漆黒の闇を切り裂くようにして、雨が大地へと突き刺さる。
 雨が焼けた木の枝に当たり、白い水蒸気と共に小さな音を立て、小さな雨粒は空に消える。それを何度か繰り返した後、熱を保っていた枝は雨水に完全に消し去られ、頭上を覆う夜の闇のように黒い色をした、ただの消し屑と化した。
 よくよく見れば、周囲は大火に覆われたのであろう。木、草、家、そして、人。ありとあらゆる物が燃え尽きて鎮座していた。
 その中で、すっかり焦げてしまった大木の根本に、一人の青年が横たわっていた。青年の体は周囲の物と違い、一切焼けてはいなかった。しかし、その代わりと言うべきか、彼の周囲には水たまりではなく、血だまりが出来ていた。
 それが彼の体から出た物なのか、はたまた側に転がる遺体の物なのか。それは定かではない。ただ一つ断言出来るものと言えば、彼は今、非常に弱っているということである。
「……生きて、いますか?」
 動くこともなく、ただ雨に打たれるだけの彼の元へ、どこから現れたのか、十にも満たないであろう一人の幼い少女が歩み寄る。
 青年の返事を待たず、少女は自分の纏っていたぼろ布を取ると、すっかり塗れてしまった青年の顔を拭う。
 直後、それまでピクリとも動かなかった青年は少女の手首を掴み、そのまま地面へと引き倒す。突然の出来事に、少女は為す術もなく、そのまま金色の髪を揺らして焦土へと化した地面へと倒れ込んだ。
 同時にチャリン、と金具同士がぶつかる音がした。それは、二人の手首に巻かれた奴隷の印である鉄のプレートがぶつかり合う音であった。
「止めろ、殺すぞ」
 押し殺したような声による威嚇と共に、少女の青い眼と、青年の赤い目が交差する。
 しかし、少女は青年の脅しに屈することなく、それどころか、元気そうで良かったと微笑んだ。まるで見当違いの行動に、青年の目は驚きに見開かれる。そんな彼に構うことなく、少女は真っ直ぐに赤い目を見つめたまま、まるで母親が子どもをあやすように両の手で彼の頬を挟んだ。
 予想もしなかった行為に、青年の警戒が僅かに解ける。けれど、その次に少女が放つ言葉は、その衝撃を遙かに上回っていた。
「一緒に、幸せになってくれませんか?」
 瞬間、彼の目にはそれまで立ちこめていた暗雲の隙間から射す、一筋の月明かりが映った。

 ーーそれから十年もの年月が経った。
 長い月日をかけ、焼け焦げた大地は新たな命を育み、今では鳥が囀り、風が笑う平和そのものの地となっている。
 かつて無数の屍が折り重なるようにして倒れていた地で、金色の髪をした一人の少女が無心に絵を描いていた。
 お世辞にも質が良いとは言えない黄ばんだ用紙に、少女は絵の具で色とりどりの花、鳥、そしてその中央で微笑む、きらびやかな衣装を身に纏った女の絵を次々に書いていく。
 ふんわりとした色使いと、デフォルメされた独特の絵柄は、見たものを思わず微笑ませてしまうような、不思議な魅力と優しさに溢れていた。
 一枚の紙に思い通りの絵を描けた少女は、青い目を満足げに微笑むと、今度は万年筆を取り出して絵の端に文章を書いていく。どうやら、少女は絵本を作っているようだ。
 半分ほど筆を進めたところで、少女はふと顔を上げた。途端、何かを見つけた少女の顔はきらきらと輝かんばかりの笑みを浮かべ、そして書きかけの絵本を置くと、一目散に駆け出す。
「トゥリ!」
 少女が名を呼ぶ先には、麻袋を持って歩いてくる一人の男の姿があった。
 男は少女の声を聞くと、軽く手を上げて「帰ってきたぞ」と合図を送る。そして犬のように喜びを露わに飛びついてくる少女の頭を撫で、赤い目を細める。
「ただいま、イハナ」
 イハナとトゥリ。
 二人は十年前、この地で出会った少女と青年であった。
 十年間、共に過ごしてきた二人は生まれも、年も違えど家族そのものであった。
 ただ一つ違うことと言えば、彼らがパヒンという国で奴隷であったこと。そして、二人の関係が契約で結ばれているということである。
「昼飯にするか」
 あのねあのねと話を始めるイハナを引き離し、トゥリは砂地に準備してある薪の元へ寄る。火が通りやすいように枝を整えると、トゥリは指をパチリと鳴らす。
 するとどうだろう。彼の手の平に橙色の小さな炎が生まれた。
 生まれた火種をそっと枝の方に向けると、橙色の炎はまるで踊るようにして枝に吸い着き、やがてパチパチと繊維が弾ける音を響かせる。
「私もそんな風に出来るようになりたいです」
「イハナは出来なくても良いだろ。それにウスコアの専売特許を奪ってもらっちゃ困る」
 口を尖らせて炎を見つめるイハナに呆れたように笑いかけ、トゥリは買ってきたソーセージを串に刺す。
 トゥリはイハナと同じ人では無く、ウスコアという古代種族である。
 ウスコアは一世紀程昔に火、水、風、地の四元素を操り、世界を統べた種族であった。しかし、彼らの文明はある夜、とある呪いと同時に何の前触れも無しに崩れ去った。
 自分たちの力に慢心しきった彼らに天罰が下ったという一説もあるが、どれも推測の域を出ないでいる。
 呪いが掛けられたウスコアは、不死と自分たちの種族以外の者と契約しなければ普通に生きることが出来ない体となった。
 契約をしなければ、十年で心身は崩壊し、ただ本能のままに残虐行為を繰り返す人成らざる者と化してしまう。その為、彼らは人と契約をせざるを得ないのだが、自分達こそ最高の種族であると自負してならなかった彼らが、それまで見下していた種族と契約をするというのは我慢成らない事であった。
 また、ウスコアが他の種族と契約しなければ生きられないという呪いは、他の種族を歓喜させた。それまで天狗となっていたウスコアが自分達に頭を下げて従う。それは今まで押さえてきたウスコアへの劣等感を、莫大な優越感へと変化させた。
 結果、特殊な能力を持つウスコアを何とか我が物にしようとする者達がウスコア狩りを始め、それまで世を統べていたウスコアは奴隷以下の存在と成り果てたのである。
 ウスコア自身のプライド、そして彼らに対する偏見と歪んだ劣等感は種族間の溝を益々深くし、時が経つにつれ人成らざる者と化すウスコアの数が増えていった。
 不死の呪いを掛けられた彼らは、通常の攻撃や怪我では死ぬことが出来ない。それは人成らざる者と化した彼らも同じである。彼らを縛られた生から解放する方法は三つ。呪いを解くこと、ウスコアの能力で殺し合うこと、そして契約者に殺されること。である。
「なあ、イハナ。そろそろこのプレート外さないか?」
「駄目です! これは私とトゥリが出会ったきっかけなんですから」
「だからって奴隷の証を後生大事に持つこともないだろ」
「う……」
 口ごもるイハナの手首には、十年前の雨の日と同じプレートがかかっている。そして、呆れたようにソーセージをかじるトゥリの手首にも。
 トゥリはウスコア狩りで、イハナは奴隷国民として付けられた物であった。
「追われているってことを忘れるなよ? この国のプレートはまだ有効だ。余計に追われやすい立場になるぞ」
「はい……。でも」
「今度また新しいの買ってやるから」
「そういうのじゃないんです。だってこれ、トゥリとの出会いのきっかけで……」
「思い出大事にして捕まったら元も子も無いだろ。思い出にしがみつくのは止めろ!」
 ぴしゃりと咎められ、イハナの青い目に涙が溜まっていく。
 トゥリの言葉は間違っていない。そんなことは分かっている。このプレートの国、パヒン国は未だ勢力を拡大している。
 そのような情勢の中、「私はパヒン国の奴隷です」という証をぶら下げて町を歩こうものならば、即座にひっ捕らえられ突き出される。
 ウスコアであるトゥリが殺させることは無いが、何の能力もないイハナは間違いなく逃亡奴隷として拷問を受けるであろう。更に言えば契約者であるイハナは契約者の席を空けるために、確実に殺される。
 トゥリが自分の事を思って言っているのは重々承知だ。けれど、家族を目の前で殺され、追っ手から逃げていた日々から解放されたあの日の思い出を捨てることなど、イハナには到底出来なかった。
「泣いたら、負けって事だぞ?」
 冷やかすような声に、口を一文字に締め、顔を上げる。
 泣いたら負け。これは二人が喧嘩を穏便に済ますために決めた約束事であった。と言っても、今のところイハナが勝った試しは無いのだが。
「泣いて、ません!」
「なら、まばたきしてみな」
「トゥリ、意地悪です……!」
「はい、涙落ちた。お前の負けな」
「欠伸です!」
「往生際悪い! ほら、さっさ食って支度しろ」
 めそめそと抗議するイハナを叱りつけ、出発の支度を急がせる。
 逃亡奴隷として追われる二人は長い間一所に留まることを許されなかった。この地にももう三日留まっていたため、移動しなければ捕まる恐れがあったのだ。
 何の気なしに空を見上げたトゥリは、遠くから雨雲が近付いてきていることに気付き、眉をひそめる。
 火の力を持つトゥリは、雨の日と相性が悪い。その影響か、嫌な胸騒ぎがした。
「……嫌な天気だな」
 ぽつりと呟くトゥリの前で、泣いていませんからね! というイハナの声がした。

 ・

 ーー何でこんな予感だけ当たるんだよ!
 雨粒が木々の葉を叩き鳴らす夜の森で、トゥリは己の不運を呪った。
 転倒しそうになったイハナの首根っこを掴んで体を起こさせると、本来ならばイハナが転ぶべきであった場所に、大きな裂け目が出現する。
 そして裂け目が出来たと同時に、緑色の淡い光が蛍火のように現れ、掻き消えるようにすぐ消えた。
 これはウスコアが能力を発動した際に出来る、元素の因子の光であった。火は赤、水は青、地は黄、そして風は緑。今、彼らはパヒン国が放ったウスコアの追っ手に追いつめられていた。
「同士よ、悪いことは言わない。我が国元に戻れ」
 頭上に現れた追っ手を見上げ、短く舌打ちをする。
 かつて同士であったそれは、今やパヒン国の黒装束で身を纏い、自分を奴隷として捕まえた筈の国を、さも自分の国のように語っていた。
 それは、ウスコアの民としての誇りを持っているトゥリにとっては許し難い侮辱の言葉であった。
「随分今の巣が気に入っているようだな。生憎、俺は家畜になるつもりは毛頭無いんでな」
「家畜とは随分失礼な物言いだな。此方に来れば、それなりの契約者を選ぶことも出来るのだぞ」
 どこか自慢げに男が自身の契約者を指す。それは筋骨隆々のいかにも強靱な肉体を持った男であり、ウスコアの力を借りずとも、彼自身が人並み外れた力を持っていることは見ただけで理解できる。
 しかし、男の思惑は外れ、トゥリはふーんと、明らかに興味のない返事をするだけだった。
 トゥリと男達が睨み合う中、雨に打たれながら状況を見守っていたイハナは、風の音が変わったような気がして、空を見上げる。
 見上げた空は雨雲に覆われて星を見ることは叶わない。しかし、彼女は暗闇から降り注ぐ雨の中に何かを見つけたかのように、視線をあらゆる方向に巡らせながら、その何かを探した。
 そして彼女の視線は元の位置に戻り、その青い目を驚愕に見開く。
「俺は、イハナ以外の契約者は要らない。こいつと幸せになるって、決めたからな」
「こいつは傑作だ! もう良い。死んでもらおう」
「……全くだ」
 不意に聞こえてきた第三者の声がしたと同時に、男の体は上から現れた乱入者により、頭から真っ二つに切り裂かれた。
 誰もが、今何が起こったのか理解出来ていなかった。それは切られた本人も同じで、彼は既に命つきた体から、吐息を吐き出すことによってくぐもった笑い声を上げ、そのまま地面へと落下する。
 ぐしゃり。と、雨とは違う水音が森に響く。
 同時に、契約者の体から緑色の光が放たれた。男の死をきっかけとして、契約が失われたのだ。
 誰も動けない中、一瞬にして男を切り裂いた乱入者は、それまで男が立っていた場所で水で出来た剣を一振りし、血を飛ばす。その血液が下にいる契約者の頬に掛かった時、それまで沈黙を保っていた契約者が、地を揺るがすような咆哮を上げた。
「貴様、よくも! こいつさえいれば、俺の出世は間違いなかったと言うのに! 許さん、許さんぞ!」
 同時に、契約者は弾かれたように走り出す。
 巨体に似合わぬ俊敏な動作で木に走り寄った契約者は、その鍛え抜かれた下肢にぐっと力を込め、高く空へと舞い上がる。
 拳を固く握り、狙いを定めた先には、自分の出世の道具であったウスコアを殺めた、憎き人物。
 しかし、その拳が標的に届くことはなかった。
「ウスコアを利用した罪、貴様の死では賄えん」
 低くかすれた声で、吐き捨てるようにして謎の人物が呟いた直後、それまで木々を叩いていた雨が止まった。比喩ではなく、本当に空中の水が動きを止めたのだ。
「だが、死ね」
 その人物が契約者を指さすと同時に、止まっていた雨粒が勢いよく契約者の体を貫いた。
 無数の雨粒に身を貫かれた、契約者の断末魔の悲鳴が森に響く。
 目を反らすことも出来ず、ただ呆然と目の前の惨状を見つめることしかできないイハナを庇いながら、トゥリは地上に降り立った乱入者を睨みつける。
「お前、何者だ?」
「まずは礼を言えばどうだ? 殺されそうになっていた貴様等を助けてやったのだからな」
「敵か味方かも分からん奴に礼を言えるかよ。礼を口にした直後、グサッとやられるかもしれねえのによ」
「まあ、元より貴様なんぞに礼儀など求めてはいない。それより……」
 高圧的な態度で、乱入者が歩み寄って来ようとしたとき、トゥリは前方に炎の壁を生み出し、これ以上来るなと警告する。
 しかし、乱入者はそれを一切気にせずに炎の壁へと突っ込む。直後、その盛大な蒸発音と共に、周囲を真っ白な水蒸気と熱気が包み込んだ。
「やっぱり水とは相性が悪いな。イハナ、来い!」
 乱入者の水の力による水蒸気を目くらましとして利用し、少しずつ平静を取り戻しつつあるイハナの手を引いて走り出す。
「何処へ行くつもりだ?」
 だが、水蒸気を割って乱入者が進路を阻む。
 咄嗟に生み出した炎の弾も相手の水の力にかき消され、トゥリ達は完全に手詰まりとなっていた。
「ああもう! お前何がしたいんだよ!」
「自分はウスコアを始末して回っている。ウスコアの誇りを失い、媚びへつらうようになった屑共をな」
「へえ? で、俺たちも殺そうってか。大層な意気込みだけど、他人を巻き込まないでくれないか?」
 炎と水が再びぶつかり合う。
 視界が極めて不良なこの空間で、イハナは誰かの声を聞いたような気がして、周囲を見渡した。
「貴様、見たところパヒン国の奴隷のようだな」
「それがどうしたんだよ。昔の話だ」
「こんな話を聞いたことがある。十年前、パヒン国の奴隷だったウスコアが、自らの契約者を殺して周囲の町を焼き払ったと。……お前だろう?」
 途端、トゥリの赤い目が大きく見開かれ、周囲を大火が覆う。
 あまりの火勢に着火した木の枝が爆ぜる中で、トゥリは怒りに満ちた目で水の幕で身を守った乱入者を睨みつけていた。
「それが、どうした」
「契約者を殺すウスコアなど、たかが知れている。貴様、何を思ってかつて忠誠を誓った相手を殺した」
「何でそんなこと、お前に言わなきゃならねえんだよ!」
 再び、トゥリを中心として周囲を大火が覆う。
 だが、乱入者はそれを一切気にせず、ただ淡々とトゥリの攻撃を水で受け流す。その後も攻防を繰り広げる二人だが、相性の悪い相手との戦闘は、ゆっくりだが着実にトゥリの体力を削り取っていく。
 そんな中、イハナの耳にある声が届く。彼女は暫く迷うような素振りを見せたが、トゥリの姿を目に映した後、そっとその場を離れ、森の中へと走り去って行く。
 手に乗せた火を消され、トゥリの体は水で拘束される。もはや大火など生み出す体力は残っていない彼は、荒い呼吸で目の前の乱入者を睨みつけることしかできなかった。
 どれほどの時間睨み合っただろうか? 不意にそれまでただ睨むだけであった乱入者がかすれた声で軽蔑の言葉を吐いた。
「先の契約者を殺めておきながら、自分はあの娘と幸せになる。だと? 反吐が出る」
 その言葉に、それまで睨みつけていた視線を逸らし、喉の奥で笑う。
「お前、相当今までの契約者に恵まれていたんだな。やっと分かったよ。ウスコアを滅ぼすとかふざけた事を抜かせる訳がな。お前、頭平和ぼけしてんだろ?」
「何……?」
「このご時世だ。好き好んで契約することは無いんだよ。呪いに飲み込まれる方がマシだと思っても契約しなきゃならない事があるんだ。悪いがな、お前みたいに相思相愛の契約者を見つけるのは稀なんだよ」
「減らず口を叩く余裕があるみたいだな」
「そりゃあな。俺の相棒、お前の契約者と仲良くなったみたいだからさ」


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