※「 どうかキミの未来に幸多かれ 」の続きにあたります。




「あのね、今度ひまがあったら大阪城に行ってみたいと思ってるの。小さい頃に一度行ったことあるけど、あのときは子供だったし、あんまりよく覚えてないから」

助手席に座って外を眺めながら、リツカは楽しそうにそう言った。

「それから、万博記念公園の太陽の塔も見たいな」
「城はともかく、あんなでっかい顔のついとる塔なんか見たってちいとも楽しないで」
「岡本太郎、好きじゃないの?」
「あー、ゲージュツはようわからんわ。まぁそれに、これからはずっとこっちに住むことになるんやから、別に焦らんといつでも行けるやろ」

信号が青に変わって、原田はアクセルを踏みこんだ。原田の私物であるダークグリーンのスポーツカーは、素直にするりと加速していく。

本革シートの助手席でのんきにあくびをしている若い娘、リツカは、原田の恩師の孫にあたる。
原田がまだ駆け出しの若者で、リツカが小学生だったころから互いを知っているので、かれこれ十五年近くの付き合いになるだろうか。いいかげん気心の知れた仲であるし、リツカ自身も祖父が極道者であるためそちらの方面に対する理解も深く、原田にとっては気を張ることなくほとんど素の状態で接することのできる珍しい相手だった。
リツカは両親の職場の関係でずっと東京に住んでいたのだが、自身の就職先が大阪に決まったので、大学を卒業してすぐこちらへと引っ越してきたのだった。
それで今日、原田はリツカを連れ、卒業祝い兼就職祝いと称して馴染みの日本料理屋へと出向いていたのであった。

「今度は一緒にお酒飲もうね」
「ああ。しっかし、まさかリツカちゃんと酒が飲める日が来るとは思わんかったなぁ。ほんの最近までこんなちっこくて、すぐピーピー泣いとったのに」
「もう、子ども扱いしないでよ」

リツカは唇をとがらせて、すねたようにそっぽを向いた。

原田が車を運転しているために酒が飲めなかったことを、リツカはまだ気にしているらしかった。無論、原田はそれも計算のうちで自ら車を回したのだ。運転手つきの車を使うことは原田にとって訳ないことだったが、第三者の存在がリツカとの時間に水を差すことを嫌ったのである。

「あそこの先のマンションやったよな」
「うん、そうだよ」

大通りから一本それた路地を曲がって少しすると、リツカがひとり暮らしを始めた大きなマンションが見えてくる。
自他共に対して厳しいが、孫にだけはとことん甘いリツカの祖父、松山孝次郎が、リツカが大阪に住むことになったのを非常に喜び、自ら防犯対策に優れたマンションを選んでその一室を買い与えたのだった。
もう子供じゃないのだから自分の住むところくらいは自分でなんとかすると、リツカ自身は孝次郎から部屋をもらうことを嫌がったらしい。だが、これも祖父孝行の一環であるからと両親にやんわりと諭され、結局はそこに住むことに決めたのだという。

「新卒だからお給料なんてたいしてもらえないし、家賃を払わなくてすむのはすごくありがたいんだけどね。駅からも近いし、建ったばっかりだからキレイで広いしさ。でもじーちゃんは私のこと心配しすぎなの。もう私は大人なのに、過保護もいいとこよ」
個室の席でタケノコの煮物をつつきながら、先ほどリツカはそうこぼしていた。


「ほら、着いたで」

原田はマンションの脇の路肩に車を止めて、リツカの方へ目をやった。リツカは少々もたつきながらシートベルトをはずすと、原田の顔を見てにっこりと微笑んだ。

「ありがと。また遊んでね」

肩のあたりにかかっていた髪がすべり、胸元のネックレスが揺れる。

まったくなんの疑いもなく、原田は腕を伸ばしてリツカの肩をつかんだ。そして気がついたときには体をよせて頭を傾け、唇を重ねていた。
白い首筋からは、かすかに甘いにおいが香った。

唇どうしが触れていたのはほんの数秒間だったが、原田の脳を後悔で焼くには十分な時間だった。
(やってしまった)
そう思ったときにはもう遅く、体を離したときに座席の革シートが擦れてぎしりと鳴った。

リツカは呆然とした表情で固まっていたが、少し遅れてなにが起こったのか理解すると、「あ…」と小さく声をもらしてうつむいた。
原田は思わず眉間の皺を深くし、口元へと手をやった。仕事がら身についたポーカーフェイスは崩れなかったが、原田も相当困惑していた。こんなことをするつもりなんて、微塵もなかったはずなのだ。


女と別れる時に口づけを交わすのは、いわば原田の習い性のようなものだった。

まだ原田が20代になったばかりの頃、愛人関係だったわがままな年上女が、いつも別れ際にキスをねだったのが始まりだった。無視するとひどく不機嫌になるので、原田は内心面倒だと思いつつも毎回してやっていた。
しばらくしてその女と別れた後も、入れ代わり立ち代わりで現れる女たちに、原田はなんとなくその儀式を続けた。大抵は喜ばれたし、気まぐれな女の機嫌をとるには上手いやり方だったからだ。

その癖が、こんなところで出てしまうとは。


「あー、……リツカちゃん」
「………」
「…リツカちゃん?」

うつむいたまま動かないリツカの顔をのぞき込むように、原田は少し体を屈めた。

「…どういう、つもり…?」

ちらりと原田を見たリツカの顔は、薄暗い中でもわかるほど真っ赤になっていた。

「……そんな…いきなりは、驚くよ…、なにか言ってくれれば、私だって…私だって……」

街灯のオレンジ色の光が、車内をぼんやりと照らしている。
いつもの女相手にするように余裕をもった含み笑いを返し、思わせぶりな態度で頭でも撫でてやるべきか。それとも素直に事故だったと謝るべきか。一見、無感情に見える瞳の奥で、原田の心は揺れていた。

リツカはまたうつむき、小さな声でつぶやいた。

「ファーストキス、だったんだよ…」

その言葉に、原田の頭の中で組み立てられていた画策はあっけなく吹き飛ばされた。

「なっ……もしかしてリツカちゃん、今まで彼氏……」
「い、いたよ!彼氏くらい!……高校生のとき、だけど…。…でもその子とは一緒に帰ったり、休みの日に遊んだりするくらいで、別れちゃって……、それからは、えっと……」
「一人もおらんのか」
「………」

リツカが非難めいた眼差しを送ってきたので、原田は自分が口をすべらせたらしいことを悟った。取り繕わねばと思ったが、なにを言えばいいのかわからない。今まで関係してきた女たちの中にリツカのようなタイプは一人もいなかった。

「……じーちゃんがああいう感じの人だから、やっぱりうちは普通の家とはちょっと違ったし…。…まわりの子たちと仲良くなればなるほど、なんとなく、私って普通じゃないんだなっていう距離感みたいなのを感じちゃったりして……うまく言えないんだけど…」

リツカは言い辛そうに語尾をにごした。

「…やっぱり、ヘン、だよね…。もうすぐ二十三になるのに、ろくに恋愛経験もなくて、キスするのも初めてなんて…」

二人乗りのスポーツカーの車内は少々狭く、原田とリツカの距離は近い。呼吸の音さえ聞こえてきそうだ。

「俺は、別にええと思うけどな」

思わず原田がそうつぶやくと、リツカは顔をあげた。唇をきゅっと結んで原田を見る。

「……だったら責任とってよ、克美さん」

先ほどまでの弱気な態度はどこへやら、リツカは背を伸ばすと運転席のほうへ身を乗りだし、原田の膝に手をついた。
その大胆な行動に、今度は原田の方がうろたえる番だった。

「責任って…リツカちゃん…」
「なによ、私の初めて奪っておいて」
「…そりゃ、言い方悪いで」
「あのね、克美さんだったら、大丈夫かもって思うの」
「なにが」
「…なにが、だろうね。私にもわかんない」
「なんやそれ」
「…ねぇ、私じゃダメ、かな」

くるりとした瞳に見上げられて、原田の身体にえも言われぬ感覚がせり上がる。

「……言うとくけどな」
「うん」
「俺はいろいろ面倒やぞ。覚悟せぇよ」
「…そんなこと知ってるよ」

リツカはほんの少しだけ笑って見せた。

それは、足を踏み外してまっ逆さまに落ちていくような、初めて味わう感覚だった。立場も建前もプライドもなにもかも全部どこかへいってしまって、原田は生身でリツカと相対していた。

「克美さん」
「なんや」
「さっきは、一瞬だったからよくわからなかったの。……もっかいしてくれる…?」

リツカはそう言うと、照れたようにせわしなくまばたきをした。

「目ぇ閉じとき」

原田が頬を包むように手をそえると、リツカは慌てて目を閉じた。緊張しているのか表情が硬い。膝に乗せられている手が、原田のスラックスをぎゅっとつかんだ。

まるで禁煙を破ったときのような背徳感に酔いながら、原田は静かに顔を近づけた。


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