10. 死神の名付け親




「野村さん、ちょっといい?」

カウンターで本の返却受け付け作業をしていた梨代子は、名前を呼ばれて顔を上げた。

「こちらの方があなたのことをお探しよ」

そう言って振り返った図書館員の後ろにいたのは、根元まですっかり色の抜けた白い髪をした男、赤木だった。梨代子の顔を見ると、赤木は目を細めた。

「梨代子、悪いな、仕事中に」
「赤木さん」

梨代子は思わず椅子から勢いよく立ち上がってしまい、積んであった本を崩しそうになった。

あのどしゃ降りの夜に赤木が梨代子の家に来て以来、二週間と少しが経つ。その間、赤木は梨代子の前に姿を現さなかった。
あの日の赤木はひどく気落ちしていたようだったので、長く姿を見せない彼のことを梨代子はずっと心配していた。だが、目の前の赤木はどことなくさっぱりした顔をしており、梨代子は少しほっとした。

「ありがとよ、ねえさん。手間かけてすまなかったよ」
「いえいえ、とんでもないです」

赤木と梨代子が親しいらしいことに、同僚の図書館員は少し不思議そうな顔をしていたが、二人のことを気にしつつも仕事に戻っていった。赤木は大きめの革カバンと、細長い紙袋をひとつ手に持っていた。

「…ここの図書館で合ってたか…よかった」
「こちらにいらっしゃるなんて、どうかなさいましたか」
「いや、取り立ててなにか特別な用があるわけじゃないんだ。ただ、今日は梨代子の家に行こうと思ってな」
「あら、でしたらこちらに来ていただかなくても、いつものように直接うちにいらっしゃって大丈夫でしたのに」
「ああ…そうしようと思ったんだが、…お前の家の場所が……」
「はい?」
「…や、なんでもない……あーっと…、たまには図書館に来るのも、いいかなと思ったんだ」

赤木はわずかに眉をしかめて、右手に持った紙袋にちらりと目を落とした。大きさからしてなにかのビンが入っているらしい黒い紙袋には、白字の筆記体で店の名前らしきものが小さく印刷されていた。

「仕事は何時までだい?ええと…、今日は何曜日だったかな…」
「今日は土曜日ですので、ここは五時までです。もう三十分ほどで閉館ですね」
「そうか。なら、梨代子の仕事が全部終わるまで待ってるよ」
「すみません、できるだけ早く終わらせるようにしますから」
「俺のことは気にしないでゆっくりやってていいぜ。じゃあ、邪魔したな」

赤木は手をひらりと振って、規則正しく並んでいる本棚へと顔を向けた。以前にも赤木と似たようなやりとりをしたことがあるのを、本の海の中に消えていく赤木を見て、梨代子は思い出した。

赤木と初めて会った日からずいぶん経つが、いまだに彼がなにを考えているのかはさっぱりわからない。きっといつまで経ってもわからないのだろう。
赤木の住む賭け事の世界に自身も身を浸していれば、あるいはわずかにでも彼を理解することが可能なのかもしれない。だが、梨代子にはとてもそんなことはできない。梨代子はそれを少しだけ悔しく感じた。



***



梨代子ができあがったばかりの夕飯をテーブルの上に並べていると、椅子に座っていた赤木はそれを軽く手伝いながら、妙にはっきりとした声で「ありがとう」と言った。
食事の間中、赤木はわずかに微笑んでいて、なんだか少しいつもと違う気がすると梨代子は思った。

「ウイスキー、持ってきてくれないか」

食事が終わり、ソファーに座ってタバコを一本だけ吸った赤木はそう言った。梨代子がバランタインのボトルと、グラスなどを持っていくと、赤木は満足そうに笑った。ボトルの中身のウイスキーは、もうあと一杯か二杯分しか残っていなかった。

「ああそうだ、梨代子」
「はい、なんでしょうか」
「これ、お前にやろうと思って買ってきたんだ。こいつは俺がみんな飲んじまったから」

赤木はソファーの端に置かれていた紙袋
を引き寄せた。彼が図書館に来た時から持っていたものだ。
赤木は紙袋の中から細長い箱を取り出し、梨代子に差し出した。箱にはバランタインのロゴと、30という数字が書かれていた。

「あ、ありがとうございます。そんな、気をつかっていただかなくても大丈夫でしたのに」
「いいんだ、世話になったから。親父さんにでもあげてくれ」

世話に"なった"という過去形の言い方が少し引っかかったが、梨代子はあまり気にしないことにして白い箱を眺めた。箱の表記からして、入っているのはバランタイン30年だろう。目の前にあるバランタイン17年よりもひとつ上のグレードのウイスキーで、少々値の張るものだ。
赤木が手土産としてなにかを買ってくるのは初めてのことだった。梨代子はその真意を計りかね、箱の文字を指でなぞった。

「そういえば、今日はずいぶんと大きなカバンを持っていらっしゃいますが…」
「ああ、明日はこのまま、岩手に行くんだ。そこに寺の住職やってる友人がひとりいてな」
「あら、ご旅行ですか」
「いいや。もう東京には戻らないつもりなんだ」
「え…?」

顔を上げた梨代子に、赤木はかすかに微笑みかけた。

「さよならだよ梨代子。今日はお別れを言いに来たんだ」

梨代子は驚いて赤木の顔を見つめた。すぐ隣に座っている赤木は、ただいつものように静かに梨代子のことを見ている。

「お引っ越し、ということですか」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるな」
「それは…、どういう、意味でしょう」
「そうさなぁ。上手く言えねぇけど、とにかく今日でさよならだってことだよ」

赤木はほとんど空になった、バランタインの緑色のボトルを持ち上げた。

「これの中身がなくなったら、東京を出ようと決めてたんだ。ちょうど全部なくなるくらいだろう」
「……そう…だったんですか…」

そうと知っていたら、新しいものにこっそり替えておきましたのに。
梨代子はそう言おうとして、あまりに未練がましい自分の心に気がつき、悲しげに眉を寄せた。
岩手のどこにお住まいになるんですか。住所は、電話番号は。どうして東京を出られるんですか。会いに行ってもいいですか。
口に出せず飲み込んだ言葉は、梨代子の胸をきりきりと締めつけた。ここまで自分が赤木のことを想っていたなんて、梨代子は知らなかった。

もともと赤木と梨代子とは、普通の友人知人関係からは逸脱した、奇妙で不安定な関係だったのだ。梨代子は赤木の連絡先を知らないし、赤木も梨代子の家の電話を鳴らしたことはない。
浅いようで深く、深いようで浅い繋がり。ただすれ違っただけの他人だとも、家族同然の関係だとも言える。いや、そう思っていたのは梨代子だけで、赤木はもっと別の捉え方をしていたのかもしれない。
わからない。梨代子にはなにもわからなかった。
ただ、赤木にはもう会えないのだということは、痛いほどはっきり理解した。

「でしたら、少し待っていてください」

梨代子は立ち上がって台所に行くと、食器棚からグラスをひとつ持って、赤木の隣に戻った。

「今日は私もいただきます、ウイスキー」
「お前、酒は飲めないんじゃなかったのか?」
「飲まないだけで、飲めないわけじゃないんですよ」

梨代子がそう言うと、赤木はそうかとうなずいて笑った。ふたりはグラスに氷を入れ、ウイスキーの水割りを作った。バランタインのボトルは、それですっかり空になった。

「せっかくですし、乾杯しませんか」
「ああ、そうだな」

ふたりはグラスを持ち上げた。赤木の穏やかな顔に、梨代子はわけもなく泣きそうになったが、それを堪えて微笑んだ。

「乾杯」
「乾杯」

グラスを合わせると、カチン、とガラス同士がぶつかる小気味よい音がした。
梨代子はウイスキーを口に含む。独特の芳醇な香りが鼻をつき、喉と胃が熱くなるようだった。飲み慣れない酒は、正直なところあまり美味しいとは思えなかったが、赤木と同じ空間を共有しているというだけで梨代子は十分過ぎるほどだった。
グラスの中の薄い琥珀色のウイスキーは、梨代子の両手の中でゆらゆらと揺れた。

「なぁ、梨代子。なにか話を読んでくれないか」

いつものように赤木が言う。梨代子はよく働かない頭で数秒間考えてから、ウイスキーのグラスをテーブルに置いた。

「今日は、私がグリム童話の中でいちばん好きなお話をお読みしますね」

梨代子は本棚に行くと、すぐに一冊の本を持って戻ってきた。

「梨代子のいちばん好きな話かい」
「ええ。いつか読もうと思っていたのですが、最後になってしまいましたね。『死神の名付け親』です」

梨代子は本をめくり、『死神の名付け親』の最初のページを開けた。黒衣をまとった骸骨姿の死神が、赤ん坊を抱いている挿絵が描かれている。
赤木がグラスを動かし、氷とガラスがぶつかるかすかな音が鳴った。


ある貧しい男に息子がひとり生まれる。名付け親を探していると、神、悪魔、死神に出会うが、男はいちばん公平だからと死神を選ぶ。
その息子が大人になった時、名付け親である死神が現れ、森に生えている薬草を見せて言う。「お前を医者にしてやろう。お前が病人のところに呼ばれたら、私が姿を見せる。寝ている病人の頭の方に私がいれば、どんな病気もこの薬草を飲ませれば治る。だが足元に立っていたら、その病人は私のものだ」
死神のおかげで名高い医者になった息子はある時、病気の国王のもとへと呼ばれる。死神は足元に立っていたが、息子は死神を騙して国王の命を救う。死神は怒り、二度目はないぞと脅したが、 次に姫が病気になった時、息子はまた同じ方法で死神を騙して命を助ける。
怒った死神は息子を洞窟に連れて行く。そこでは大量のロウソクが燃えており、そのひとつひとつが人の命なのだという。死神は息子に彼の命のロウソクを見せる。今にも消えそうなそのロウソクに息子は驚き、大きなロウソクに火を接ぎかえてくれと頼む。死神はそれを了承するが、作業をわざと失敗し、 ロウソクの火は消え、息子は死んでしまう。


読み終わった後、梨代子は本を開いたまましばらく黙っていた。

「不思議な話だな」

赤木はそう言ってグラスを傾けた。

「子どもの頃から好きなんです、このお話。最後のシーンが特に印象的ですよね。洞窟の暗闇の中に、人の命のロウソクが何千本何万本と灯っている景色が目に浮かぶようで、それが怖いけれどとても綺麗で…」

梨代子はメガネを外し、レンズについたゴミを爪で落とした。そのまま視線を上げると、目に映るものは全て水でにじんだようにぼやけている。時計の文字盤も壁にかかった絵も赤木の姿も、はっきりとは認識することはできない。
メガネを外せば世界は優しい。見たくないものは見ずにすむ。

「赤木さんは、死神の名付け子のような方ですね」

それは梨代子がずっと前から思っていたことだった。実は半分人間ではないのだと言われたほうがよほどしっくりくるような、赤木はそんな男だ。
目の前にあるウイスキーは、ぼんやりとしたハチミツ色に輝いている。

「残念だが、人間以外の知り合いはいねぇなぁ」

そう言って赤木は笑った。

「しかし、人の命がロウソクの火だっていうのは面白いな」
「そうですね。あまり他のお話では見ない表現です」
「なぁ、梨代子」
「はい」
「俺はな、もし自分のロウソクが消えかけてるのがわかったんなら、自分でそいつを吹き消してやろうと思うんだ」
「……赤木さんは、そういう方ですよね」
「ああ、そうさ。俺はいつでも俺でいたいんだ」

赤木は梨代子の膝の上に置かれていたメガネを取ると、つるを開いて梨代子の顔にかけさせた。
レンズを通してくっきりと細部まで形を結んだ赤木は、梨代子の目をまっすぐ見て静かに笑った。

「梨代子も、自分の心を見失っちゃいけねぇよ」


それから、赤木は梨代子と軽い世間話をした後、いつもと同じく日付が変わる前に「おやすみ」と言って居間を出ていった。

梨代子はとても布団に入る気になれず、長いことソファーに座って、タバコの吸い殻が残った灰皿をひとりきりで見つめていた。
赤木のことを考えていると、堪えきれなかった涙が不意にはらりとこぼれたが、梨代子は慌ててそれを拭った。そしてこんなに悲しいのは、慣れないウイスキーに酔ったせいだということにした。



***



朝、いつもより早く起きた梨代子は、赤木のために朝食を作った。白米と味噌汁に卵焼きとサラダ、昨日の残りの野菜炒めというメニューだった。少ししてから起きてきた赤木は、「もう梨代子の飯が食べられなくなるのは残念だな」と笑った。
朝食を食べながら赤木は、梨代子が出勤する前に家を出ると言った。ここから駅までは歩くからという赤木をなんとか引き止め、梨代子はタクシー会社に電話をし、家の前までタクシーを呼んだ。

タクシーを待つ間、梨代子は落ち着かず、食器を片づけ、テーブルを拭きと所在なさげにあちこち動いていた。なにか赤木と話をしたいと思ったのだが、なにを話せばいいかわからなかったし、気を抜けばまた涙がにじんでしまいそうだった。
対照的に赤木はソファーに深く座り、満足気にゆっくりとタバコをふかしていた。

しばらくして、家の前に車が止まる音がして、梨代子の心臓はどきりと鳴った。

「タクシーが来たみたいだぜ」
「……そう…ですね…」
「それじゃあ、さよならだな」

赤木はカバンを持ち上げると、居間から玄関までの短い道のりを、迷いのない足取りで歩き始めた。梨代子はその後ろを、唇を噛みながらついていった。
自分の履き潰された革靴をつっかけ、赤木は玄関のドアを開けて言った。

「今までありがとうよ」
「こちらこそ、ありがとうございました」

たたきに出ていたサンダルに足を入れ、赤木と一緒に外に出た梨代子は、その背中にすがりつきたい気持ちを必死で押し殺した。
家のすぐ前に止まっていたタクシーは、赤木が近づいて来たのを見てドアを開けた。

「じゃあな」

荷物を座席に乗せ、赤木は梨代子に向かって軽く手を挙げた。
梨代子はもうどうしようもなくなり、うつむいて服の裾を握ったり離したりしていたが、とうとう叫んだ。

「赤木さん!」

タクシーに乗りこもうと、ドアに手をかけていた赤木は、驚いたように振り向いた。

「ごめんなさい、少し、少しだけ待っていてくださいますか!すぐに戻ってきますから!」

梨代子はそれだけ言うと、踵を返して駆けだした。玄関を開けサンダルを放り、廊下を過ぎ、居間まで走って行くと、本棚からグリム童話の本を一冊抜き出す。それは昨日の夜に読んだ本だった。
梨代子はまた走って赤木のもとまで戻ってくると、肩で息をしながら、タクシーの傍に立って待っていた赤木にその本を差し出した。

「これ、差し上げます、新幹線の中での暇つぶしにでも、使ってください。昨日読んだ『死神の名付け親』と、赤木さんがいちばん好きだって言っていた、『金の毛が三本ある悪魔』も入ってますから、どうぞ」

赤木は本を受け取り、梨代子を見た。

「いいのか、貰って」
「はい、頂いたウイスキーのお礼です」
「そうか。なら、ありがたく貰っとくよ」

梨代子はまだ息を弾ませながらも、赤木の顔を見上げた。赤木の薄い色の瞳と、梨代子の焦げ茶色の瞳がまっすぐぶつかる。
梨代子は赤木の手を取り、両手で握った。鼻の奥がつんとして目の前がぼやけたが、赤木の目を見つめることはやめなかった。

「赤木さん、あなたに会えて良かった」

今にも泣き出しそうな顔で、梨代子は笑った。

「俺もだよ、梨代子」

赤木は梨代子の手を握り返し、優しく微笑んだ。




タクシーが走り去って行った後、梨代子は数分の間、玄関前に立って空を見ていた。赤木がこれから行く予定である岩手の空も、東京と同じように晴れているといいと思いながら。
くっきりと青い空には、ちぎれた綿のような薄い雲がひと筋ふた筋、漂っていた。もう、悲しさは感じなかった。

梨代子は深呼吸をひとつすると、仕事に出る支度をするために、家の玄関のドアを開けた。




Der Gevatter Tod
KHM 44