※「どうかキミの未来に幸多かれ」→「それはきっと初恋なのだ」の続きです。





数年前に改築したばかりだという病室は、白を基調とした清潔感のある美しさを見せていた。しかし新しいとはいえ、やはり病院特有の消毒液のような匂いが漂っている。
ベッドの脇のイスに座ったリツカは、ふてくされたように口をとがらせた。

「もう、病院にかつぎこまれたって聞いたから会社早くあがってきたのに、ぜんぜん元気じゃない」

無駄に広いひとり部屋の、その真ん中にある大きなベッドの上に横たわっている老齢の男は、リツカの言葉を聞くと豪快に笑った。

「いやぁ、すまんすまん。わしは伝えんでええって言うたんじゃがの、あのアホどもが揃いも揃って大げさじゃけぇ」
「大げさっていうか、言葉が足りないっていうか…。ほんとにびっくりしたんだからね」

リツカはそう言いながら、自分の隣のイスに座っている白いスーツの男、原田を見た。原田はサングラスの奥で、同意するように片方の眉を少しだけ動かした。

「俺も孝次郎さんが病院にっちゅうんを聞いたときゃ、まさか撃たれでもしたんかと背筋が凍りましたけどね。まぁ、お元気そうでなによりですわ」
「元気っちゅうんとはちゃうじゃろ。しばらくは松葉杖なぁで歩けんし、明日は手術じゃけ」
「簡単な手術でしょ、自慢しないの。そりゃ階段から足すべらせて落ちれば、骨くらい折れるよ」
「いやぁ、まさかあげに見事に下まで転げ落ちよるとはの」
「やっぱりあの階段、角度も急だし危ないよね。これに懲りて、手すりくらいつけた方がいいんじゃない?」
「それは俺も賛成です。孝次郎さんがええなら、俺が手配しときまひょか」
「あー、ほうじゃな、ほんなら頼んどくかの」
「任しといてください」

原田は胸元から手帳を取り出すと、ペンを走らせてメモを書きとめた。
男は布団から上体を起こすと、手元にあった、ベッドをリクライニングさせるためのリモコンをリツカに差し出した。

「のぅ、リツカ、こいつはどう使うたらええんじゃろか」

この男はリツカの祖父であり、元三代目國柳会会長、松山孝次郎である。現在は一線を退いているが、國柳会の相談役という役職に就いており、國柳会やその関連組織の重鎮のような存在だ。
さらに原田にとっては、まだ極道の道に入ったばかりの頃にずいぶんと目をかけてもらった恩があり、組長にまでのぼり詰めた今でも頭の上がらない相手である。

今日の昼頃、孝次郎は自宅の階段を踏み外し、足を強打した。すぐに病院で検査をしたところ、左足のすねの骨が折れてはいたものの、幸いにも複雑な折れ方はしておらず、簡単な手術をするだけで退院できることとなった。
リツカと原田は孝次郎が入院したとの連絡を受け、それぞれ別口で見舞いに来たのだが、偶然にもほぼ同じ時間に病室を訪れたため、こうして隣に並んでいる。

「しっかしのぉ、わしも歳を食うたっちゅうことじゃな。まだまだ現役じゃと思うとったが、体にゃ確実にガタがきちょるの」

リツカに教わってリモコンを色々といじった結果、孝次郎はベッドの上部を持ち上げて背もたれのようにすることに成功した。足を動かさないように上体を起こした孝次郎は、リツカと原田を見ながら自嘲気味に笑った。

「何を言うてはるんです。孝次郎さんは十分お若いやないですか」
「お世辞はええよ。わしが老人なんは事実じゃけ。時代もぶち変わりよったしの。極道の世界でも、わしんような古い考えはよう流行らん。今は克美ら若者の時代じゃけ」
「克美さんももう若者って歳でもないけどね」
「ひと言多いで、リツカちゃん」

原田からの非難めいた言葉を無視して、リツカは孝次郎に視線を投げた。

「じーちゃんってば、ちょっと足折ったくらいでなに弱気になってるのよ。たいした怪我じゃないでしょ?」
「ほうじゃがのぉ…」

孝次郎は考えこむように窓辺に飾られた花を見ていたが、ふいに「リツカ」と名前を呼んだ。

「なぁに?」
「ここは暇じゃけ、新聞でも買うてきてくれんかの。あー、スポーツ新聞じゃな。どこのでもええ。小遣いならやるけ」
「スポーツ新聞?」

孝次郎は真面目な顔で、手元に目を落としている。

「うん、わかった。私だって働いてるんだから、お金はいらないよ」
「すまんの、リツカ」
「気にしないで。じゃあ、ちょっと行ってくるね」

リツカはカバンから財布を出してポケットに入れると、孝次郎と原田に軽く手を振って、病室の外に出た。出入り口の引き戸を大ざっぱに閉めてから、小さくため息をつく。
もちろん、新聞が読みたいなど、取ってつけた言い訳にすぎない。新聞などいつ買っても変わらないのだし、なんならすぐ外にいる部下にひと言伝えればいいだけの話である。それなのにわざわざリツカを立たせたということは、孝次郎は、原田と何かふたりきりで話したいことがあるのだ。
カタギには聞かせられない、女が聞くような話じゃない…。理由は大抵そんなところだ。リツカはもう、重要な話の際に蚊帳の外へ追いやられることに、すっかり慣れていた。
悔しい気持ちもあるにはあるが、自分を追い出す彼らの気持ちもわかる。だから結局いつも、こうして聞き分けよく空気を読んで外に出るのだ。

孝次郎のいる病室は角部屋で、廊下を少し行って左に曲がると、ナースステーションに差しかかる。
そこを通過しようとしたところで、ステーション前のイスに座っていた若い男がぱっと立ち上がった。

「あっ! リツカお嬢さん! お帰りですか!」

孝次郎の病室の近くには、何人か組の関係者が控えている。入院しているのが孝次郎で見舞客が原田なのだから、当然のことであろう。さてこの青年はどこの所属であったかなと考えながら、リツカは首を横に振った。

「ううん、ちがうの。じーちゃんから新聞を買ってきてくれって言われてね」
「新聞ですか? そんならオレが行きますから、お嬢さんは座っといてください!」
「え? いいのよ、私が行くから。気にしないで」
「お嬢さんにそんな仕事させられませんて! オレに行かしてください!」
「大丈夫よ、大した距離じゃないんだから」

リツカは青年をよけてロビーを進もうとしたが、青年はリツカの行く手を阻むように、目の前から離れようとしなかった。あまりにも彼がぴったりとくっついてくるので、リツカは少し困惑しながら立ち止まった。
青年の顔を見ると、自分よりもいくつか年下のように見える彼は、よくわからない熱意に目を輝かせていた。

「オレ、今なぁんもやることなくてえらいヒマなんですわ! 松山のおやっさんに新聞買うてくればええんですよね?」
「あ、うん…スポーツ新聞……」
「スポーツ新聞ですか! そっこーで買うてきます!!」

青年はそれだけ言うと、リツカの返事も待たずに廊下を走り出した。リツカはぎょっとして、慌てて青年を呼び止めた。

「ちょっ、ここ病院だから走っちゃだめよ! ゆっくり、ゆっくりでいいからね!」
「はい! そんならゆっくり買うてきます!」

振り返って答えた青年は、普通のスピードで歩き始めた。こうなるともう、何を言っても無駄であろう。リツカは彼の後ろ姿を見送り、仕方なく来た道を戻ることにした。

「お嬢」

ふいに声をかけてきたのは、ロビーの壁にもたれるようにして立っていた男だ。男はリツカに近づいてくると、苦笑しながら軽く頭を下げた。

「まったく、あのアホは…。なんやすんませんね、お嬢」
「あ、甲斐さん。甲斐さんも来てたんですね」
「そりゃ、組長の運転手ですからね、俺は」
「さっきの彼は新人さんですか?」
「ああ、田中いうて、こないだうちに入ったばっかです。あいつ、見ての通りやる気はあるんやけど、どーにもアホで。かないまへんわ」

甲斐はそう言いながら、楽しそうに笑った。
甲斐は原田の直属の部下で、運転手を務めることの多い男である。原田からはかなり信頼されており、側近のような役目も担っている。
まだ三十代になったばかりという若さと、気さくで親しみやすい性格から、リツカとも仲が良い。原田の組関係者の中で、リツカが最も頼りに思っているのがこの甲斐であった。
少々人相が悪いのと、左手の手首から肘のあたりにかけて、明らかに刃物でえぐられたような古傷があるのは、まあ、ご愛嬌だ。

「お祖父さん、大事にならずにほんま良かったですねぇ」
「ええ、私もびっくりしましたけど。階段から落ちるなんて信じられないですよね」
「組長はお話し中ですか」
「はい、追い出されちゃいました。なんか私には聞かせたくない話でもしてるんでしょう。仕事のことかな」
「それもあるんでしょけど、もしかしたら、お嬢の話、しとるんかもしれませんよ」
「私の話? まさか」

リツカが眉をよせると、甲斐はやや声をひそめ、意味深な顔でにやりと笑った。

「そんで、組長とはどないですか」

無論これは、原田とは上手くいっているのか、という意味だ。彼はリツカと原田の関係性を知る、数少ない人物のひとりなのである。

リツカと原田はずっと昔からの付き合いであり、今までは幼なじみのようにして過ごしてきた。
しかし、つい一年ほど前のアクシデントのようなキスを発端に、ふたりの関わり方は少しずつ変わっていき、なしくずしに男女関係と言えるような状態になった。だがもちろん、そんなことは大っぴらにできるはずもない。
原田は口に出したことはなかったが、リツカに手をつけたことが孝次郎に悟られれば、いくら自分でもどうなるかわからないと危惧している気配があった。孝次郎はたったひとりの孫であるリツカを溺愛しているので、正直なところリツカ自身にも、何が起こるのかは全く予測できていない。
だからリツカと原田の間には暗黙の了解があって、対面上はできる限り、今まで通りの距離感で接するように気をつけていた。もっとも、ふたりはずっと兄妹のような感じであったし、深い仲になってもそれはあまり変わらないでいたので、隠すのに大した労力は必要なかったのだが。
ただ、原田の運転手である甲斐だけには、役職の都合上、ごまかし続けるには厳しいものがあった。しかし甲斐は聡い男であったので、一から説明せずとも大体の事情に感づき、知らぬふりを続けてくれている。
ついでに知らぬふりをしながら、リツカに原田の情報を流してくれてもいることを、原田は気がついているのだろうか。

「どうもこうも、普通ですよ。特に変わったこともないですし…。というかご存知の通り、忙しくてぜんぜん会えないので、何かが起こる余地すらないです」
「今はうちの組も色々と忙しないですからね」
「私のことをどう思ってるんだか…。克美さんはクールだから、何を考えてるのかよくわかりません。いつもなんか怖い顔してるし」

仏頂面…と言いそうになったのを、オブラートに包んでクールと言い換え、リツカはため息をついた。
リツカと原田は、明確に恋人同士なのかと聞かれると困ってしまうような、曖昧な場所に立っている。ふたりの関係は友人と家族の延長線上にあって、その距離はある意味近く、ある意味遠い。
原田が自分のことをどういう存在として捉えているのか、リツカはいまだ掴みかねていた。

「そうでっか? 組長の方はお嬢のこと、いっつも気にかけてはりますよ。お嬢が何より優先っちゅう感じですわ」
「……ほんとですか?」
「ほんまです、ほんまです。ほら、ちょっと前もガサ入れのせいで、お嬢と食事する約束があかんようになりましたやん? あんときゃ大変でしたわ。まさか全部ほかして行くわけにもいかんし、渋々、ほんまに渋々お嬢に電話いれて…。そっからはもう目に見えてイライラしとって、思いっきり周りに当たっとりました」

含み笑いをもらす甲斐を見ながら、リツカはいつもの原田の様子を思い描いた。
いつも眉間に深いしわをよせ、何をしていても表情はさほど動かない。一緒にいても特に楽しそうな様子は見えない…というよりは、身内といる時の気楽な感じがあるだけだ。恋仲の甘さはない。
件のガサ入れの際に、行くことができなくなったと電話をしてきた時だって、淡々と事実を並べて伝えてきただけだった。

「うーん、それは…、たまたま虫の居所が悪かったんじゃ?」
「いやいや。お嬢はべっぴんさんですからね、放っといたらどっかの男にとられてまうんやないかって、恐ろしゅう思とるんですよ。知らんですけど」
「またそんな適当なことを…」
「組長、事務所なんかじゃ『はよリツカちゃんに会いたいー』ってぼやいてはりまっせ」
「えっ…、それはさすがにウソですよね…?」
「これはウソです」

リツカは思わず、口をへの字に曲げた。

「ちょっと甲斐さん……」
「ははは、すんまへんすんまへん。せやけど組長、口には出さんでも似たようなことは思うとりますって。お嬢のことがかわいくてしゃあないんですよ」
「もう……信じませんからね」

リツカはそう言ってそっぽを向いた。べっぴんだのかわいいだの言われて、少し恥ずかしかったのだ。どうも甲斐は、こういった調子の良いところがある。
甲斐は笑いながら、孝次郎の病室の方をあごでしゃくった。

「お嬢、どうです? お祖父さんと組長の会話、こっそり聞きに行ってみるっちゅうんは。ドアの外からでも、ちっとは聞こえるんやないですか?」
「ええー? できませんよ、そんなこと」
「大丈夫ですって、なんやおもろい話が聞けるかもしれませんよ。追い出されてばっかりなんもつまらんでしょ」
「それは…そうですけど」

正直、いつも話の輪に入れてもらえないことに対して不満はあるし、男だけでどんな話をしているのか知りたい気持ちもある。
甲斐はリツカの背中を、ぽんと叩いた。

「ほらほら、ここにおってもしゃあないですよ。あのアホが帰ってきたら知らせますから」
「うーん……じゃあちょっとだけ、行ってみようかな? どうせ何も聞こえないでしょうけど。あ、もし克美さんにばれたら、甲斐さんのせいにしますからね」
「あちゃぁ、お嬢もお人が悪い。だてにヤクザに囲まれて生きとりませんですわ」

病室のドアはそれなりに厚みがある。大声で会話をしているわけではないのだし、もし聞こえたとしても単語の断片くらいのものだろう。だから、少しくらいなら盗み聞きの真似ごとをしたって、ばちは当たらないのではないだろうか。
リツカは甲斐といたずらっぽい笑みを交わし合うと、さっき通った廊下を戻った。

すぐそこの角を曲がってしまえば、廊下には誰もいない。リツカだけがひとり、ぽつんと取り残される。
リツカはできるだけ足音をたてないようにして、病室までそっと近づいていった。何も聞こえないだろうと思っていたが、近くまで来ると案外、中の声が聞こえてくる。
よく見ると、病室のドアである引き戸が、ほんの数センチだけ開いているのだった。先ほど外に出た時に、あまり確認せずに閉めたせいだろう。図らずもそのおかげで、話し声が漏れているのだった。
リツカは少しどきどきしながら、ゆっくりとドアのすぐそばまで近づいた。部屋の中からはふたりの男の声が聞こえる。もちろん、孝次郎と原田の声だ。よく聞けば、会話の内容もわかる。
静かに耳をすましていると、國柳会や桜臨会といった単語が聞こえてきた。いつもの仕事の話だろう。
そのくらいなら、私を追い出さなくても良かったのに。リツカが少し憤慨した時だった。

「ほんでの、克美。リツカのことなんじゃがの」

いきなり飛びこんできた自分の名前に、リツカは思わず耳をそばだてた。

「ほんまはな、あん子には申し訳ないことをしとると思うちょる。わしがヤクザじゃけ、ようけ迷惑かけちょるじゃろ」
「そないなことあらへんですよ」
「いいや、リツカには悪いことしちょる。リツカはカタギじゃがの、わしの孫じゃけ、おえん目にあうこともあるかもしれん。あん子の両親は東京におるけ、なんかあったときゃ、わしがなんとかすればええ思っちょったが……。今日んことでな、わしも歳じゃけ、いつぽっくり逝ってもおかしないっちゅうんを痛感したけぇの」

孫の顔を見ながらそんなことを考えていたのかと、リツカは静かに驚いた。どうりで今日は、いつもより表情が固かったわけだ。

「克美」
「はい」
「わしにもしもんことがあったら、リツカを頼んでもええかの」

思いもかけぬ言葉に、リツカは目を見開いた。

「孝次郎さん」

珍しく、少し緊張したような原田の声。
リツカはこらえきれず、薄く開いたドアの隙間から、そっと中の様子をうかがった。
ベッドのすぐ横に座る原田は、ドア側に背を向けているため、どんな表情をしているのかはわからない。見えるのは、原田の広い背中だけであった。

「リツカちゃんのことは、俺が守ります」

原田はきっぱりとそう言って、孝次郎にぐいと頭を下げた。

「リツカちゃんが孝次郎さんの孫やからこないなこと言うんとちゃいます。俺自身がリツカちゃんのこと、ほんまに大事に思っとるんです。もし孝次郎さんとリツカちゃんの血が繋がっとらんでも、俺の返事は変わらんです」

初めて聞いた、原田の決意。リツカは自分の心臓が大きく高鳴るのを感じた。
原田は組長だ。スーツに隠された背中一面に彫られている刺青は、飾り物ではない。彼はその鮮やかな墨と共に、自らが率いている組の全てを背負っているのだ。
そしてリツカもまた、知らない間に背負いこまれていたらしい。
うるさく胸を打つ鼓動のせいで、立ち聞きしているのがバレてしまうような気がして、リツカはのぞき見するのをやめ、ドアの前から顔を離した。

「さすがは克美じゃな。わしが見こんだ男じゃけ、そう言うてくれる思っとったけぇの」
「はい」
「でもな、ええか、こっからがいっちゃん大事なとこじゃけん」

壁を背にひとりで顔を赤くしているリツカを置いて、会話は進んでいく。

「リツカも年頃じゃけ、結婚したいゆうて知らん男を連れてきよるかもしれんじゃろ」

ずいぶんと飛躍した孝次郎の言葉に、リツカはぎくりとしてまた耳をそばだてた。

「そう…ですね……」
「もうリツカも二十四じゃけぇの。ようは知らんが、付き合っとる男がおってもおかしない」
「はい…」

平静を装っているが、原田も内心は冷や汗ものだろう。なにしろ現在進行形でリツカと付き合っている張本人なのだ。

「あー、つまり…、リツカちゃんは誰とも結婚させんとか、そういうことですか」
「ちゃうちゃう、結婚は別にええ。問題は相手の男じゃけ」
「相手の男……」

聞こえてくる原田の声は固い。
まさか原田と自分の関係がばれてしまったのかと、リツカは背筋を凍らせながら息を殺していた。
そこに孝次郎の大声が響く。

「わしゃ昔っから決めとるけぇの! ええか、リツカはな、ヤクザの嫁には絶対にやらん! 絶っっ対にじゃけ!」

リツカは思わず、その場でずっこけそうになった。

「は…、はぁ……」
「ええかの、もしヤクザもんがリツカに手ぇ出しとったら、遠慮はいらん、ぶちまわしたれ。どこの組のもんでも構わんけぇ、わしが許しちゃる」
「…あー…、わかりました…。そんときゃあんじょうしときますわ…」
「頼むで、克美」

会話はまだ続いていたが、勝手におつかいに行った彼がそろそろ帰ってくる頃合いな気がしたので、リツカは忍び足で病室の前から退散した。
どうやら、原田とのことが孝次郎にばれたわけではないようなので、そこは安心する。受け取り方によっては原田に遠回しなプレッシャーを与えているように聞こえなくもないが、孝次郎はそんな回りくどいことはしない人間だ。
ヤクザの嫁には絶対にやらない。かつて孝次郎は、ひとり娘であるリツカの母にも同じことを言っていたのを、リツカは母から聞いて知っていた。(そのかいあってか、リツカの母はごく一般的なサラリーマンであるリツカの父と結婚した)
しかし、例えヤクザであっても『わしが見込んだ男』である原田とであれば、交際や結婚も許されるのであろうか。
胸をよぎった結婚の二文字に、リツカの脳は紋付袴の原田と白無垢の自分の姿を映し出したが、リツカは慌ててその想像図を打ち消した。微妙に現実味があるのが逆に恥ずかしい。シラフでする妄想ではない。

悶々としながら廊下を曲がると、不意打ちのように甲斐の声が耳に響いた。

「こんのドアホ! こないに新聞買うてきてどーするつもりや! お前は数の勘定もできんのか!?」

リツカが顔を上げると、例の青年が甲斐に叱られているところだった。

「甲斐さん、どうしたんですか?」

近づいて声をかけると、甲斐は呆れ顔で青年を指さした。

「ああ、見たってくださいよ、お嬢。この新聞の山」

見れば青年の手には、少なくとも六、七紙はあろうかという新聞の束が抱えられている。なぜそんなに大量なのか、リツカが首をひねると、青年は照れたような笑みを浮かべた。

「いや、売店まで行ったはええものの、どれを選べばええやらわからんかったんで、とりあえず売っとったスポーツ新聞、全部買うてきました」
「なんでそうなるねん! んなもん、一個か二個あれば十分やろ。そんくらい考えんでもわかれや」
「まぁ、ちっとばかし多いかなとは思ったんですけど」
「ごっつ多いわ」

青年は新聞の山を抱えたまま、バツが悪そうにうなだれている。その様子を見ているとなぜだか無性に面白くなってきて、リツカはくすくすと笑った。

「ほれ見ろ、お嬢にも笑われとるやんか」
「ごめんなさい、なんか笑えてきちゃって。えーと、田中くんだよね」
「は、はい」
「買ってきてくれてありがとう。これだけあれば、じーちゃんも退屈しないね」
「はい!」

青年は顔をぱっと輝かせた。甲斐が静かにため息をつく。
実際問題、孝次郎はカープの勝敗の行方にしか興味がないので、新聞はひとつあれば十分なのだが、それは黙っておくことにした。







リツカは会社から病院まではタクシーで来たが、原田が送ると言うので、帰りは原田の車に乗ることにした。運転手はもちろん甲斐である。
何人かいた他の組員は原田が別の場所に回したため、車にはリツカと原田だけが残された。

車の後部座席に原田と座ったリツカは、先ほど聞いてしまった会話のことをぼんやりと反芻していた。原田は何を考えているのか、ずっと窓の外を見ている。あたりはもう、すっかり夜だ。
後部座席は三人がけなので、リツカと原田の間にはひとり分の余裕がある。リツカは時折、原田の横顔を盗み見た。
原田はいい顔をしていると思う。いかにもヤクザな強面だが、厳しく寄った眉も、鋭い眼光も、嫌いじゃない。低い声の大阪弁も、見た目よりずっと繊細な動きを見せる大きな手も、二の腕から太ももにかけて彫られている美しい刺青だって、嫌いじゃない。
というより、どちらかといえば好きな方だ。

「ねぇ、克美さん」
「ん。なんや」
「克美さんってさ、かっこいいよね」
「はぁ? 急になんのこっちゃ」
「かっこいいなぁって思ったから。そうやって遠くを見てる顔とか、すごく素敵だよ」

リツカの言葉に、原田は不審な顔をした。
運転席の甲斐が口の端だけで笑うのがちらりと見えたが、気にしないことにする。

「どないしたん、リツカちゃん」
「別になんでもないよ」
「いやに褒めるやん。なんや気持ち悪いで。さぶいぼ出るわ」
「ほんとのことなんだからいいでしょ、たまには。久しぶりに会えたんだし」

こちらを横目で見る原田の顔を見ていると、なんとなく頬がゆるんでしまう。にやけるリツカに、原田はますます疑いの視線を強くした。

「なんや企んどるやろ」
「なんにも」
「よう言うわ」

原田は呆れたように体ごと窓の方を向いてしまった。
女の自分よりもずっと広い背中が視界に映る。その背中に命を預けて生きるのも悪くないと思えるくらいには、リツカは原田が好きだった。

「まったく、なんやねん今日は。えらいなんぎな日やで、ほんまかなんわ」
「ほんまほんま、なんぎやな」
「リツカちゃん、相変わらず大阪弁ヘタクソやな。いつまでたっても東京弁は抜けんし」

かっちりと着込んだスーツの下の、背で睨みをきかせる虎にキスを送りたいと思いながら、リツカは言った。

「ゆっくり覚えてくよ」




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