「あ、克美さん。タイミング悪かったね。じーちゃん、ちょうど今さっき出かけちゃったのよ」

玄関の引戸を開けて原田の顔を見上げたリツカは、眉を少し下げて申し訳なさそうな表情を作った。
原田はさっさと中に入って玄関を閉めると鍵をかけ、慣れた様子で玄関脇の靴箱の中からスリッパを取り出した。

「そりゃ残念やな。でもまあ、今日はリツカちゃんの顔見に来たわけやからええわ。孝次郎さんにはいつでも会えるしな」
「そうなの?ありがと」
「前に会うたの、いつやったっけ。えらい久しぶりな気ぃするわ」
「えっと、この間の夏、くらいかな」
「夏か…」

リツカはパタパタとスリッパの音を響かせながら長い廊下を小走りで行き、応接間の戸を開けると、まだ玄関に立っている原田に声をかけた。

「ごめん克美さん、そこ座っててくれる?今お茶いれるから」
「おお、悪いな」

リツカは小さく笑って、台所へと消えていった。

原田は和室の応接間に入ると、座布団の上に腰をおろした。ほとんど無意識のうちにポケットに手をつっこんで煙草の箱を取り出しかけたが、少し考えてからその手を戻した。リツカが煙草の煙を好まないことを思い出したのだ。
かわりに首をひねって窓の向こうを見れば、いつもと変わらぬ広い庭が広がっている。ここからは見えないが、あの木の向こうには小さな溜池があって、メダカが泳いでいるはずだ。

この豪勢な日本家屋はリツカの祖父、松山孝次郎のものだ。孝次郎は原田が所属する組の傍系組織の元会長で、現在は組織運営を下の者に譲って一線を退いているとはいえ、いまだに大きな発言力を有している人物である。
原田はまだずっと若く駆け出しだったころ、孝次郎に随分と目をかけて可愛がって貰っていた。原田が現在の地位に就いているのも、彼の後押しがあった影響が少なくない。だから孝次郎は原田にとって、いまだに頭の上がらない人間である。そして、その男のたった一人の孫であるリツカも、原田にとっては特別な意味を持っていた。


静かに襖を開けて、湯呑と平べったい箱の乗ったお盆を持ったリツカが部屋に入って来た。

「はい、お茶」
「ああ、すまんな」
「あとこれ、お菓子。東京土産なの。食べて」

リツカは原田の向かいの座布団の上に座ると、箱を開けて原田に差し出した。東京土産だという菓子は、一口サイズの可愛らしいケーキだった。苺の絵の描かれたパッケージに包まれているそれは、特に皿に盛られることもなく、十数個入りの箱に収まったまま無造作に机の上に置かれた。湯呑にも茶托はついていない。
関西でも有数の権力を誇る暴力団組長である原田を、こんな扱いでもてなすことのできる女は日本広しと言えどもリツカくらいしかいないだろう。

「リツカちゃん、今は大学生やったっけ」
「うん、そう。四月から二年生」
「もう学校は休みなんか」
「先週から春休みだよ」
「そうか。大学はどんな感じや」
「まあまあかな。楽しいよ。友だちもたくさんいるし、勉強も面白いし。課題がいっぱいあるのは大変だけど。克美さんは?やっぱり忙しい?」
「あー、まぁな。毎日毎日、やることは死ぬほどあるで」
「いいの?こんなとこで遊んでて」
「たまには息抜きくらいさせてぇな」

原田は熱い緑茶をすすると、菓子をひとつつまみ上げて包装紙を剥き、口に放りこんだ。甘さの中にほんのりと苺の酸味を感じる。いかにもリツカの好みそうな味だ。

そういえばこいつは小さい頃から苺が好きだったなと、原田は菓子を咀嚼しながら考えた。

リツカとその両親は東京に住んでいたが、夏休みなどの長期休暇を利用して、リツカはよくこの家に遊びにやって来た。仕事の都合で同居できないぶん、孫くらいは長く側に置いておいてあげようという、孝次郎の一人娘であるリツカの母の配慮であったのだろう。

原田がリツカを初めて見たのは、リツカがまだ小学校にあがったばかりの頃だった。その頃、下っ端だった原田は数人の若い衆と共にこの屋敷で暮らしていた。
無愛想で目つきも悪く、決して子供の扱いが上手いとはいえなかったはずの原田に、リツカは何故だかよく懐いた。遊んでやっている訳でもないのに後ろをくっついて回るリツカに、若い原田は頭を抱えたものだ。何をすれば子供が喜ぶかなど皆目わからないし、かといって邪険に扱うこともできない。苦肉の策で麻雀牌を持ち出し、積み上げて遊んだりしたことを原田はぼんやりと覚えている。
そうこうしているうちに、原田はいつの間にかリツカの遊び相手兼お目付け役のようになり、孝次郎はリツカがやって来ると決まって原田を呼びつけるようになった。それはリツカが大きく成長した現在でも変わらず、リツカは原田のことを年の離れた兄のように慕っている。

「こっちには何日くらいおるん?」
「んーと、あと一週間くらいかな。あのね、振袖を取りに来たのよ」
「振袖?」
「うん。お母さんが着たやつがこの家にあるの。来年の成人式にはそれを着ようと思って。式の前に写真撮らなきゃいけないから、うちに持って帰るんだ。赤地で一面に花が散ってる柄でね、すごく豪華で綺麗なんだよ」

原田はゆっくりとまばたきをして、手元に注いでいた目線を持ち上げた。

「……もう、ハタチになるんか」
「うん。五月が誕生日だから、あと三ヶ月で二十歳」

リツカは嬉しそうな声でそう言って菓子をつまんだ。

ずっと小さい小さいと思っていたのに、大人になってしまうのか。
原田は驚きにも似た思いで、改めてリツカの姿をまじまじと見つめた。

当たり前のことであるが、目の前で菓子を頬張っているのは遊んでやらねばならないような幼い子供などではなく、芯の強そうな顔をした若くて綺麗な娘だった。
小さくて頼りなさげだった体はすらりと伸びて女らしい丸みを帯びているし、あんなに幼かった顔立ちもどこかへ行ってしまって、すっかり大人びた表情になっている。薄く化粧をし、背筋が伸びて凛とした様子のリツカは、なんとなく初対面の知らない女のように原田には思えた。

「成人式はあっちでやるんやろ」
「そう、東京だよ」
「リツカちゃんの振袖姿見れへんのは残念やな」
「写真ならじーちゃんに送るからさ。それにお正月とかなら着る機会あるかもしれないし…、あ、そうだ、じゃあさじゃあさ」

リツカは食べ終わった菓子の包み紙を畳んでいる手を止めて、にっこりと笑った。

「克美さんの結婚式には振袖着ていくね」

その言葉に、思わず原田は眉間に皺を寄せた。

「どういう意味や、それ」
「克美さん、いい歳なんだからそろそろ結婚しなきゃでしょ。じーちゃんも言ってたよ、克美は組のためにも身を固めないと、って」
「ふん、余計なお世話や」
「ね、付き合ってる女の人とかいないの?」
「おらんな」
「ほんとに?一人も?」
「ああ」

その答えは嘘ではなかった。
たしかに、金と身体を交換するだけのような女なら原田には幾人もいた。だがリツカの言う『付き合っている人』というのは、打算抜きの純粋な恋人という意味なのだろう。そんなものを原田は持ったことがなかったし、欲しいと思ったこともなかった。
恋愛をするには昔も今も、原田は忙しすぎたのだ。そんな無駄なものにエネルギーを向けるより、面倒は一切なしで、金を払っておしまいなドライな関係のほうが合理的な原田の性に合っていた。そもそも原田は心のどこかで、女という生き物を侮蔑している節があった。どれだけ口では甘い言葉を囁いてみせようと、結局は金目当てなのだろう、と。

ふと、自分が冷たいシーツの上で気怠げに掻き抱く若い女と、すぐ向かいであどけない顔をしているリツカとは、歳も背格好もたいして変わらないのだということに気がついた原田は、なんだか妙な気分になった。

「なーんだ、モテモテすぎて選べないのかと思ってたのに」
「あのな、お前は俺をなんだと思とるんや」
「だって組長さんでしょ。どんな女の人でも選び放題じゃないの?」
「…まあ、ジジイ共から見合いの話は何度もきとるけどな。なんや気乗りせぇへんから全部断っとるわ」
「お見合い、すればいいのに」
「ふん、俺みたいなのに見合い話持ってくるような女なんて、どうせロクな奴やないで」
「へぇー?」

くすくすと笑いながらリツカが訊ねる。

「じゃあ、克美さんはどんな人がいいの?」

笑った顔にはまだどこか、あの頃の幼さが残っている。

「あー、せやなぁ、仕事の邪魔せぇへんでくれたらなんでもええわ」
「なにそれ、テキトーでしょ。もっとちゃんと考えてったら」

原田にはわからない。結婚なんてアホらしい、女なんて信用ならないと思いつつも、目の前で笑うこの娘とであれば、ずっとこうしていたって構わないと思ってしまうのは何故なのだろうか。

原田は湯呑を持ち上げ、大分ぬるくなった緑茶と共に、脳裏に浮かんだ『リツカちゃんみたいな子がお嫁にきてくれたらええな』という馬鹿みたいな言葉をひと息に飲みこんだ。


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