4 いや、知らんし
 ビタンビタンとクリーム色をした甲虫の幼虫が、次々に茂みから飛び出して来て地面にのたまう。それは正に地獄のような光景で、虫が苦手な人ならば嘔吐物だろう。
 しかしこの時世を生きているクロキとシロサにとっては嘔吐する程の光景では無かった。無論、不快である事に変わりはないが、十年以上虫と付き合って来た彼等は皮肉にも慣れてしまっていたのだ。
 幼虫の追撃を交わし、時々蹴り飛ばしながらクロキとシロサはただひたすら走り続ける。既にタビの姿は見当たらないが、クロキにはタビと老烏がこの先に居るという、絶対に近い核心があった。
 ──早……来い。烏の……身よ。混沌が……この世に……解き放て。
 タビの元に近付きつつあるという核心が強くなるにつれ、正体不明の囁きも多くなる。意図の掴めぬその囁きに短く舌打ちをしたクロキは、腹立ち紛れに目の前に飛び出して来た幼虫を殴り飛ばした。
「あの、クロキさん」
「……何よ」
「クロキさん、花をご存知ですか?」
「当たり前だろ。十年前ならその辺で咲き誇っていたからな」
「いえ、その花ではなくて……」
 馬鹿にされたと思ったのか、クロキは少しムッとした調子で答えた。するとシロサはすかさず誤解だと弁明する。
「"花は咲き人と共鳴し、その大いなる花弁を開かん"これは昔から私の家に伝わる言葉です。ええと、分かりやすく言えば、一部の人達は花と呼ばれる存在と契約を交わして、大いなる力を手に入れる事が出来るという事です。私、クロキさんは咲き人。つまりその一部の人だと思うのです。……どうされました?」
 頭を抱えて走るクロキに、珍しく早口で喋ったシロサは具合でも悪いのかしらと心配そうに顔を覗き込む。
 しかしクロキが頭を抱えた理由は体調ではなく、シロサの発言にあった。どこか浮世離れしたその内容は、クロキにとって全く意味の分からぬ処か、シロサが電波系だという印象を与えていたのだ。
 思わず、あんた電波系? と尋ねてしまったが、幸いな事にシロサは電波系の意味が分からなかったのか、困ったように笑いながら首を傾げるだけであった。
「まぁ良いや。そんで何? 咲き人ってやつになったらどんな事が出来るの?」
「それは花によって違いますが、開花した咲き人の力はとても強大で、あらゆる闇を切り裂いたと聞きます。今の場合の闇は、この虫、ですね……」
「ふーん。で、あんたもその咲き人ってやつ?」
「そうでもあるのですが、少し違いますね……」
 付き合ってやるかと、半ば聞き流しながら質問を繰り返していると、突如として大量の幼虫が空に向かって鳴き始めた。キーキーという不快な音に、身軽に跳びはねて幼虫の攻撃をかわしていたシロサも怪訝な顔をして白く光る幼虫の姿を見つめる。
 すると暫くしてブゥウウンという低い音が後方から迫って来た。その音はクロキが自宅で耳にしたカブトムシの羽音であった。
「あいつら、親を呼びやがったのか! ンだよ過保護め! おい、あんた。走れ!」

 事態を飲み込み青ざめるシロサに渇を入れ、クロキは宛もなく走り出した。行き先等分からない。ただあの羽音から逃げ出したかったのだ。
 ガァ!
 宛もなく走り出した時、不意に斜め前から烏の鳴き声がした。それは十年以上前から耳にしていた、あの老いた烏のものだった。
 その声を聞いたクロキは迷う間もなく方向を変え、烏の声がした方に走り出す。いきなり躊躇い無く走り出したクロキに疑問を感じたシロサは、どうしました? と困惑気味に尋ねた。それに対してクロキは、
「じっちゃんの声がした」
「え……? お祖父様はご自宅に居るのでは」
「それはじいちゃん。鳴いたのはじっちゃん。今もずっと鳴いているだろ?」
「はぁ……」
 益々混乱するシロサの腕を引き、クロキは烏の声がした方へと走り出す。
 しかし、手を引かれたシロサは釈然としない表情でいた。「虫以外に何の声もしませんが」その小さな呟きは、クロキの耳に届く事はなかった。

 ・

 黒く深い闇の深淵で、何よりも黒い存在が息を潜めて待っていた。その者はこの世の不浄、全てを混ぜたような闇のような黒を背負い、幾世にも渡りこの場所にいた。
 ──堕落されし魂を継ぐ者よ……。来やれ、我の元へ。
 地の底から響くような声で、その者はとある者へと囁きかける。その者は昔から囁きかけていた。だが今日は何時もと違い、囁く回数が多い。
 ──もう、直ぐだ。
 鬼でさえも近寄らぬその深淵で、その者は永らく開かれなかった眼を開ける。幾世ぶりに開かれたその目は、永きに渡って蓄積された憎悪の炎で燃えていた。

「クロキさん!」
 不意にシロサに強く名を呼ばれ、クロキは珍しく泡を食いながら我に返った。
「どうしたんですか、いきなり無言になってしまって……。頭でも打たれたのですか?」
「いや……何か声が……。何でもない。気にすんな」
 腑に落ちない表情のシロサを見ないようにして、クロキはしっかり前を向いて走る。
 何時も聞こえるあの声。しかし先程聞こえたものは今までと違い、何を言っているのかはっきりと聞き取れた。
 何故かは知らないが、あの声は誰かを呼んでいた。その誰かはクロキではないかもしれないが、それでも嫌な感じがする。そんな状況に、体温が上がって流れる汗とはまた違う汗が背を伝う。
 もしかしたら、シロサならばあの声について何か知っているかもしれない。知らなかったとしても、電波な彼女はこんな馬鹿みたいな話を真面目に聞いてくれるだろう。そう思い至ったクロキはやや躊躇い勝ちに口を開く。そんな時だった。ギャイン! と夜の闇を切り裂いて犬の悲鳴が聞こえたのは。
「……タビッ!?」
 唯一思い至る存在に、クロキは反射的に名を呼んで足を止めた。突然の出来事にクロキは自分達が今、虫に追いかけられている事実を僅か一瞬忘れてしまったのだ。
 獲物が足を止めた事に、飢えた虫達が気付かない訳が無かった。虫達はクロキが足を止めた僅か一瞬の隙に、羽に目一杯の力を込めて彼へと飛び掛かる。それは巨大な弾丸がクロキ目掛けて飛んでいくのと同じで、そのままであれば間違いなくクロキの命は無かった。
 しかし、ただ一つの誤算があった。それはクロキの傍らにいたシロサである。
 シロサはクロキが立ち止まった直後、虫達の行動を先読みをした。クロキに覆い被さるようにして間一髪、虫の攻撃を避けたのだ。そして勢いに任せて道の脇にある斜面に身を投げたのである。
 甲虫が地面にぶつかる激しい音を聞きながら、シロサとクロキは斜面を滑り落ちて行った。身を投げた直後、シロサとクロキは離ればなれになって別々に斜面を滑っていた。
 腕で体を守り、何とか目立った怪我をする事無く下まで辿り着いたクロキは、体の汚れも払わずに少し離れた場所で倒れていたシロサへと駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
「は……はい」
 ぐったりとしているシロサを抱えるようにして声を掛けると、彼女は目を開けて弱々しく返事をした。
 心配を掛けまいと振る舞うその健気な姿がとても痛々しく、クロキは油断した自分を嫌悪した。
「悪い。俺が意識を取られたばっかりに、アンタを危ない目に合わせて。無理、すんなよ。痛かったら痛いって言えよ」
「大丈夫ですよ。それより、この場所……」
「ああ、あの隕石が落ちている場所だ。アンタが身を呈して庇ってくれた場所の下が、丁度此処に当たるんだ」
 滑り落ちたのは初めてだけどな。そう付け足しながら、クロキはシロサに手を貸して立ち上がらせる。
「この隕石があるから、暫くは安全だろう。……まぁ、家の隕石に虫が集ってる位だから……」
「く、クロキさん……っ! あれっ……」
 クロキの話を折り、上擦った声でシロサが隕石の方を指差した。
 尋常ではないシロサにクロキも直ぐ様視線を向ける。その直後、クロキは目を見開いて隕石へと駆け出した。
「タビ!」
 隕石の前にはクロキが探していた愛犬のタビが、夥しい血を流して倒れていたのだ。
 あの時聞こえた悲鳴はコレだったのか。焦る気持ちを抑え、クロキはタビの胸に耳を押し当てた。するとトクン、トクンと弱々しくはあるが確かにタビの心音が聞こえた。
 生きている。その事実にほっと胸を撫で下ろしながら、クロキは止血をするべく自身の服を破いて簡易の包帯を作った。暗闇の中、手探りで患部を探っていたクロキだが、傷の状態に気付いた瞬間、信じられないと口を開いた。
「何だよ……、何だよこの傷」
 タビの傷は足にあった。それだけならば別に不審に思う事は無い。だが傷口に問題があった。
 タビの傷は、何か鋭利な物で何度も繰り返し削り取ったかのように、傷口が非常に乱雑なものになっていた。しかも、その跡は肉だけに止まらず骨にまで達している。移動中、虫に攻撃されたならば傷口は抉られはしても、骨まで傷が達したりはしない。それはつまり、タビが虫以外の何者かに襲われた事を示していた。
「……じっちゃんは何処だ?」
 目を背けたくなるような酷い傷のタビへ応急措置を施した後、クロキは思い出したかのようにポツリと呟いた。
 何故タビと行動を共にしていた老カラスが居ないのか。そもそも何故老カラスは混乱の最中、タビを外へと連れ出したのか。何故臆病なタビが真っ直ぐに家を飛び出したのか……。そして何故タビの傷口はカラスの嘴でつつかれたのと酷似しているのか……。
 ガァ
 そんな思いが駆け巡る中、隕石の上から聞き慣れたカラスの声がした。
 それは間違いなくクロキがじっちゃんと呼んでいるカラスであった。だが、そのカラスはタビのモノであろう茶色の毛が混じった肉片をくわえていた。
「じっちゃん……何してんだよ」
 真っ青な顔でタビを覗き込むシロサの傍らで、枯れた声で隕石の上で佇む老いたカラスに声を掛ける。
 十年以上も友として、兄弟分として共に日々を送った、じっちゃんという呼び名のカラス。その存在は家族と同じ程の存在で、今のクロキは彼が居なければ存在しなかったと言っても過言ではない。
 しかしそんな彼は今、クロキの愛犬と同じ色の毛が付いた肉片を、その漆黒の嘴にくわえていた。疑いたい訳ではない。彼と過ごした十数年が過ちだとは思いたくない。けれど、この状況からして、老カラスがタビを襲ったのは疑いようの無い事実であった。
 裏切られた気持ちを隠せぬクロキを傍目に、カラスはくわえていた肉片を飲み込む。
「……お前ッ!!」
「クロキさん!」
 途端、クロキの頭にカッと血が昇る。勢いに任せて叫び、烏に手を伸ばすクロキであったが、その寸前でシロサが待ったをかけた。
 寸での所で止まったクロキは瞳孔の開いた目でシロサを見据え――基、睨み付けた。あまりに鋭い眼孔にシロサは身動ぎしたものの、直ぐに平静を繕い口を開いた。
「クロキさん、先程から誰に向かって話しているのですか?」
「は? じっちゃんだよ、そこに居るだろ。血塗れで、左目が白く濁った年寄りのカラスが」
 馬鹿馬鹿しい事を聞くな。小さく吐き捨てながら、クロキは月を背にして佇むカラスを指差す。その間も老カラスは微動だにせず、それが余計にクロキの神経を逆撫でした。
 一方、それを聞いたシロサはクロキの指差した方向をじっと見つめ、そして意を決したように口を開いた。それは、全く想像しなかった事柄であった。
「……クロキさん。私にはそのカラスが見えません。私には、先程からクロキさんが隕石に向かって話しているようにしか見えないのです。いいえ、姿だけではありません。私には先程クロキさんが仰っていた"じっちゃん"と言う方の声さえも聞こえませんでした」

 はたと、クロキの動きが、昇っていた血の気が、止まる。
 何を言っているのだと、怒りよりも呆然とした感情が込み上げて乾いた笑いが漏れる。
 改めてじっちゃんと名付けたカラスを見る。やはりそこにカラスは居て、漆黒の目と白濁色の目でクロキを見下ろしていた。今や嫌悪感を伴うその姿は、見間違ごう事ない現実だ。だが、振り返った先にあるシロサもまた、青ざめた真剣な表情をしている。その顔に、嘘の匂いは微塵も感じられなかった。
 呆然と立ち尽くすクロキから目を反らし、シロサは何かを恐れるかのように弱りきったタビを抱き寄せる。その華奢な肩は、小刻みに震えていた。
「クロキさん、嘘だと思われるかもしれませんが私にはじっちゃんさんが見えません。声も聞こえません。でも、これだけは分かります。その隕石、そしてその上に居るという"じっちゃんさん"は、とても危険だと……」
 俯いたまま、肩を震わせたまま、シロサは上擦った声でそう告げる。
 クロキとシロサは出会って間もないが、彼はシロサが意外と胆が据わっている事を知っていた。そうでなければ、夜中に山中を走ったり、巨大な幼虫の攻撃を冷静にかわしたり出来はしないだろう。
 そんなシロサが肩を震わせ、泣きそうな声で思いを告白した。それはつまり、この状況がかなりまずいという事を指し示していた。
『鹿の者は察しが良いな。流石は神に仕えし者と言った所か……』
 不意に冷や汗を垂らすクロキへと謎の声が届く。これも自分だけなのかと、クロキは即座にシロサを見る。すると、シロサは驚愕の表情を浮かべて周囲を見渡していた。どうやら今度はシロサにも聞こえていたらしい。
 誰だ、と叫んでみるも、耳に届くは木々のざわめきと、虫達が這い回る音のみ。返事は一向に来なかった。
「これは、只の声ではありません……っ。直接頭に届くこの声、そして私の事を知っている……。じっちゃんさん、カラス……」
 シロサの顔色は益々悪くなり、うわ言のように訳の分からぬ言葉が次々に口から出る。その様子を心配しつつ、不気味に思ったクロキはさりげなく視線を反らして再び老カラスの方を向いた。
『小僧』
 訳の分からぬ声が再び言葉を発した。必然的にその言葉が自分を指しているのだと気付いたクロキは、苛立ち紛れに「うっせぇ盲目」と老カラスに向けて暴言を吐く。間違いなく、八つ当たりである。
『喚くな小僧。我は盲目ではない。片方は問題なく見えておる』
 ピタリ、と八つ当たりの極みとばかりに投げ付けようとしていた、石を掴んだ手が止まる。その声が口にした言葉は、クロキがよく知る者の特徴にピタリと当てはまっていたからだ。
 手に掴んでいた石を離し、改めて月を背にしたカラスを見つめる。するとカラスはガァと短く鳴き、そして、
『ブシガワクロキ。愚かな者よの。得体の知れぬカラスを信じた末に、愛犬を奪われるとは。下僕である犬が腑抜けでは、主も知れたものよな』
 にやりとカラスが笑ったような気がした。
「ふざけんな! お前、誰なんだよ! なんでタビを襲った!?」
 クロキにとって、カラスが喋る事など別に気にするようなものではない。だが、今まで家族同然に過ごしたカラスが自分を、そして愛犬であるタビを弄ぶような真似をしたのが気に食わなかった。
 チラリとシロサに抱き抱えられているタビを見る。止血をするためにあてがったクロキの上着は既にタビの血で真っ赤になっていた。その出血はおびただしい量で、このまま処置をせずに長時間置けばタビが命を落とすのは確実であった。
 クロキの視線に気付いたのか、タビは弱々しい目で彼を見た。瞬間、昇りきっていたクロキの血はスッと落ちた。
『質問は一つに纏める事だな』
「もーいいよ。お前、一人で喋っとけ」
 今、一番に優先すべき事は何か。冷静になり、それを見据える事が出来たらクロキはカラスに背を向けて、シロサからタビを受け取る。
 そして片腕でタビを抱え、もう片方でシロサを立ち上がらせ、さっさとその場を去ろうとした。
『小僧、何処へ行く』
「タビの治療する為に帰んだよ」
『家への道程は虫がひしめいておる。今の主にそれらを蹴散らす事が出来るのか? 瀕死の犬を抱え、女を支え、虫から逃げおおせるとは到底思えんが』
 カラスの言うとおりであった。
 クロキの家、ならびにそれまでの道は既に大量の虫に占拠されている。此処まで走るのでさえ骨が折れたのに、傷付いたタビを庇いながら自宅まで戻るのは不可能に近い事柄であった。
「そんな事やらなきゃ分からないだろ。第一、お前と一緒にいる位なら虫に襲われる方が数倍マシだ」
 そう言い捨てた途端、周囲の空気が変わった。
 ざわざわざわざわ。
 木々のざわめきに混じって無数の足音が聞こえた。等々、虫が此処までやって来たのだ。
 絶望的な状況にシロサは小さく声を上げ、タビはキャンと弱々しく鳴いた。しかし、クロキは未だ強い意思が感じられる目で周囲に気を配っていた。そして彼は、観念したかのように口を開く。
「お前さ、花って奴なんだろ?」
『……それがどうした』
「咲人ってやつ探してんじゃないのか? こんな所で犬といたいけな青年虐めてていいの?」
『小僧、主はやはり馬鹿だな。我がそのような無駄な事をすると思うか?』
 ふふんと小馬鹿にしたように笑い、カラスはカクンと頭を落とした。途端、カラスの体は崩れ落ち、その体からは、否、隕石からおびただしい黒煙が舞い上がった。黒煙はカラスの体と隕石を包み込み、やがて巨大な鳥を象ったような形状になる。目と思しき部分が爛々と赤く輝いており、益々その禍々しさを色濃くしていた。
『そのような詰まらぬ事、我がすると思うか? 我を誰と心得る』
「いや、知らんし」
 あまりに無礼で、無神経なクロキの発言に一同は凍り付いた。何も間違った事ではないのだが、何分相手は得体の知れぬ存在。何をされるか分からぬ相手に、神経を逆撫でするような発言はそうそう出来るものではない。
 やっぱり変わっている。そう思うシロサの前で、クロキは苛立ったようにまくし立てる。
「お前さ、意味分からんよ。今まで家族同然だったのにいきなりタビ襲うしさ、偉そうに喋るし。おまけに隕石から変なの出して巨大化する。脈絡が無いんだよ、行動に。何がしたいのか全く分からんし、そもそもお前自体が訳分からん。結局の所、お前じっちゃんなの?」
『……我は小僧がじっ……』
「それよりお前、タビに謝れ」
 聞いておいてそれはないだろう。思わずシロサは心中で突っ込んだ。
 いつの間にか虫達は茂みまで来ており、草の隙間から乳白色のでっぷりとした体が見えた。けれどクロキは謝れ謝れと連呼するばかりで逃げる素振りを見せない。
 流石にクロキの無礼さが頭に来たのか、カラスだったものは「小僧」と声を荒げる。しかし、タビを傷付けられて頭にきているクロキは全く動じない。
『借していたものを返して貰っただけの事。何故謝らねばならぬのだ……。それより小僧、この状況をどうするつもりだ?』
 全く謝る素振りを見せぬカラスに苛立ちつつも、話を振られてようやく辺りの状況に気付く。
 いつの間にか周囲は虫だらけとなっていた。幸い、隕石の後ろは岩盤となっている為、四方を囲まれた訳ではない。けれど、見渡す限り乳白色の肉厚ボディがひしめきあうこの光景は、良いものだとは言い難い。
 あ。思わず感嘆の声を上げながら、クロキはシロサに「悪いな」と誠意のこもっていない謝罪をする。そして肩を落とすシロサを尻目に、さりげなくある提案をした。
「お前、偉そうにしているんだから強いんだろ?」
『当然だ。我を誰と……』
「だから知らんって。でもそれなら丁度良い。どうせこのままだと皆仲良くおっ死ぬんだ。一丁協定結んでこいつ等片付けようや」
 キィキィと耳障りな幼虫達の声がする。その中央で二人と一匹はまるで時が止まったかのように静止していた。
 スッキリした表情で岩を見上げるクロキ、それをただ見下ろす、煌々と光る赤い目を持つ異端の存在。迷いの無い二つの視線が重なる中、シロサだけが動揺していた。
 陶器のような真っ白な肌は青くなり、脚は今にも倒れそうな程ガクガクと震えている。何故彼女がそこまで怯えるのか、それは紛れもなくそのカラスの化物にあった。
 古来から花と密接な関係にあったシロサの一族は、子孫へと数多の花の種類を口伝する習わしがあった。口伝と言うとお堅く聞こえるが、それは俗に言う昔話に近く、まだ幼いシロサはその話が大好きであった。
 咲き人に優れた腕力を与える花、時の流れの中に身を置く花、主の元でひっそりと咲く花……。幾千にも及ぶ花の話は世間を知らぬシロサの心を踊らせ、そしていつかそんな花を見てみたいという仄かな願いを抱かせた。
 しかし、好奇心をくすぐる花の中でシロサが耳にする度泣いてしまうような、そんな花もあった。
 それを聞き、いつも顔を伏せてしまうシロサへと、あの人は必ずこう言った。

 ──いいかい、シロサ。私達一族はどの花にも平等に接しなければならない。けれど、あの三つの花。特に東のカラスの花には気を付けなさい。あれは……。

 ――クロキさん、駄目。その方を刺激しては……!
 忠告しようとしたその時、シロサを凄まじいまでの悪寒が襲う。否、それは悪寒ではなく、憎悪に満ちた殺気であった。
 乱れる呼吸のまま、ゆっくりと殺気の元を辿る。するとそこにはやはりあのカラスの成れの果てが居り、この世の全てを憎むかのような赤い目でシロサを見据えていた。
 ああ、私には無理だ。最早動く事すら出来ないシロサを鼻で笑い、それは再びクロキへと向き直った。
『協定だと? 頭に乗るなよ、小僧!』
 吠えるように言うや否や、それを中心にして黒い波紋が広がった。まるで大気を歪めたかのような黒い波紋は、次々に周りのものを飲み込んで行く。
 やがて波紋は消え去り、何事も無かったかのように夜の静寂に戻る。そう、虫も、草木も眠るような、沈黙が支配する夜の静寂へと。
「な、何だよ……っ!」
 黒い波紋が通過した直後、体から力が抜けるような感覚に襲われたクロキは地面に膝を付けながら疑問を口にする。長距離を走った直後のように息が切れていた。
 辺りを見渡してみれば、崩れ落ちているのはクロキだけではなかった。シロサも、タビも。そしてあれほどいた虫達もまた、例外無く倒れている。特に重症を負っていたタビの衰弱は他の比ではなく、今やヒュッヒュと力無い呼吸を繰り返すだけである。
「おい、アンタ大丈夫か? タビ、しっかりしろ!」
 首を動かす事さえまどろっこしい体に鞭を打ちながら、シロサとタビの元へ歩み寄ったクロキは二人の体を抱き抱えながら声を掛ける。
 荒い二つの呼吸を確認し、まだ大事には至っていない事を確認したクロキは安堵の息を吐く。どうやら最悪の事態は免れたようだ。
『ほう、我に吸われたにも関わらずまだ動けるか。小僧、中々面白いな』
「面白いも糞もあるか。お前、一体何したんだよ」
『ふん。小僧、貴様は我に感謝をする事は有れど、憤慨する事は無い筈だ。回りを見るが良い』
 何が感謝だと、疑い混じりに周囲を見渡す。目に映るは地面に横たわる虫、虫、虫……。それらはピクリとも動かない。
 何気なく少し大きめの石を取って投げてみる。見事に石が命中したその白い体はブルンと揺れる。けれどそれ以外に動きは見られなかった。
「……死んでいる?」
 闇に浮き上がるずんぐりとした白い巨体。先程まで鳴き、喚き、走っていたそれは、今や身動きすらせず、ただその場にあった。
 もはやただの肉の塊となったそれ等を、クロキは呆然と見つめることしか出来なかった。
『我は死を司る存在。少し小腹が空いたのでな。お前達の生、吸わせてもらった。……小僧、お前は弱い。お前達は黙って我に従えば良いのだ』
「お前は……何が目的なんだ」
『崩れるこの世に目的等、最早無い。しかし……そうだな、我を闇の深淵に封じた者を同じ目に合わすのも良いかもしれん。……のう、鹿の者よ?』
「そんな、私は、私達は……貴方を……」
『この期に及んで言い訳とは。神の使いも中々の外道よのう。忘れたとは言わせぬ。お前達が我にした仕打ちを。我を闇に沈めておき、己等はのうのうと光の中で生きていた事を』
 かつてカラスであったそれは恨みの言葉と共に怨念を膨らませ、姿を形取っている靄を益々大きくする。
 その姿に、殺気に気圧されたシロサはガチガチと歯を鳴らしながら、静かにその場にへたり込む。逃れられぬ死。それが今正にシロサへと襲いかかろうとしていた。
「……っの野郎!」
 しかし死の手がシロサに届く事は無かった。体に届く寸前でそれを形成していた靄のような物を、大きな石を持ったクロキが打ちのめしたからだ。
 勿論、実体の無い靄に物理的な攻撃を行なっても、傷を与える事は出来ない。けれど、予想外のクロキの行動は相手を動揺させるには十分であった。
「ちっ。やっぱり一撃じゃあ仕止められないか」
『馬鹿な。あれだけ吸われたにも関わらず、まだ動けるだと? 小僧、貴様一体何者だ』
「ギャーギャーやかましい奴だな。お前は黙ってやられてりゃ良いんだよ!」
 取り付く島も無く、ブンブンと石を振り回すクロキに対し、それはもう一度波紋を向ける。今度の波紋は周囲一帯には広がらず、クロキだけを狙っていた。
 それをまともに食らったクロキの足がすくむ。一度のみならず、二度も命を吸われたクロキ。彼の状況が絶望的だと理解せざるを得ないシロサは絶望に染まった悲鳴を上げた。
─……鹿の者よ。少々邪魔が入ったが、積年の恨み。晴らさせてもらうぞ』
 クロキの命を吸った事により、靄が濃くなったそれは体と思しき場所から触手のような物を伸ばす。しかし……、
「やられとけって、言っただろ?」
 シロサへと伸ばされたそれは、またもや立ち上がっていたクロキによって鷲掴みにされていた。
『馬鹿な……! 二度吸われて立てるものか。おのれ、こうなれば仕方がない。貴様の命、惜しいが吸い尽くさせて頂く』
「クロキさん!」
 シロサの悲痛な叫びが響くなか、それは触手のような物を直接クロキへと巻き付ける。クロキの体に触れた触手の先が鈍く光り、そしてそれの色が益々濃くなる。クロキの命を、直接吸っているのだ。
 やがて触手の光が止み、それが動かなくなったクロキを解放する。咆哮を上げたソレの体は、カラスともトカゲとも判断しがたい、奇妙な物になっていた。
 ぐったりとしたまま動かぬクロキを目の当たりにし、本人の気付かぬ内にシロサの目から涙がこぼれ落ちた。否、シロサの目に映っていたのは、クロキではなく遠い昔に逝ってしまった、この世で一番愛した相手であった。
「嫌……嫌っ!」
 あの日のように嫌だと叫んでみても、状況はあの日と同じで変わらない。繰り返される悪夢のような現実に、シロサは絶望を抱くと共に強く願った。もっと、自分に力が有れば。と。

「何、余所向いてんだよ」
 だがシロサの涙は既に馴染みとなりつつある、無愛想な声により止まった。
 馬鹿なと、ソレが僅かな動揺を含んだ声で呟く。ハッと顔を上げてみれば、そこには触手を引き千切ったクロキが拳でソレを殴り飛ばしている所だった。
 皮肉な事に、クロキの命を吸収したソレの体は靄から実体化していた。その事により、ソレはクロキの拳をまともに食らってしまう。
『馬鹿な、我の力が効かぬだと!? あり得ぬ、あり得ぬぞ!』
「雑魚みたいにギャーギャー煩いんだよ。お前のチンケな攻撃なんざ効かねぇよ、ばーか」
『貴様、死が怖くはないのか!?』
「怖いに決まってんだろ。アホか」
 指の関節を鳴らしながら、クロキはアホらしいとばかりに罵倒を付け加える。そして拳をソレに叩き付けると、シロサに手を差し出してこう答えた。
「こんな所で俺は死ねないんだよ。俺の命は俺だけの物じゃない。……約束なんだよボケ」
 そう言ったクロキの脳裏に、一人の少女の顔が浮かび上がる。夢かもしれないが、あの子はクロキが生き延びる事を望み、そしてある願いをクロキに託した。
 シロサを起こしたクロキはその腕に抱かれていたタビの顔を覗き込む。既に痛みを感じていないであろうタビは、クロキの臭いを嗅ぐと、クゥンと小さく鳴いた。
 そんなタビをクロキは複雑な表情で見つめ、悪いと消え入りそうな声で呟いてタビの頭をそっと撫でた。
「てな訳で糞カラス。お前の力、俺に寄越せ」
「何故我が貴様何ぞに……っ!』
「良いから黙って力貸せよ。お前等も単品でいるより、咲き人とか言う奴と一緒にいた方が良いんだろ? 俺だってお前みたいなカス、願い下げだし。此方だって折れてんだから、お前も折れろや」
 何てタチが悪い。傍観していたシロサは思わずそんな事を考えた。
 確かに、花は咲き人が居ないと十分な力を発揮する事が出来ない。咲き人、つまり契約者がいて初めて花の真の力が出されるのだ。
 この隕石を根城としているカラスだったものの力は確かに強大だ。しかしそれは仮の住まいだったであろう隕石が側に有るからこそであり、隕石から離れると途端に無力となる。それは隕石から離れようとしないこと、この場所でしか力を使っていない事が証明している。
『……良いだろう。契約してやる。小僧、左手を差し出せ』
 黙っていたソレは不満気ではあるがクロキの提案を了承し、黒い靄を変形させて一羽のカラスの姿を取る。そして隕石からクロキの腕に飛び移ると共に、ソレは一際不気味な声で彼へと囁いた。
『だがな。我はお前を認めた訳ではない。貴様が力を使う度、我は貴様の体を侵食して行く。そして貴様が完全に力に溺れた時、それが……!』
 話の途中であったが、左手に刺すような痛みを感じたクロキは、それ以上聞く事が出来なかった。


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