3 タビとじっちゃん
「して、シロサ殿。貴女が私共を尋ねたという事は……いえ、それを聞くのはあまりに無粋ですな」
 コウジの言葉にシロサは眉をひそめ、そして物憂げな表情を浮かべて視線を畳へと反らす。そしてコウジが質問を思い止まった事に対して小さく礼を口にすると、再び顔を上げた。
「御告げが来ました。再び烏と、神の獣と手を組めと」
「なんと……っ」
 シロサとコウジは何やら真剣な表情で語り合うが、クロキはその内容の意味が全く理解出来なかった。むしろ、ゲームや漫画でしか聞いた事のない言葉のやり取り、そして父の反応に笑いを堪えるのがやっとであった。
 プルプルと肩を揺らしながら、懸命に笑いを押し殺すクロキの耳に、奥の部屋から此方へと近付いて来る乱暴な足音が届いた。途端、クロキは瞬時に笑いを止めて逃げ出す準備をする。
 うっかり電波な話が面白くて逃げ出せずにいたが、あの足音の主が、祖父が来たら延々と話に付き合わされ、逃げ出すような素振りを見せれば、話を聞いていない事に気付かれたら厄介な事になる。恐らく、お前はブシガワ家の者としての自覚が無い! と怒鳴られ、朝まで説教されるだろう。今までの経験上、嫌でも分かる。
「クロキ、何処へ行く」
 そうなる前に逃げ出さなければ。なるべく気配を消してそろそろと立ち上がるクロキであったが、シロサと難しい表情で語り合っていたコウジがクロキのローブを掴んで離さない。
 面倒でもローブを脱いでおけば良かったと後悔しながら、クロキは便所と嘘八百を口にする。それを聞いたコウジは早く済ませろと短く口にすると、案外あっさりと手を離す。
 少々想定外であったが、逃げられるのであればそれでも良い。内心嬉しさで飛び上がりながら、クロキはそそくさと部屋から立ち去ろうとした。が、
「クロキ、便所は反対だぞ。爺さんが歩いてきている方が便所だ。長年住んでいるんだから、間違える筈ないよな」
 戸に手をかけたクロキの肩がビクリと跳ね上がり、じわりと嫌な汗が滲み出る。自分の浅はかな企みなど、とっくに見破られていたのだ。
 背中越しに伝わる父の殺気。きっと顔には穏やかな笑みを浮かべているだろうが、「殺すぞてめぇ」という無言の圧がじわりじわりとクロキの背を押している。そして同時に背後の戸が勢い良く開かれた。
「西の鹿殿、よくぞいらした!」
 赤ら顔でよく分からぬ事を口走りながら室内に入って来た祖父を見て、クロキは「あぁ終わったな」と盛大に溜め息を吐いたのだった。

 ・

「ほう、シロサ殿はもう三年も旅をしておるのですか。いや、悪いことをしましたな。まだ世界が残っていた頃に文の一つでも送れば、そんなに探し回らずとも……」
「いえ。どうかお気になさらないでください。さるべき時まで鹿と烏は表立って関わりを持ってはいけない決まりですから」
「しかし、旅に出てから何度も危険な目に遭われたでしょう」
 ――何で俺ここに居るんだろ。
 真剣な顔持ちで話を続ける父、祖父、シロサを前に、一人茅の外のクロキは心中で重々しく溜め息を吐いた。
 祖父が乱入してきた後、クロキは祖父に首根っこを掴まれて強制的にこの会談に引き戻された。それから既に小一時間程クロキを除いた三人は話し続けていた。
 話を振られない上に全く興味のない会話に、クロキは聞いているふりをしてひたすら瞑想をしていた。それこそ、解脱ができるのでは無いかと思う程に。
 クロキとて初めは聞こうと努力した。けれど、三人の口から出るのは「鹿・烏・卵・蕾」等のよく分からぬ単語ばかりで、それらの意味が分からぬクロキは聞くことを放棄したのだった。
 このまま黙っていてもいいが、いい加減に足の痺れがピークに達する。そろそろ頃合いだろう。そう思い至ったクロキはなるべく会話の邪魔にならないよう口を挟み、
「あのさ、俺もう寝ていい? 話全く分かんないし、疲れたし……」
 だがいかんせん、彼は言葉回しが下手であった。
「馬っ鹿者がっ! シロサ殿が遥々訪れてくださったと言うのに、ブシガワ家の男が話し半ばに退場したいとは何事ぞ! 恥を知れ!」
 案の定祖父の逆鱗に触れてしまい、怒声が室内に響き渡る。やっちまったなと肩をすくませるクロキの横では、怒鳴られた本人より怯えるシロサの姿があった。これではどちらが怒られているのか分からない。
 酒が入っているという事もあり、祖父の声はいつもより大きかった。その声に、隣の部屋でいた母と祖母が何事だと顔を覗かせる。
「ワシはお前をそのような軟弱者に育てた覚えは無い! 此方へ来い! その腐りきった性根を叩き直してやる!」
「イタタタ、じいちゃん痛いって!」
 首根っこをむんずと掴まれ、部屋の奥へと連れて行かれるクロキを前に、シロサはただ戸惑う事しか出来なかった。
 助けるべきだろうか、いや、助けるべきだろう。そう思い至ったシロサはこの状況を変えてくれそうな人、コウジにそっと視線を送る。だがコウジは苦笑いを浮かべ「お気に為さらず」と口にするだけであった。どうやらコウジもあの祖父には適わないようだ。
「あ、あの……っ!」
 コウジにもどうにも出来ない事が分かったシロサは、咄嗟にクロキ達へと声をかける。どうやら気にしない事は無理だという結論に至ったようだ。
 シロサの声に、諦めたのか抵抗さえしなくなったクロキを引きずっていた祖父が動きを止める。此方を向いた祖父の顔を見たシロサは思わず息を呑んだ。怒りにつり上がった爛々と光る目に、ぐっと噛み締められた口。赤ら顔という事もあり、その顔は赤鬼以外の何物でもなかった。

「クロキさんは私を助けた際に体力を随分消費してしまったんです。ですから、どうかクロキさんを休ませてあげてください。あの話しはまた明日にでも出来ますし、それに……」

 そこまで口にして、シロサは何かを小さく呟いた。その言葉にコウジは確かにと頷くと、祖父にシロサ殿の言うとおりだと告げる。
 赤鬼と化した祖父は少し何かを考えた振りをした。そしてクロキに本当にシロサを助けたかどうかを確認し、クロキがそれを肯定すると同時に彼を解放した。正確に言うと逃げるシロサを追いかける際に体力を消費したのだが、クロキにとって説教から逃れられるのならば、何でも良かった。
 良くやったと珍しく祖父に誉められたクロキは、むず痒いような恥ずかしいような、良く分からぬ感情になった。そして、寝て良いぞという祖父と父の言葉に甘え、部屋を後にした。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 シロサと就寝の挨拶を交わし、既に兄弟達が寝入っている寝室に入ったクロキは、ドッと襲って来た睡魔と疲労感に圧されながら、祖父を止めるきっかけとなったシロサの言葉を思い返していた。

 クロキさんはまだ咲いていませんから

 シロサの最後の呟きを聞いた後、父と祖父の態度は一変した。果たして"咲く"とはどのような意味を持つのだろうか。
 僅かな疑問を抱きつつも、睡魔に飲み込まれたクロキの意識は水に沈む石のようにゆっくりと沈んでいった。

 ・

 次に意識が戻った時、クロキは見覚えの無い真っ暗な空間に座っていた。
 ああ夢か。それにしても酷く殺風景で面白味の無い夢だな。焦るでもなく、そんな事を考えたクロキは代わり映えの無い景色に飽き、目を閉じてごろりと寝転ぶ。そんな時だった。有り得ない声が彼の名を呼んだのは。

 ──クロキ君。
 その声にクロキは即座に目を開けて上体を起こす。毛が生えているのだろうと言われる心臓が早鐘のように鳴り響き、指先にまで血液が巡っているのが分かる。
 この声が二度と聞こえる事は無いと分かっている。けれど先程自分の名を呼んだ声は、十年前から何も変わらぬ恋い焦がれたあの娘の声。
 有り得ない、有り得ないだろうと返事も忘れて心中で何度も繰り返すクロキの前に、一筋の光が舞い降りた。その光は尚もクロキの名を呼びながら大きくなり、やがて淡い光を身に纏った少女の姿となった。

「久しぶりだね、クロキ君」

 穏やかな笑みを浮かべて挨拶をした少女は、間違いなくクロキの初恋の少女であった。
 世界が崩壊した十年前のあの日から、クロキは背丈も声も、そして中身も随分変わった。けれど目の前にいる少女は十年以上経ったにも関わらず、あの日のままで、あの日と同じような優しい笑みを浮かべている。それが彼女が既にこの世に居ない何よりの証に思え、クロキの胸は締め付けられた。
「クロキ君?」
「あ、うん。元気?」
 何を言っているのだろうか。何も言葉が浮かばず、元気? という馬鹿げた質問しか出来ない自分が堪らなく情けなく思え、クロキは軽く頭を抱えた。
「うん、元気だよ。でも、クロキ君はあの日から元気じゃなくなったよね」
「何で? 俺元気だよ。ほら、この筋肉」
 力瘤を作って見せるクロキに少女は微笑みを浮かべたが、次の瞬間には真剣な表情でクロキを見つめ、
「ううん。嘘吐いちゃ駄目だよ。私、知ってる。クロキ君、あの日から自分を責めてる。どうして自分だけ生き残ってるのか、何故あの日に皆と一緒に死ねなかったのかって。生きている事に希望を持っていない。あの日から、ずっと」
 心臓を鷲掴みにされたかと思った。
 本心を言い当てられた事、そして誰にも言っていない事柄を何故知っているのか。その二つにクロキは目眩を覚えた。そのせいか口内が運動直後のようにカラカラになる。
「クロキ君、生きる事を嘆かないで。生きている事に絶望しないで。クロキ君は悪くないよ、何も悪くない。私達の事を思うなら嘆くより……花を咲かせて」
 泣きそうな顔の少女のその言葉を最後に、クロキの意識は地響きと共に覚醒した。
 クロキが目覚める数分前の事。シロサはコウジ達に案内され、地下の一室で寝間着に着替えていた。
 地下にもかかわらず、室内は全く湿気ていなかった。それどころか、時折室内に吹く涼やかな風が気持ち良い程だ。
 用意された寝間着に着替えたシロサはふうと一息吐くと、そろそろと布団に入る。先程地下の水場で水浴びをしたせいか、一日の疲れが一気に押し寄せ、シロサの目は次第にまどろんで来た。
 ちゃんとした寝床で眠るなんて、何時ぶりかしら。明日、クロキさんにきちんとお礼と謝罪をしなきゃ。ふかふかの布団にくるまれたシロサは、このような待遇をしてくれたブシガワ家に感謝の意を唱えながら、ゆっくりと目を閉じた。
 視界を塞いだシロサの意識は水面を漂う草舟のように、遠く遠くに流れてゆく。しかし意識が完全に遠退く直前、小さな声がシロサを呼んだ。その声にシロサは直ぐ様目を開け、布団から上体を起こす。
 固まったまま、じいと戸を見つめていると小さな声が再びシロサを呼んだ。

「お姉ちゃん、起きてる?」
「ミキちゃん……?」
 その声の主はクロキの末の妹、ミキのものでシロサはほっと胸を撫で下ろしながら布団から出て立ち上がる。そっと襖を開けてみると、そこにはやはりミキがいて、蝋燭を片手ににっこりとシロサを見上げていた。
 こんばんは。どうすれば良いのか分からず、とりあえず挨拶を交わしたシロサはミキを部屋に招き入れる。誰かと一緒なのかと思い、廊下を眺めてみるも周囲には誰もいなかった。
「ミキ一人だよ。お姉ちゃんとお話ししたかったの。お姉ちゃん、お話ししてくれる?」
 良いよと答えるとミキは嬉しそうに目を細め、部屋の奥にある座布団にちょこんと座る。
 こんな夜更けに幼い子が起きている事にシロサは少しの不安を感じた。しかしミキの無邪気な姿に少なからず愛情を抱いている為、そして出会った当初に言われた言葉が頭に引っかかっていたシロサは、追究する事なくミキの向かいにある座布団に座った。
「お姉ちゃん、白い服似合うね」
「ありがとう。ミキちゃんも良く似合っていますよ」
 寝間着姿を誉められ、シロサは真っ白な肌を少し赤く染めて礼を言う。事実、白地の浴衣は真っ白なシロサに良く似合っていた。
 同じ寝間着姿のミキに同じ言葉を返すと、ミキも嬉しそうに笑う。同じ寝間着を着たミキもまた、非常に似合っており違和感が無かった。
「お姉ちゃん、クロキお兄ちゃんの事どう思う?」
「え? どうと言われても……」
 談笑した後の突拍子もない質問にシロサは面食らって言葉を濁した。
「クロキお兄ちゃん、無愛想で無神経だけど本当はとっても優しいよ。だから今も咲けずにいるの」
 蝋燭の光のみが照らす室内で、ミキはポツリと呟いた。"咲けずにいる"その言葉にシロサは未だ混乱する思考を止め、ミキを見つめる。
 どうしてこんな小さな子がその言葉を? 探るようにミキの顔を見つめるも、少女の表情は暗がりに隠れて見えない。
 何も言えずただ黙るだけのシロサへ、ミキは顔を上げてニコリと微笑んだ。暗がりから浮き上がるその表情は、笑っている筈なのに悲しんでいるように見えた。年齢に似合わぬ大人びたその表情に、シロサはまたしても何も言えなかった。
「蕾の声は聞こえているの。でもクロキお兄ちゃんはそれを拒んでる。お兄ちゃんは自分を許していないから……。お姉ちゃん、お姉ちゃんの花は……」
 そこまで言った時、ミキは急に口を閉ざして斜め上を見つめた。その様子を不審に思ったシロサはそっとミキの小さな顔を覗き込む。
 が、ミキの顔を見たシロサは思わず息をのんだ。何故ならば、小さな少女の目はなんの光も宿さぬ、まるで深淵のような闇の色に染まっていたからだ。

「……来る」
 小さくそう呟いたミキは、まるでシロサが目に入っていないように立ち上がると、無言のまま襖を開けて廊下へと飛び出した。
「ミキちゃん……!?」
 続いて廊下へと出たシロサは慌ててミキの肩を掴む。
 肩を掴まれたミキはゆっくりとシロサの方を向く。が、その目は正面にいる筈のシロサは映しておらず、虚空を見据えていた。
「来る、来る来る。沢山の怨念、数多の恨みが来る。狙いは……駄目、分からない。数が多すぎて読めない。この家を狙っている? 違う。家じゃない。これは、彼等の狙いは……」
「ミキちゃんっ!」
 つらつらと喋る声はミキの幼いものではなく、男とも女とも取れない。いや、そもそも声と呼んで良いのか分からない、波長に似た音であった。
 いったいどうしたのだと言うのだ。正気を失ったようなミキの身体を懸命に揺すると、ミキは突然シロサの手を握り、初めて彼女を視界に映した。
 深淵のような瞳に見据えられたシロサは僅かに身動ぐが、それでも握られた手と視線を外さなかった。
「咲人が危ない。早く蕾の元へ……。クロキ……お兄ちゃん……」
 波長のような声の後に、ミキの弱りきった声が続く。兄の名を呼んだミキは、数時間前のように廊下へと崩れ落ちた。その体を寸でのところで抱き抱えたシロサは、焦る気持ちを抑えながらミキの言葉を整理する。
 ミキ、いや、あの声は咲人が危ないと確かに言った。咲人が誰なのか、それは定かではないがシロサはそれがクロキだろうと予測した。何故だかは分からないが、無意識の内にクロキの名が浮かんだのだ。
 それは単にミキが彼の名を呼んだからかもしれない。けれど、ミキが彼の名を呼んでいなくとも、きっと彼を想像しただろうとシロサは思っていた。
「ミキちゃん、私が守るから。だから眠っていて」
 既に意識の無いミキに話しかけながら、シロサは小さな彼女を布団に寝かせた。
 おやすみなさい。部屋を出る寸前にミキに挨拶をし、シロサは暗い廊下を走り出す。
 地下に存在する室内は何の明かりもなく、一寸先も見えない。しかし世界が消えてから旅を続けたシロサにとっては、暗闇等取るに足りない事であった。
 触覚、聴覚、そして感。視覚以外の感覚を活用し、シロサはひたすら廊下を走り続ける。曲がり角、段差……それら全てを避けて、飛び越え、シロサは走った。彼女は華奢な体からは想像出来ないが、足の速さと持久力が自慢なのだ。が、シロサはある事に気付き、足を止めた。
 ――クロキさん、何処に居るんだろう?
 直後、地響きがブシガワ邸を襲った。

 ・

 一方その頃、目覚めたクロキは突然の事に泣き喚く兄弟達を部屋に押し込め、一人地上へと向かっていた。
 父達に状況を聞こうとも思ったのだが、兄弟達の混乱ぶり、そして今家に客人がいるのを思い出し、一人地上へと向かったのだった。自分一人で向かえば、もしもの時も地下の戦力を減らさずに済む。そう考えての行動であった。
 地下の階段を上がり、地上の家に着いたクロキは地下への隠し扉を固く閉ざした。そっと耳を澄ますと無数の羽音と、何かがぶつかり合う音が聞こえてきた。
 それを耳にした途端、クロキは苛立たしく舌打ちをすると、ゆっくり立ち上がる。床は僅かに揺れていた。しかし家自体はさほど揺れていない。地震で言えば余震だろうか。ともかく、今の所家に大きな被害は無いようだった。
 しかしその僅かな揺れはクロキの忌まわしい記憶を呼び覚ますのには、十分過ぎる程適していた。11年前、世界が滅亡したあの日の地響きと、今の揺れ。それは非常に似通っており、クロキの目に僅かな動揺が映し出される。

 ──……せ。早……の……へ。
 拳を強く握り、過去の映像を払拭しようともがくと、声とも取れない不思議な音がクロキの頭に流れる。
「……だっる」
 苛立たし気に畳を殴り付け、クロキは外の状況を探るべく走り出す。
 先程の妙な音は11年前のあの日から何度もクロキの頭に流れた。しかし、顔を上げても周囲には誰もいない。そんな事が立て続けにあった為、クロキは次第に自分がおかしくなったのだと思うようになっていた。その考えは二年前、家族と食事中に聞こえた時により一層強くなった。
 無理もないだろう。途切れ途切れに、けれど確かに此方へと何かが語りかけているのに、自分以外の者は黙々と捕りたての虫を食べていたのだから。そんな中で自分だけ妙な音を聞いているのだから、自分がおかしくなったのだと考えても仕方無い。
 月明かりのみが照らす廊下を走りながら、クロキは窓から外の様子を見る。しかし、当然の如く真夜中の屋外の様子など見る事は出来なかった。
 尚も頭に流れる音を無視するクロキの耳に、一際大きな羽音と犬、そしてカラスの鳴き声が届いた。犬とカラスは火が着いたようにけたたましく鳴き、それに対抗するように大きな羽音が鳴り渡る。
 嫌な予感がしつつも、クロキは玄関の鍵を開けて表に飛び出した。

「何だよ……コレ」
 思わずクロキの口から疑問の声が漏れる。
 暗闇に慣れたクロキの目には、11年間見続けた隕石が乗った山がある。しかし今、その隕石へと体長五メートルはあるであろう、カブトムシに似た巨大な虫が体当たりを繰り返していた。
 虫が隕石に当たる度、隕石は悲鳴とも取れる鈍い音を立て、大地を揺らす。気のせいか、隕石と虫が当たる度に隕石からは薄いピンク色の光が漏れていた。
 呆然とその様子を見ていると、巨大なカブトムシの回りで浮遊していた三メートル程の、これまたメスのカブトムシに似た虫が数匹此方へと飛んできた。途端、犬とカラスは気が狂ったように威嚇の声を上げる。
 ブウゥウン。鈍い羽音を上げ、硬い殻に身を包んだ虫がクロキの家に、否、クロキ目掛けて降下する。それは巨大な銃弾が迫るに等しかった。
 しかし、カブトムシのその強固な装甲がクロキに、ブシガワ邸に当たる事はなかった。
 咄嗟に目を瞑っていたクロキはいつまでも来ない痛みに、そろそろと目を開く。目を開いてみてもやはりカブトムシの姿はない。どういう事だと頭上を見上げたクロキは絶句した。
 ブシガワ邸の上空三メートル程の高さで、カブトムシは何か見えない壁に阻害されているかのように止まっていた。そのカブトムシを見かねたのか数匹のカブトムシが同じように突進するも、それらも同じように空中で止まる。
「……何だよこれ」
 何もない場所でひたすら突進を繰り返す甲虫。そしてその後ろで隕石に突進し続ける巨大な甲虫達……。全く理解できない状況にクロキはそんな言葉を漏らす事しか出来なかった。
 だが世界が滅んでから今まで生き抜いて来たクロキはいつまでも呆けているようなタマでは無い。直ぐに頭を切り替えると、危害が無いように犬達を犬舎の方へ追い立てた。そして与作とよし子を犬舎の前に呼び、子犬達を守るようにと言い聞かせる。

 ガァ

 与作とよし子が素早く子ども達を避難させる中、クロキは腕を組んで次の対策を練る。そんな時クロキの頭上から、しわがれたカラスの声がした。反射的に顔を上げると、そこには犬舎の屋根から此方を覗き込む一羽の老いたカラスが居た。
 片目が白く濁っているこのカラスを良く知っているクロキは、ああと頷くと今晩はと挨拶をする。
「どうしたんだよ、じっちゃん。只でさえ目見えてないのに、こんな夜中じゃ何も見えないんじゃないの?」

 じっちゃん。
 そう呼ばれた老いたカラスはまた一声鳴くと、ピョンと屋根から飛び下りてクロキの肩に乗った。
 カラスの眷属であるブシガワ家は、代々カラスを自由に操る事が出来た。操ると言っても支配するのではなく、力を貸してもらう事に近く、その関係はよそよそしいものであった。事実、ブシガワ家とカラス達は面倒事以外は滅多に接触しない。
 だがクロキとこの老いたカラスの関係はそのように他人行儀なものではない。
 小学校二年の時、まだまだ幼かったクロキは「何でカラスに一々頼まなきゃならないんだ。いつでも手貸せよ!」とジャイアニズムを発揮し、どちらが賢いかを示すべく一羽のカラスに勝負を挑んだ。それがこの老いたカラス、通称じっちゃんだ。
 結局、勝負はクロキが額を叩き割られ、見事なまでのカラスの勝利に終わった。だが、当のカラスはクロキを舎弟と思っているのか、気に入ったのか。それから何かとクロキに構うようになった。クロキの方も悪く思っていないようで、老いたカラスを見れば自ら声をかけたりしていた。
 こんな夜更けに年寄りが起きているもんじゃないぞ。若干緊張が解けたのか、クロキはおどけてみせる。それに対して老いたカラスはガァと短く鳴き、クロキの頬をついばむ。
「痛い痛い! 何だよじっちゃん。睡眠邪魔されたから怒ってんの? だったら虫の方にしろよ」
 両手で頬を押さえ、恨みがましく睨むクロキを尻目に、カラスはヒラリと犬舎の中に降り立った。そわそわと落ち着きの無い犬達を掻き分け掻き分け、カラスは隅に居た若い犬の頭にピョンと乗った。途端、その犬はシャキリと立ち上がり、与作とよし子の間をすり抜けて犬舎を出ていった。
 それに驚いたのは頬を押さえて立っていたクロキである。
 あの犬は他の者より臆病で、いつも他の犬の尻に付いて行動する。よって、今のように一匹で行動するなど今まで一度も無かったのだ。
「タビ、じっちゃん、何してんだよ。危ないから早く戻って来いよ」
 犬とカラスの名を呼ぶも、一羽と一匹は前方で立ち止まってクロキを見つめるだけだ。
 ガァ。
 やがて、かすれきった声で老いたカラスが何かを伝えるかのように一声上げた。途端、タビは弾かれたように家の外へと走り出した。
 何故、あの気弱なタビが? そんな事を思いながらも、クロキの足は無意識の内にタビを追いかける。そんなクロキの後方で、与作とよし子が悲し気に空に向かって吠えていた。

 ・

 何とか地上に辿り着いたシロサは頭上に浮遊する無数の虫を目の当たりにし、動揺を隠せぬ表情を浮かべた。
 虫がこの場に来た事を異様に思っている訳ではない。この世は既に虫に支配されつつある。そんな中で虫と無縁の暮らしを送るブシガワ家こそ異様なのだ。そんな事はこの家に来た時から分かっていた。
 けれど、シロサの心はすっかり動揺していた。それはきっと、心の何処か隅でブシガワ家は虫に侵されない楽園であって欲しいと、少なからず願っていたからだろう。
 上空の虫を、そして向かいの山の頂に鎮座する隕石を見たシロサは何か考え込むように、顎に手を添えた。そんな時だった。シロサの前を、茶色の獣が走り去って行ったのは。
 あれは何かしら? あっという間に闇に溶け込んで行った獣にシロサは意識を取られた。そして次には考えを整理するより早く、聞き覚えの有る声が近づいて来た。
「タビ! おいコラ待て!」
「クロキさん!?」
 怒りの声を上げ、憤怒の形相で走って来るクロキを目にしたシロサは、思わず彼の名を呼んだ。だがクロキはシロサがこの場にいる事に少し驚愕の表情を見せたものの、足を止めずにそのまま走り去った。
 これに驚いたのはシロサである。驚くと同時にほぼ無意識に彼を追いかけたシロサは幾つかの質問を口にした。
「ク、クロキさん。一体どうしたのですか? あの虫は何故貴方の家を?」
「俺だって知るか! 生まれてこの方、あんな虫が家に来た事は無かったんだ。大抵は森に入った時点で逃げるように去っていく。何が原因かだなんて此方が知りたいくらいだ!」
「どうするおつもりなんですか?」
「だから知らねえって。前列が無いし、何より相手が相手だ。あんな装甲した虫、倒すのは難儀だろうよ」
「……でしたら、御家族を放っておいて良いのですか?」
「放っておいて言い訳無いだろ。だから今追いかけてんだよ」
 その言葉にシロサはおや? と首を傾げた。クロキの家族は皆地下にいる筈だ。けれど、彼の話によると今彼は家族の誰かを追いかけているらしい。だが、シロサの記憶ではクロキ以外に前を通り過ぎたのは得体の知れぬ獣だけである。
 現に、彼等が走る前方には獣の尾らしきものが辛うじて見えている。
「誰を追っているのですか?」
「タビとじっちゃん」
 柵を飛び越えたクロキに続き、軽やかに跳躍したシロサはその答えに益々頭を悩ませた。
 タビを履いた彼の祖父を追っているのだろうか? いや、しかし彼の祖父が前を通った記憶は微塵もないし、老人の足に自分達が追い付けぬ筈がない。それにやはり前を行くのは獣の尾だ。人ではない。
 危ないから家に戻っておけ。クロキの命令をやんわりと断り、シロサはひたすらクロキの後を追って走る。責任、取らないぞ。そんなクロキの呟きが聞こえたがシロサは足を止めなかった。何故か付いていかなければならない気がしたのだ。

 やがて二人は町からブシガワ家に向かう時に通った森に入った。この先に、あの不気味な隕石があるのだと思うと、少し気が重くなったがそれでもシロサはついて行く。
 数時間前に通った筈の森は何故か不気味で、クロキとシロサは嫌な予感がしながらもひたすら足を運んだ。

 ギャイーン!
「タビ!?」
 そんな中、沈黙を破って犬の悲鳴が響き渡る。間髪開けずにタビと叫ぶクロキに、シロサは今追っているのはタビという名の犬だと気付いた。
「タビ……さん、犬なんですね」
 思わず口をついて出た言葉に、クロキはピクリと反応した。そして無言のまま、声がした方へと走り出す。
「あんたにとって、家族は人間だけか?」
 うぞうぞと何かが蠢く気配が漂うなか、クロキは静かにシロサに尋ねる。唐突な質問に反応出来ず、シロサは直ぐに答えを出すことが出来なかった。
「俺にとっては親父やミキ達のように血を分けた存在も、タビやじっちゃんのように異なる存在も、紛れも無い家族だ。可笑しいかもしれないけど、俺はずっとそう思ってる。だからこうやって追いかけるんだ。アンタは、アンタも畜生と人間様を区別する考えか?」
 押し迫るようなクロキの言葉に、シロサはぐっと心臓を捕まれたような感覚に陥る。
 しかしそれは彼が真に家族を思うが故であった。彼は種族の違いを越え、苦楽を共に育った者を家族だと思うのだろう。
「……クロキさんは立派な御方ですね。種族という壁を越え、姿形に囚われず真に相手を思っています。……とても、とてもお優しい」
「は!? 何でそうなるんだよ。あー、もういいや」
 予想外のシロサの反応に、クロキは珍しく素っ頓狂な声を上げると、興醒めと言った調子で話を誤魔化した。
 意味分かんねぇ女。少し赤くなった顔を夜風で冷ましていたクロキだったが、不意に足を止めて緊迫した表情で辺りを見渡した。いきなりの停止に後ろに続いていたシロサは驚きはしたものの、今回も軽やかなステップを踏んで寸での所でぶつからなかった。
 いきなりの停止に疑問が湧くが、尋ねるより早く周囲の異変に気付いたシロサは開きかけた口を閉ざした。
 うぞうぞうぞ。風に揺らぐ葉のさざめきに、未だ隕石に突進を続ける虫の音に紛れて、何かが蠢く音がした。音の数からして、その物体の数は無数に渡る事が難無く分かる。ただし、その情報は今の彼等にとっては焦りを増長させるものでしかなかった。

「……走れっ!」
 不意にクロキが叫び、弾かれたように走り出した。
 その直後、二人がいた場所目掛けて無数の巨大な白い幼虫が飛び掛かった。


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