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 青緑の培養液の中で目覚めたコユキは、朦朧とする意識の中手を伸ばし、培養液が満たされているプールの縁を持って体を起こす。
 ぼやけた視界に映る手は無数の管に繋がれているものの、散々見慣れた自分の手。手だけではない。腕も、足も、胴体も顔も……全て見慣れたものである。けれど、彼女は知っていた。もうこの体は以前のものではないのだと。
『意識はあるようだね。呼吸も正常。心拍数もそう乱れていない』
 声石越しに聞こえてくるアルティフの声に顔を上げると、顔に束になってかかっていた黒髪が流れ、一糸纏わぬ裸体に落ちる。
 髪と同じ黒い目で虚空を見つめる彼女の耳には、体に繋げたコードによって提供された情報を読み上げるアルティフの声が右から左に流れてゆく。
 心を失ったかのように無反応を極めるコユキの元に、同じく無表情のココーが歩み寄り、体を起こしただけの彼女の体を無理矢理立たせようとする。
 先日のココーとの接触によりコユキは通常の治療では延命が無理な状態となっていた。意識を失ったコユキは直ぐに実験室に連れて行かれ、他の生物の遺伝子を掛け合わされることとなった。
 成功率の非常に低い実験であったが、皮肉にも実験は成功。彼女は体の絶命も、変質化も精神崩壊も全く起こらないまま、晴れて魔物と呼ばれる生物へと生まれ変わった。
「触るな、この野郎!」
 ココーの手が触れた途端、それまで虚空を見つめることしかしていなかったコユキの目に光が宿り、先ほどまでの抜け殻のような様相とは打って変わり、勢いよくココーの手を弾く。
 勢い余って再度培養液のプールに沈んだコユキだが、起き上がり小法師の如く起きあがると、まずは体に繋がれているコードを無理矢理引きちぎり始めた。
 コードのほとんどは吸盤状だが、中には体に射し込むタイプの物もある。そういった物は無理矢理取ると、当然ながら流血沙汰になる。が、血が出ようが皮膚が裂けようが関係なく手当たり次第にコードを外す。すかさずココーが止めにはいるのだが、彼の存在はコユキにとって鬼門であるため、更に手の着けられない事態となる。
『ああ、せっかくの素体が……。やめなさい!』
「煩い! いっつも薬打って、意識が混濁する中素っ裸でこんなプールに沈めやがって! 今日こそは許さねえ!」
 途端、コユキの目が仄かに白く光り、彼女の周りに白い靄のような光が現れる。それは、彼女が人間でなくなった証であり、同時に生き残っている理由でもあった。
 その光を見た途端、アルティフの口からは感嘆に似たため息が漏れ、ココーの眉間に僅かな皺が寄る。
「また出た! 何だよこれ!」
 そして同時に、この光が何なのか理解していないコユキは、怒ると毎回現れるこの現象に驚いていた。その驚きが命取りとなり、一瞬の隙を見せたコユキはものの見事にココーに打ち倒され、再度プールに沈む。
『今日も無理そうだねえ……仕方ない。ココー、今日のところはこれで終了だ。運びなさい』
 言うや否やガラス越しのココー達から手元の書類に目を移す。そこにはしかめっ面のコユキの写真と共に彼女の研究データが所狭しと書き連ねられていた。
「さて、そろそろ彼女に協力を求めようかねえ」
 しかめっ面のコユキの写真の隣に置かれた書類。そこに映っている人物に微笑みかけるアルティフからは、悪意などは微塵も感じられなかった。

 ・

「……そろそろ学習しろ」
 乱暴に牢に放り込まれたコユキは、すぐさま起きあがると既に姿の見えないココーへと、お前等こそ理解しろよと吠える。
 コユキやココーのような人間の体を保っている魔物はシキと呼ばれ、アルティフに従順であることを前提に各個室を持つことが許されている。牢に入っているのは適合できなかった者、所謂失敗作か、コユキのような反抗的なものである。ちなみにコユキは一度たりとも彼の命に従ったことがないため、牢暮らししか経験したことがない。
 岩肌を利用している牢はお世辞にも過ごしやすいとは言い難い。粗末な寝具とトイレ等の水場はあるが、仕切がない為丸見えという体たらくだ。だが、それでもコユキはこの牢が好きだった。
「おかえり、じゃじゃ馬娘さんよ」
「……ただいまケーガン。ねえ、本当あいつら腹立つんだけど!」
「それはお互い様だと思うのだけどねえ」
 反抗しているものが放り込まれるということは、コユキにとっては仲間が集まっていると同じことである。アルティフの配下に無い者との会話が、今のコユキにとっては一番の息抜きになっていた。
 今にも壊れそうな椅子に腰掛けて古書を読んでいた女性が、栗色の目を細めてコユキに微笑みかける。途端、コユキはバネのように跳ね起き、まるで飼い主を見つけた犬のように彼女の元へと駆け寄った。
 彼女の名はケーガン。コユキと同じ牢に入れられており、年上の女性と言うこともあり、姉を持つコユキにはどこか親しみやすさを持っていた。また、人を寄せ付けない雰囲気を持つケーガンも、犬のように懐くコユキを無碍にはしておらず、二人の関係は中々良好であった。
「勝手に浚って実験してさ! 研究を断れば薬打って混濁している状態で無理矢理だよ? こっちは嫌だって言ってんのに! 大体あのココーもアルコー……アルフィフ?」
「アルティフ。覚えられないなら博士と呼べば良いのではないかい?」
「それ、博士の言いなり。あいつの命令に対して疑問も反抗心も抱かない。ああ、出しただけで腹立つ!」
 アルティフの命令一つでココーにしてやられたことを思い出し、頭に血が上る。気が付けばまた周囲に白い光が漂っていた。
 興奮するあまり流血が止まらないコユキを宥めつつ、ケーガンは彼女の頬に止血効果のある薬草を当ててやる。
「それがここでは正しい生き方なのだから、仕方ない。彼らだって始めからああではなかったのだから。過ごす内に自分の行いが無駄だと分かり、心を守るために諦める。ここは心を守って人生を諦めた者が生きながらえる場所なのだから」
「そんなの死んでるのと同じじゃないか!」
「そう荒だっては、無駄に命を使ってしまうよ」
 静かに諭されて我に返る。気付けば先ほどまで血が流れていた傷口は薬草諸共結晶化した結界に覆われて癒えていた。
「ごめん、せっかくくれたのに」
「私は構わない」
 コユキは他のシキよりも優れた回復機能を持っている。そしてどうやらその力は彼女の感情によって左右するものらしく、感情が高ぶれば高ぶるほどその力を強く発揮するものらしい。
 一見便利な能力ではあるが、ケーガンはその能力を危惧していた。この世の中に対価の無い現象など無いと考えているからだ。
「分かっているよ……。あまり力に頼りすぎると自分の治癒能力が無くなるんでしょ?」
「それもあるけれど、私が危惧しているのは、将来君の体が私達のようになるのではないかということなのだよ」
 大きな栗色の目でコユキを見つめるケーガンは、目の下にある嘴をかちかちと鳴らし、薬草袋を仕舞う。顔のみならず、小袋の紐を締める細腕には青白い彼女の肌にはあまりに場違いな灰色の風切り羽根が生えていた。
 そう、彼女は十分な知能を持ちながらも、人の姿を姿を留めていなかったとして出来損ないばかりが集められるこの牢に入れられていた。
「別に構わないと思っているだろうが、一度崩れてしまうと戻ることは出来ない。私も今は自我を保っているが、時が経つと彼らのようになってしまうかもしれない」
 ケーガンの視線の先には隣の牢で涎を垂らしながら徘徊する、人だったものの姿があった。
 涎を垂らして呻くその姿は、獣めいた外見も相まってとても人だったとは考えられない。しかし、彼らも最初からこうだったわけではない。程度にもよるが、簡単な意志疎通ならば出来るものもいた。だが、時が経つに連れそういった理性は失われ、今に至っている。
「……あの人、私が連れて行かれる前までは話せてたよね?」
「ああ、だがもう無理だ。今は餌を待つだけの畜生になっている。哀れなものだ」
 ここから連れて行かれた三日前とはまるで違う様相となった姿を見つめていると、視線が交差した。途端、それは牙をむき出しにして凄まじい勢いでコユキが収監されている檻へと猛進する。
 どう見ても好意的ではない行為だが、何か思い当たる節があるコユキは凄いなと感嘆の声を上げた。そうする内にも魔物と化したそれは檻を壊さんが如く体をぶつける。更にその行為は周囲の者にも感染し、コユキの入っている牢は両端から絶えず攻撃を受けることとなる。さすがにこうなるとコユキにも焦りが出てくる。
「ねえ、もう理性ないんだよね!?」
「その筈。けれど、彼らの君への憎しみは消えないのだね。いや、謙遜抜きで素直に凄いと思うよ」
 理性の感じられない血走った目でこちらを睨む彼らは、全てコユキに友好的でない者達であった。まだ人としての理性があった彼らは、人の姿を残し、自由な振る舞いをするコユキに憎悪に近い嫉妬を抱いていた。
 最早言葉も忘れ、そこらかしこに排泄をする有様というのに、憎い相手は忘れない。その執念にケーガンは感嘆すると共に、ある映像が見えて顔をしかめた。
「ねえ、ケーガン。これ不味いよね」
「ああ、私は戦闘能力が無い。君も丸腰だろう? 襲われたら一溜まりも……」
「いや、そうじゃなくて、こんな騒ぎ聞きつけられたら怒られるんじゃないの? またあの無表情に殴られるんだろうな……」
「君は一つ先のことを考えるんだね。……ああ、コユキ。ちょっとその本を取ってこっちにおいで」
 遠い目をしていたコユキはケーガンに言われるまま本を手に取り、ケーガンがいる牢の入り口の方に向かう。直後、左後方から目が眩むような光と共に一直線に火柱が走り、コユキの背中に焼け付くような痛みを残して檻にしがみついていた魔物達を一掃する。
 恐る恐る後頭部に手を伸ばしたコユキが悲鳴を上げる頃、あれほど騒がしかった牢屋には沈黙が戻り、騒がしくしていた者達は消し炭と化して永遠の沈黙に入っていた。
 生き物を一瞬で消し炭に変えるほどの火力で一掃され、見通しの良くなった牢屋内は今まで見えなかったものが見える。後頭部に手を当てて呆然としているコユキを置いて、牢の端を見たケーガンは脳裏で見た映像と全く同じ光景に満足げに笑う。
「助かった、礼を言う」
 返ってくる言葉はない。
 それもそうかと鼻で笑い、ケーガンはゆらりと立ち上がるコユキを見つめる。コユキはふらふらとケーガンの元まで歩み寄ると、持っていた本を手渡し、丸焦げになったベッドに横たわる。
 横たわると同時にベッドは崩れ落ち、コユキは燃えカスの中に埋もれることとなったのだが、彼女は惨めな後頭部を抱えたまま一言も発さず横たわり続ける。
「なあ、コユキ。見えたんだ」
「頭皮が!?」
 本をめくりながらそれとなく話しかけると、後頭部を押さえたままのコユキは妙に過敏に反応する。
 どう頑張っても手で押さえられていては後部を見ることは適わない。おまけにコユキの頭部は炎で縮れてしまっているものの、毛根まで根絶やしにされた訳ではないので、頭皮が見えることはない。
 いいや違うと言えば、髪のことしか考えていない彼女はなら良かったと安堵の表情を浮かべ、次には予言ならいらないよ。と、手のひらを振ってくる。
 ケーガンは未来を見ることができる。と言ってもその未来は彼女が見ようと願ったものではなく、走馬燈のようにふと頭に浮かぶものである。能力的には不安定なのだが、彼女が見た未来は十中八九逸れることはない。
 ただ、彼女は見えた未来をべらべらと喋ることはなく、またどうすればその未来にたどり着くかも口にしない。彼女はただ、未来の傍観者であることを望んでいた。
「ケーガンさ、私がそういうの好きじゃないの知っているでしょ?」
「ああ、だから面白いのだよ」
「悪趣味だな。だいたいさ、ケーガンが初対面の私に向かってした予言、予言でも何でもないからね!」
 煤まみれの顔を真っ赤にして怒るコユキを見ていると、初めて会った日のことを思い出し、ケーガンの嘴がくつくつと音を立てる。
 会って間もない頃、ケーガンはコユキに「お前は死ぬ」と言った。
 常人ならば不吉な未来を予知されたことを怒るだろうに、コユキは生物皆生まれたときから墓場に向かってんだ。当たり前のことを言うなと怒った。あまりに騒ぐものだから荒縄で拘束されて転がされた彼女を思いだし、ケーガンは再度嘴を鳴らして笑う。
「友が出来るぞ」
「だからさあ! それ予知でも何でもないからね! 友達なんざ生きてりゃ幾らでもできらあ!」
 案の定顔を真っ赤にして怒るコユキを見たケーガンは面白そうに笑い、そして一番奥の牢にいるであろう姿の見えない囚人に優しく微笑みかけた。

 ・

 翌日。例に漏れずココーによって牢から引きずり出されたコユキは、涼しい顔をして手を振るケーガンに見送られ、目隠しをされてから荷台のようなものに放り込まれて何処かへと運ばれた。
 数時間乱暴に揺られたものだから、止まった頃には体の節々に痛みが生じていた。おまけに運ばれている最中に、変わり果てた牢で何があったのかを聞いてくるココーに「あの騒ぎに気付かないなんて、耳腐ってんじゃないのか」と余計なことを口走ったため、幾つか真新しい傷が増えていた。
 降ろされた場所は何の変哲もない山中であった。
 久方ぶりの娑婆の空気に胸を躍らせながらも、彼らへの強い不信感から警戒の色を濃くするコユキの前に、ココーは手のひらサイズの四角い板を置いた。なんだとのぞき込むと同時に、板からは青白い光が放たれ、板の上に半透明の小さなアルティフの姿が現れる。
『やあ、ご機嫌如何かね?』
「スッゴく不快だね。壊そう」
『シキの諸君、粗暴な行いは慎んでいただけるよう配慮したまえ。君たちには今から掃除を行ってもらう。なに、掃除と言っても民間人ではない。私は善良な研究者だからね。材料の無駄遣いはしない。あくまで発生してしまったどうしようもないゴミを処置してもらうだけだ』
「何これ、突っ込み待ち? ボケが多すぎて間に合わな……痛い痛い! 踏むなよ!」
 足を思い切り踏まれている内にも、小さなアルティフの演説は続く。
『私の研究は素材の質が高くなければ上手く行かないため、失敗作が多くてね。ほら、所謂魔物というなり損ないが生まれるのだよ。今まではそれなりに処分できていたのだが、事業拡大をしてから持て余していてね。ほら、失敗と言っても私の作ったものだから並大抵の者じゃあ太刀打ち出来ないから、被害が多くなっているのだ。素材が減っては研究は出来ない。だから、君たちに掃除を手伝ってほしいのだよ』
「どうせ拒否権無いんだろうが」
『君たちにも悪い話じゃないはずだ。拘束もされず、外を自由に行動できるのだから。もっとも、見張りとしてシキをつけさせて貰うけれど。この山中には二百の魔物が放たれている。それを全て始末するのが君たちの役目だ』
 小さなアルティフはさも得意げに顎を上げ、こちらを指さす。再度壊してやろうかと思ったが、太股の上のココーの足に力が込められるだけだと判断し、断念する。
『期限は五日。それまでに達成出来なければ、君たちの大切なものが壊されるよ。では、頑張りたまえ』
 一方的に告げられ、アルティフの姿は掻き消えた。
 呆気にとられていると、乱暴に縄を解かれ、手首を強く握られる。
 何をするんだと慌ててふりほどいてみれば、自由になった手首には金属で出来ているであろうリングがはめられている。
「発信器だ」
「は!?」
「監視用だ。逃げよう等とは考えないことだな」
「いや、逃げるだろ。どう考えても」
「そんなことをすれば、あのフクロウのなり損ないは死ぬぞ」
 途端、コユキの顔色が変わる。
 皮肉にも大嫌いなココーの言葉により、アルティフの言っていた大切なものの正体が分かったこと。そしてどこまでも卑怯な彼らのやり方に虫酸が走る。
 そして同時に己の弱さを知った。幾らアルティフ達に反抗しようと、人質を取られてしまえば何も出来ない。人恋しさに友を作り、相手を巻き込んだ上に自ら反乱の出来ない環境を作ってしまった自分の浅はかさに絶望した。
「本当、人間の嫌なところを凝縮したような奴らだな」
 疲れたように手を振り、コユキは立ち上がって山の中へと足を進める。反抗心などもはやない。ケーガンの命がかかっているとなれば、アルティフの命に従うほかなかったからだ。
 いくらか進んだところで、コユキは不意に立ち止まる。
「なあ、あんた私とさ、友達に……」
 そこまで言って我に返る。予言という名の当たり前の事象を言い当てる行為を信じるなんて、馬鹿馬鹿しい。が、一方でそうであったら良いと思う自分もいた。
「……なっていたら、どれほど幸せだっただろうね」
 もしココーが人質だったら、迷わずこの場所から逃げただろう。
 それは友達とは言わないのだが、コユキはそのことに気付かず、足早に山の中へと消えていった。


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