「サデ!」
 名を呼ばれ、慌てて振り向いたその先には、肩で息をしている契約者の少年の姿が。そしてその隣では泥だらけになったイハナの姿があった。
 ーー危険だから付いてくるなと、念押しし、その後念のためにと荒縄で縛っておいたのに、何故来た。
 動揺の中で、サデはイハナの手に小振りのナイフが握られていることに気付く。そう、イハナは雨音の中に紛れていた少年の声に気付き、二人が戦闘を繰り広げる中、一人でこの夜の森を駆け回って少年を見つけたのであった。
「サデ、話はこの子イハナから……」
「おい、ガキ。うちのイハナを気軽く呼び捨てにするな」
「……すみません。イハナさんから聞いたよ。トゥリさんは僕たちの敵じゃない。むしろ同じ敵に追われている同士だ。だから止めてくれ!」
 少年ーーピルヴィの必死の説得にトゥリの体を押さえている力が弱まる。
 同士。今まで孤独にパヒン国の追っ手と戦っていたサデにとって、協力者が出来るほど安心なことはない。それはピルヴィを危険から守るにあたっても同様だ。
 今までの苦難、守ることの出来なかったかつての契約者を思い返し、サデは瞼を閉じる。そしてサデが出した答えは……、
「断る」
 放たれるは拒絶の言葉。
 絶望に目を見開くピルヴィを一瞥し、サデは再び冷たい視線をトゥリへと向ける。
「こいつはかつて自分の契約者を殺めている。信頼性は薄い。それに……」
 ここでサデはピルヴィの隣にいる少女を見た。
 ピルヴィと同い年程であろう少女は、その視線に僅かにおびえを見せたが、すぐに唇をきつく結び、真っ直ぐに視線を合わせてくる。
 夜の森は大人でも踏み入ることに抵抗がある。それをあの年若い娘が行ったのは、トゥリを危険を犯してまで守りたいという強い意志と、彼ならば死なないという信頼があったからだろう。
 だからこそ、サデはトゥリを許すことが出来なかった。
「こいつはまだ呪いを解くことが出来ていない。そんな奴を生かしたところで、サーダにやられるのが関の山だ。ピルヴィ、その娘を死なせたくなければ、しっかりと捕まえていろ!」
「呪いを解いていないだと……? お前、まさか!?」
「ああ、そうとも。せめてもの情けだ。最大の力を使い、貴様を冥土に送ってやる」
 動揺を露わにするトゥリの前で、サデはゆっくりと天を指す。
 直後、周囲は青白い光に包まれ、それに引き寄せられるかのように雨、水たまり、頬を伝う水滴までもがサデの頭上に集まり、蛇のようにうねりながらある形を作り出す。
「嘘だろ……」
 思わず呟いてしまうのは無理もない。
 呪われたウスコアは本来の力を完全に出すことが出来ない。
 四元素を操る今の能力ですら人々に恐れられているが、本来の彼らの力はそんなものではない。その気になれば、湖一つの水を全て操る事が出来る。
 本来の能力を取り戻す方法はただ一つ。呪いを解くことだ。
「サデどうしてこんな……」
「お前を守る為だ。自分は、呪いを解いたあの日から、お前を守るために生きている。例え、お前に憎まれようとも」
 しかし、今までトゥリはそれに成功したウスコアの話を聞いたことがなかった。それどころか、どうすれば呪いが解けるかも分からないのだ。もはや、彼らの中で呪いが解かれるという事は伝説としか取られていなかった。
 しかし今、服も、髪も、すっかり乾いたトゥリの前では、水で作られた巨大な龍が空中で浮遊しながら此方を睨んでいた。
周囲の水を全て操る程の能力。これは、疑いようもないウスコア本来の力。
 生きる伝説が、今まさに目の前にいた。
 雨雲の水分まで吸ってしまったのだろうか。それまで顔すら見せなかった満月が、今まさに死出の旅路に着こうとしている彼を照らす。
 そこで初めて露わになった、黒い髪に隠れた濃紺の目は深い怒りと失望の色で、トゥリを見据えていた。
 睨み合う内に、水の龍が鎌首をもたげて口を開く。水で出来た龍は声帯を持ち合わせていないため、実際に声が出ることはない。しかし、トゥリには身を引き裂くような咆哮をその身に浴びたような気がした。
 ーー駄目だ。勝てない。
 圧倒的な力の差に死を連想する。
 それは、不死になり、人にただ利用される生活の中で心から望んだ願いである。
 しかし、それはイハナと会うまでの話。彼女と出会い、共に過ごし、育っていく内に、彼の心はそれまで心から願った死を捨て、生を望むようになった。
「死ね」
 無慈悲な命を受け、水の龍は天へ飛翔する。そして天高く上がった彼は、遙か下方の地上を見、目標を定めると共に彼を喰殺さんと急降下を始めた。
 間近に死を感じ、思考が停止を始めたとき、彼は自分の体に何かがぶつかり、ゆっくりと背から倒れていくのを感じた。ふと我に返ると、目の前にはピルヴィの制止を振り払ったイハナの姿があった。
 彼女はトゥリを突き飛ばすことによって、自分が彼の身代わりになることを選んだのである。
 状況を把握した途端、トゥリの動機が激しくなり、周囲の光景がやけにゆっくりと流れ始めた。
 迫り来る龍の前で、イハナはこの数秒後に自分が死ぬと分かっているのにも関わらず、こちらを向いて笑っていた。そしてそれはとても自然な笑顔で、
「ありがとう、トゥリ。私は、幸せだったよ」
『一緒に幸せになりませんか?』
 十年前、そう言って微笑んだ少女は今、あの日と同じように、否、あの日よりも幸せそうな笑みを浮かべていた。
 そして彼女の言葉の裏には、約束が果たされたから、もう良いんだよ。という意味合いを含んでいた。そう、彼女は自分が死んでも約束は破られていないと、彼に伝えていたのだ。
 ーー守りたい。守ってやりたい。守るんだ。俺が、契約者だからじゃない。ただ一人の人として、俺がこの子を!
 改めて感じた少女への思い。そしてそれに伴い新たに誓われた願いに、彼の心臓が燃えるように熱くなる。
 眼前に迫った龍が口を開き、その鋭利な牙でイハナの小さな体を引き裂こうとした瞬間、トゥリは前方へ飛び出し、イハナを捕まえるようにして手を伸ばす。
 爪が、指先が、そして手が、イハナの柔らかい腕を捕まえる。彼女の表情が、驚愕に満ち、そしてすぐに泣き顔へと変わる。
 互いのプレートがぶつかり合い、チャリン、という甲高い音が響いた。
「馬鹿野郎! お前は幸せでも、こんな別れで俺が幸せになれると思っているのか!? 一緒に、だろ?」
 途端。二人を、龍を、周囲をまばゆい光が包み込む。そして直後。光の中から火の鳥が現れ、彼らを守るようにして水の龍に立ち向かう。
「呪いを解くためには、契約者とウスコア。それぞれが命を預ける覚悟で試練に立ち向かうこと。か」
 火の鳥がその翼で包み込むようにして龍の頭部を粉砕させ、周囲は分散された水が雨水に変わり、豪雨に見舞われる。その雨に打たれながら肩を並べて立つ二人に、かつての自分とサデの姿を重ねたピルヴィは、祝福と喜びを含んだ笑みを浮かべた。
 役目を果たした炎の鳥が掻き消えると同時に、体力と気力が失せてしまったトゥリが膝から地面に崩れ落ちる。慌ててイハナが支えるも、華奢な彼女の力でトゥリの体を支え切ることは出来ず、二人仲良く泥だらけの地面に転倒してしまう。
 泥だらけのまま互いに笑い合う二人に微笑みかけながら、ピルヴィは相変わらずむくれたままの自分の相棒の元に向かう。
 自分の最大の力を打破されたサデは、態度にこそ出さないものの大層落ち込んでいた。呪いを打ち破った新たな仲間が出来た事よりも、目覚めたばかりの輩に負けたことがショックでたまらないのだろう。
 何だ、とそれはそれは機嫌の悪い声で尋ねられた彼は、少し困ったような表情を浮かべたが、良かったね。と祝福の言葉をかける。
「これで、サーダと戦えるじゃないか。仲間と一緒に戦うの、悲願だったんだろ?」
「……ああ」
「なら、改めて挨拶をしておいでよ。同じ志を持つ仲間に、さ」
 トゥリが呪いから解放されたため、サデが彼らと手を結ぶことを拒否する理由は無くなった。
 しかし、サデとしては散々言い、言われたことが後ろ髪を引き、おいそれとトゥリ達の元に行くことが出来ずにいた。見かねたピルヴィが背中を強く押すと、サデは怒りの混じった目で彼を睨みつける。しかし、笑顔で手を振るその姿に、何を言っても無駄だと悟り、腹を決めて歩み寄っていく。
 しかし、その歩みが彼らの元まで届くことはなかった。
「ウスコアにもたらされた祝福を自ら解くとは、実に愚かだな」
 突如聞こえた高圧的な声に、髪で隠れたサデの濃紺の目が見開かれる。
 その声はサデが今、一番手に掛けたくて仕方のない、同時に最も会いたくない者の声。
「サーダ……ッ!?」
 低く、かすれた声が向けられた先には、いつからいたのか、倒木に腰を掛ける一人の男、そしてその後ろに控える女の姿があった。
 月明かりに照らされた男は、パヒン国の上官の制服である白い軍服に身を包み、イハナと同じ色の髪と目をしており、その青い目を不快そうに細めていた。
 今まで取り乱すことの無かったサデが見せる、明らかな動揺。それはこのサーダという男がただ者ではない事を示していた。
「久しいなサデ・カベリ」
「貴様なんぞが自分の名を呼ぶな!」
「おやおや、嫌われたものだな。そんなに先の契約者を殺されたのが憎いのか?」
「黙れ!!」
 状況が飲み込めないイハナ達を余所に、かつての契約者の仇へと、サデの手から水の刃が放たれる。
 だがその刃は突如サーダの前に現れた土の壁に阻まれ、届くことなく消えてしまう。
「冷静を欠くのは誉められたものではないな。幾ら覚醒したとは言え、最大の力を使った後に、私に勝てるわけがないだろう。この、皇帝サーダ・ムスタにな」
 パヒン国の実質的な指導者であるサーダ・ムスタ。彼はウスコアの中でも圧倒的な力を持っており、そしてその力に匹敵するほどの野望、ウスコアが世界を支配するというただ一つの目的の為に、無数の人と、自らの意見に反発するウスコアを殺めていた。
 サーダが地面に触れると同時に、サデの元まで地割れが生じる。即座に水を集め、足場を濡らすことによりサーダの土の力を弱めるも、先の戦いの消耗の影響か、十分に水を操ることが出来ず、サデの体は地割れに飲まれる。
「人を信じれば救われる? 馬鹿馬鹿しい。私たちは選ばれし種族なのだ。すべてを押さえつけ、永遠を生き、この世を掌握する、な」
 何とか持ち直し、地下水脈を利用して地上に舞い上がるサデだが、水流に乗って舞い上がったサデを待っていたのは、無数に迫る石つぶての嵐であった。
 幾ら覚醒したサデであっても、体力を消耗したこの状況での戦闘は非常に不利であった。何とか水の弾で応戦するも、次第に追いつめられ、やがて衣服を大木につなぎ止められ、完全に自由を奪われる。
 力を振り絞り、水の槍を作り出すサデの前に、サーダは余裕の態度で歩み寄る。その背後には土で作られた巨大な手、彼がサデを潰そうとしているのは明らかであった。
「最後にチャンスをやろう。我が軍の者を幾つも葬っているとは言え、私は貴様の力を買っている。私は強い者が好きだ。サデ・カベリよ。私と共に来い」
「誰が貴様なんぞに下るかっ!」
 悲鳴に近い怒号と共に、水の槍がサーダへと向けられる。
 が、その槍は目標に届くことなく、サーダの作り出した土の手につかみ取られ、そして水分を奪われて消滅する。
 残念だ。うっすらと笑みを浮かべ、後ろに纏めている金色の短髪をかきあげる。同時に槍を吸収し終えた土の手は変色した手のひらをサデに向けた。
 その時であった。サデを守るようにして炎の渦が発生したのは。
 炎の渦はサデがつなぎ止められた大木を燃やし尽くし、そして土の手さえもその業火に沈める。水分を奪われ、形を保つことが出来なくなった土の手が砂と化し、崩れゆく中で、サデは自分の体が抱えられることに気付く。
 燃えた衣服を気にすることなく抱えているその手は、その体は、先ほどまで命を掛けて戦っていた火のウスコア、トゥリであった。
「トゥリ、一時の方向、来ます!」
「了解!」
 炎の外から聞こえる指示に合わせ、炎の壁を作る。直後、炎の壁に無数の土の弾丸が被弾した。
 サーダの追撃を逃れ、炎の外に出たサデの負傷は思っていたよりも深く、体の至る所に土の弾丸による痛々しい傷が見られた。忌々しげに胸を押さえながらうずくまるサデに、トゥリは自分の外套をそっとかける。
「気付かれたくないんだろ?」
 押し黙るサデの胸にはサラシで押さえられた二つの膨らみがあった。サデは、彼女は女だったのである。
「その声、薬で焼いたのか?」
 今度は静かに頷く。
 彼女の過去が凄惨たるものであったというのは、薬で潰した声、そして彼女の纏う他者を寄せ付けない雰囲気から容易に想像出来る。そこまでしても尚生きることを諦めない彼女に、「強いな」と本音を口にし、トゥリはゆっくりと立ち上がる。
 未だ燃えさかる炎の向こうにはサーダと、そして二人の契約者がいる。今はまだこの炎で二人の居場所は隠れているが、見つかるのも時間の問題だろう。
「けどな、たまには頼れよ。お前の契約者、あいつ結構やるぞ」
 イハナには叶わないけどな。最後に余計なことを付け足し、トゥリは指を鳴らして炎を消す。
 次第に消えゆく炎の奥に見えたのは、楕円状の銀色の筒を宙に投げるピルヴィの姿であった。
 宙に浮いた銀色の筒。弾薬か何かだと思ったサーダは即座に土の弾丸でそれを打ち落とそうとする。が、弾丸がそれに届くより早く、筒は両端から眩い光を放つ。直後、弾丸は速度を落とし、ただの土塊と化して地面に落ちる。
「吸収管……」
 サデがぽつりと呟いたのは、ピルヴィが独自に開発した物の名であった。
 発明好きのピルヴィがろ過装置を作る過程で偶然生まれたこの装置は、ウスコアの能力発動に反応し、彼らの力の源である元素を一時的に吸い取る力を宿していた。
 吸収管は普段は何の変哲もない鉄の筒だが、両端にある吸収口を空けてから、能力を発動させたウスコアに向けると、たちまちウスコアの力を吸い取る恐ろしい装置と化す。また、それは能力を発動させていないウスコアの力もこそぎ落とすようにして削り、体を硬直させる作用があった。それ故、サデもこれの存在を疎ましいと思っていた。この時までは。


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