫さまは、キスすると言うことを聞くようになったろ」
「ええ、そうですね」

『金の鳥』は、お人好しで少し抜けているところのある末の王子が、賢いキツネの助けを借りて試練を乗り越え、金の鳥、金の馬、金の城のお姫さまを手に入れるという、華やかな冒険物語だ。 その中に出てくる、金の城の美しいお姫さまは、末の王子にキスをされるとすっかり王子の言うなりになり、最後に二人は結婚する。

「それがどうかなさいましたか」
「だったら梨代子、お前さんはどうかな」

そう言うと赤木は梨代子の肩に手を乗せ、ぐっと身をせり出して顔を近づけた。白い髪が梨代子の視界いっぱいに迫り、メガネが赤木の顔にぶつかって、レンズがカツンと音をたてる。そのまま赤木は顔を少し傾けて、唇を重ねた。
あまりにも突然の行為であったので、梨代子は目を閉じることさえできなかった。

三秒間ほど触れるだけの軽い口づけをよこした後、赤木は何事もなかったような顔で体を離した。梨代子は目を大きく開いて固まったまま、赤木を見つめた。唇の上には、わずかにウイスキーのピート香が残っているような気がした。
赤木は満足そうに微笑むと、テーブルの上に置かれていたマールボロの箱を手に取り、タバコを出して火をつけた。

「…赤木さん…」
「なんだい」
「……赤木さんはいつも、こんなに、いきなりなんでしょうか」
「はは、そりゃどういう意味だ?」
「それは、」

女の人を口説くときに――と続けようとして、梨代子は思い直し口をつぐんだ。これでは「あなたはいま私のことを口説いています」と言っているようなものだと気づいたからだ。
梨代子はメガネの位置を直し、視線をカーペットの上に落とした。赤木の足が見える。風呂に入った後なので、スリッパの中は裸足だ。サイズがいくつなのかはわからないが、梨代子の足よりも大きいことは確かだろう。足だけではない。腕だって梨代子のものよりずっとたくましいし、細身の体も意外に筋肉質である。赤木はたしかに男性なのだ。

「私は…」
「ん?」
「私はかなり、赤木さんの言うこと、聞いていると思いますけれど」

不意をつかれた赤木は一瞬、きょとんとした表情をしていたが、それが先ほどの、金の城のお姫さまになぞった問いかけへの答えだということに気がつくと、くくっと喉の奥で笑った。

「ああ、そうかもしれねぇや」

赤木は笑いながら手を伸ばし、優しく梨代子の髪に触れた。梨代子は心臓をぎゅうと掴まれたような気分になったが、顔には出さなかった。

「梨代子は素直だからなぁ」

髪のふさをつまんだり、指にくるくると巻きつけたりして遊んでいる赤木に身を預けながら、梨代子は返す言葉を見つけられずにいた。

この人は私のことをどうする気なのだろうか。
頭の片隅で梨代子は思う。

同じ屋根の下で何晩も共に過ごしていたが、今まで梨代子と赤木の間には、いわゆる男女としての関係は一切なかった。なにか物を渡すときに指と指が軽く触れ合うくらいで、ろくに体に触ったことすらない。
しかし、いつの間にか赤木は、梨代子の心のずいぶん深いところまで歩を進めていたらしい。先ほどのキスにしても、梨代子は自分でも驚くほどすんなりと赤木のことを受け入れていた。嫌悪感や拒絶の気持ちなどは全くなかった。ただ、せめてメガネを外すくらいの時間は欲しかったと思った程度だ。

梨代子は戸惑っていた。赤木にではなく、父親ほどの年齢の男に対して揺れている自分自身に、だ。いつの間にか、梨代子は自分の心がわからなくなっていた。今までどんな顔で赤木と接していたのかが思い出せない。
自分の心すら掴めないというのに、赤木の心など泣きたくなるほどわからなかった。どういった意味で頬を撫でるのか、なにを思って髪に触れるのか。どこかで、この先の甘い展開を少しだけ望んでいる自分に気がつき、梨代子はそれを深く恥じた。

「くすぐったいですよ」

髪をいじる手を止めない赤木にたまらず抗議の声をあげると、赤木は笑って手を離し、灰皿の上でくすぶっていたタバコを持ち上げた。

「悪い悪い。つい面白くってな」

梨代子は言い訳のように不満気な表情をつくって見せると、ソファーの端に寄って、赤木から少しだけ体を離した。軽く手を伸ばせば触れられるほどの、半人分だけ開いた二人の距離は、そのまま梨代子の迷いを表しているようでもあった。

梨代子は、タバコを吸う赤木の横顔をこっそりと見つめた。赤木は髪が白いのでぱっと見は老けて見えるが、顔立ち自体は実年齢よりも若々しい。それでも目尻や口元にはしっかりと細かいしわが刻まれていて、彼の生きてきた年月の長さを思わせた。
五十二歳だと赤木は言っていた。梨代子よりもふた回り以上、年上だ。

「赤木さん、もしかして酔ってます?」
「さあな」
「だって、なんだか今日は少し変ですよ」
「そんなことないさ」

赤木の吸うタバコの煙が梨代子を包む。
目の前のテーブルの上にはマールボロの箱とライター、灰皿とグラス、それからバランタインの緑色のボトルが置かれている。ボトルの中のウイスキーは、もう半分よりもかなり少なくなっていた。


その晩、赤木はそれ以上なにか変わったことをするわけでもなく、眠たそうにあくびをひとつすると、いつものように「おやすみ」とだけ言って、寝室のある二階へと上がっていった。
梨代子はひとりきりの居間で、本を開いてもう一度『金の鳥』を黙読し、流しに置いてあったコップを洗ってから、自分のベッドに潜りこんだ。布団の中で寝つくまで梨代子は、王子にいきなりキスされたお姫さまはいったいなにを思ったのだろうと、そればかり考えていた。



Der goldene Vogel
KHM 57