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 ーーどうしてこんな事になったんだ。
 痛みからなのか、後悔からか、涙で滲む目を拭って木々の間をすり抜けて走る。
 腕の中のタマジは呼吸をするのが苦しいのか、時折詰まったように咽せる。大丈夫かと聞けばパタパタと尾を振るが、抱かれるのを嫌うタマジが大人しく抱かれている時点で平気ではないことは明らかだ。
 痛々しい相棒を目にすると、自分の愚かな行いが益々憎く思えた。
 何故青年は急に豹変したのだろう。タマジの口に滲んだ地を拭いつつ考える。少なくとも、最初の彼は此方に殺意を抱いていなかった。もし殺意があったならば、タマジが何らかしらの反応を見せる筈だからだ。
 彼が変わったのは、タマジが警戒しだしたのはコユキが彼に名を授けてからだった。
 ふと頭に「呪い」の言葉がよぎる。自分が彼に名を授けてしまったが為に、彼は魔に魅入られてしまったのではないか。と。
 ーー文明が発達しつつあるこのご時世に、馬鹿馬鹿しい。
 我ながら下らない仮説だと自虐めいた笑いが漏れた。
「馬鹿馬鹿しい」
 今度は口に出してみる。自分自身を、納得させるために。
 いつの間にか立ち止まってしまっていたのか、不安そうにタマジが顔を舐めてきた。ああ、悪い。苦笑混じりに謝罪すると、コユキは再び足を動かす。が、その足の行き場が分からなくなり、直ぐに歩みを止めてしまう。
 ーー行く場所がない。
 既に自分がメギドの民だと言うことは露見している。きっとこのまま逃げては彼はメギドの集落を襲うだろう。恐らくだが、コユキを見つけるまで、ずっと。
 杞憂だと言われればそれだけだ。むしろそちらの方がずっと良い。だが、少しでも危険性があるのならばその橋は渡りたくないものだ。僅かな油断で家族が、友人が危険な目に遭えば、それは死ぬより辛い。
 一番は青年を葬ることなのだが、僅かな苦労も見せずに肩を抜いてきた彼に勝てる気もしない。まだじくじくと痛む肩に手を置き、コユキは苦しげに眉をひそめる。
 最早、手は一つしか残されていなかった。コユキが彼の元に下るという選択肢しか。
 ふうと一つ息を吐き、コユキは腕の中のタマジに微笑みかける。憂いを含んだ笑みだったが、その中には確かな覚悟が見て取れた。
 彼女の意図が通じたのか、哀しげに鼻を鳴らすタマジを地面に置き、懐から紙を出してその上に筆を走らせる。書き終えた後にこんなもんかと呟いたコユキは、それをタマジの首輪に結んだ。
 続けてビワの入った風呂敷に妙に反り返った形状の短剣と、首輪に結んだものとよく似た手紙を一つ入れる。
「良いかい。今からタマジはあいつの所へ行くんだ。あいつは偏屈だけど、頭だけは良いから分かってくれる。そして傷が癒えたら、村に帰るんだ。……私は行かない。行けない。タマジ、お前は賢い子だ。分かってくれるね?」
 鼻を鳴らして抗議をするタマジであったが、コユキの意志が堅いと分かると、耳を垂らして頬に鼻をすり寄せてきた。ああ、やっぱりこいつは私より賢いや。と、コユキは長年連れ添った相棒の顔を両手で挟み、額をくっつけ合う。
「帰るよ。絶対に。どれだけ時間が経とうと、私が私じゃなくなっても、絶対に。約束だ」
 お互いの熱を確かめ合うように、気持ちを確かめるようにして額を合わせた彼女は、そっとタマジの顔を撫で、さてと! といつものように元気良く声を上げる。
「迷惑かけるね、ありがとう。じゃあ、頼んだよ!」
 さよならとは言いたくなかった。もし言ってしまえば、それが現実になりそうだったからだ。
 タマジも彼女の意志を汲んでいるのか、片手を上げるコユキを見上げると、かすれた声でワンと一声鳴き、風呂敷をくわえて山の奥へと去っていく。
 遠くなるタマジを背に、コユキもまた踵を返して元来た道を進む。
 肩は泣きそうになるくらい痛いし、叩きつけられた衝撃で気分もすこぶる悪い。おまけに青年に付けられた鎖を切った剣はタマジに預けてしまった。この先のことを考えるとお先真っ暗である。どんな事態が待ち受けているのか。はっきりは分からないが、良いことではないだろう。何せ当初青年が自殺をほのめかしていたような環境だ。
 青年の顔を思い出すと肩の痛みが増したようで、コユキはただでさえ険しくなっている表情をさらに歪める。おかげで顔のパーツが随分中心に寄っている。
 ーーあれは、本当に彼だったのだろうか?
 痛み止めの薬草をはみながら、急変した彼について考える。
 タマジにしたことを考えると、彼の行為は許されるものではない。だが、警戒心の強いタマジが彼に懐いていたことや、彼の涙を思い出すと「あいつは最低の野郎だ」と言い切ることが出来ない。
 ーーいつからおかしくなった? ビワを食べていたときは普通だった。その後……名前を付けてからか?
 ふと脳裏に「呪い」という単語が浮かぶ。
 アオタの婆ちゃんが言っていた。名は魂に深く結びついていると。力のある術師にかかれば、名一つで命を奪うことも出来る。と。
 文明が発達しつつあり、数多ある不可思議な現象も解明されているこのご時世に、呪いだなんてそんな古くさいもの。と思いつつも、その思いを払拭することは出来ず、無い無いと呪文のように口ずさみながら歩く。
 と、唐突に首筋に悪寒に似た痺れが走った。こういう感覚の後は、大抵良くないことに出くわすことが多い。この場合だと、青年の出現辺りが怪しい。
「見ーつけた」
 背後から首筋に触れるものがあった。理解するより早く足が動く。
 弾かれたように走り出すと、背後から押し殺した笑い声が聞こえた。その声は青年のもので間違いない。否、豹変した青年のものと言い表す方が的確であろう。
 迂闊だった。彼が人並み外れた運動能力を持っていると痛感した筈なのに、背後の警戒を怠っていた。あれほどの身体能力があれば、足音を、気配を消して自分の背後に回り込む等、動作もない筈なのに。
 早鐘のように鳴る鼓動の音に紛れて、鎖がこすれる音がした。直感的に右に大きく飛び退くと、それまで自分がいたであろう場所から、何か固いものがぶつかったのか地面が抉れた。直後、再び青年の笑い声が聞こえる。
 彼は完全に遊んでいた。
 圧倒的に不利な立場にありつつも、彼の笑い声は非情に癪に触った。癇癪持ちとしては今すぐにでも殴りかかってやりたい。だが、ここでやりあっても結果は見えている。我慢だ。
 そう自分に言い聞かせていたが、同時に気付いてしまった。ここでやりあっても彼には勝てない。どこでやり合えば勝てるのか? そんなものは無いのだと。
 それに気付けば、行動に迷いはなかった。
 走っている足を力強く地面に叩きつけ、その勢いを殺さぬまま懐に忍ばせていた鎖を抜く。勢いを加えられた鎖は蛇の如く鎌首をもたげ、数メートル後ろにいた青年の顔面へと延ばした。
 これにはそれまで遊んでいた青年も目を見開き、上体を反らせて鎖の追撃を避ける。それは完璧な回避であった。捨て身のコユキが馬乗りになって来なければ。
 予期せぬ反撃と言うこともあり、腰を足で固定された青年は為す術もなくそのまま背中から地面に倒れる。それは先ほどコユキが叩きつけられた時と全く同じであった。
 ぐうと呻く青年を股でしっかりと押さえつけ、懐から出したナイフの鞘を抜く。薄暗くなりつつある山の中で、数少ない光を受けたナイフがギラリと怪しく光る。
 呼吸が荒いのは、肩の痛みからであろうか。それともこれから行う行為を恐れているからだろうか。肩で息をするコユキの手の中のナイフは、彼女の呼吸とは別に僅かに震えていた。
「……殺してくれ」
 青年の口から思わぬ依頼が漏れ、コユキは持ち直したナイフから目を離して彼を見る。
 青年は無表情で虚空を見上げていた。
 新緑色に戻った目には、薄墨色になりつつある空に浮かんだ雲が映っている。その雲が僅かに滲んで見えるのは何故だろうか。
「分かったろう? 僕はもう逃げられないんだ。君に名を貰ったのに、あんなことになってしまった」
 この青年は、ヒワだ。彼の掠れた声を聞き、確信する。
「巻き込んでしまって本当にごめん。君がくれた名と幸せな時間は、僕の人生で一番の宝物だ。あれがきっと幸せと言うんだろうね。でもだからこそ、僕の手でそれを踏みにじるような事はしたくない。僕はまた君を襲ってしまうだろう。だからその前に、僕が僕でいる内に」
 助けてくれ。乞うヒワの若葉を思わせる新緑色の目から、一筋の涙が伝った。
 彼の願いは本気だという事はコユキにも分かった。
 彼の願いに応えるべきか否か、迷い始めた手はがたがたと大きく震え始める。
 そんな折り、突然ヒワの目が大きく見開かれる。答えを出そうと必死のコユキは彼の異変に気付かない。
「なーんてね」
 気が付けばコユキの体は再び宙に舞っていた。
 頬に広がる熱感と痛みで、彼に頬を殴られたのだと分かったときには既に体は地面に叩きつけられ、お返しとばかりに馬乗りにされる。
 口に広がる鉄の味に顔をしかめていると、髪を掴まれて強制的に顔を上向きにされる。間近にある彼の目はドブのように濁っており、苦しむコユキを見て楽しそうに笑った。その目を見ると同時に、コユキの仮説は確信へと変わった。
「簡単に騙されるねぇ。本当、人間って言うのは愚かだ。さっさと生まれ変わっちゃおうよ」
 最後に目に映ったのは、せせら笑うヒワの姿をした何かの姿。
 その後、頭を地面に強く叩きつけられ、コユキの視界と意識は暗転した。

 ・

 焼け付くような右肩の痛みで目を覚ますと、洞窟特有の滑らかな岩肌と、前を塞ぐ鉄の格子が目に入ってきた。
 どこからどう見ても牢屋としかいえない空間に呆然としつつも、この場所の手がかりは無いものかと立ち上がる。が、何故か足に力が入らない。どうしたのだろうと視線を下に向けて絶句する。踵からすぐ上の、丁度アキレス腱に当たる箇所がぱっくりと裂けていたからだ。
 立つことが出来ないのは、十中八九これが原因と見て間違いないだろう。だが、何故こんな事になっているのか。血も出ずにこんな芸当が出来るのか。そもそも何故自分はこんな目に遭っているのか。全く分からなかった。
 どうしようもなく泣きたくなった。けれど、状況も分からぬまま悲劇のヒロインぶって泣くだけではあまりに情けない。全てを投げ出したくなる衝動を、唇を噛んでぐっとこらえる。
「へえ、泣かないんだ」
 耳に飛び込んできたのは、先ほどまで聞き慣れたヒワの、否、ヒワを模した他の誰かの声であった。
 ぐうと声がした方を睨んでいると、ああ怖いなあとおどけた口調で青年が現れる。
 白髪に近い灰色の髪をした姿はヒワそのものだ。だがやはり他者を卑下する言動が、仕草が、何よりもドブのように濁った目が、彼ではないと本能に語りかけてくる。
「いい加減その体を返せよ」
「あれ、自分の体の前に他人の心配? 余裕だね。返すも何も、これはオレの体だし……」
「嘘付け。彼の一人称は僕だ。そんな些細なことすら気が払えないなら、とっとと……」
「本当、生意気だな。お前の命はオレが握っているんだよ? あまり楯突くとさくっとやっちゃうよ?」
「煩い。さっさとヒワに体を返せ」
 顔を引き寄せられ、低い声で脅しの言葉を囁かれる。
 ここでおびえた表情をしては相手の思う壺だと眉間に皺を寄せて睨みつける。ドブのように濁った目にはヒワの存在は感じられない。
 面白くないと床に投げ出され、頬に当たる岩の感触にどうせ見えないだろうと涙を滲ませていると、僅かに青年が目眩のようにふらついているのが見えた。が、すぐに体制を整えると、
「ヒワ……ヒワねえ。傑作だったよ。今まで目の前で誰が死のうと、自分がいたぶられようと操ることが出来なかったこいつが、君に名を与えられた直後にこうも簡単に操れるようになるなんてさ。君のおかげだ。礼を言うよ」
 つくづく思っていたが、こいつは人が傷つく様を見るのが楽しくて仕方ないらしい。実際、彼の言葉はコユキが言われて痛いところばかりを的確に突いてくる。
 自分のせいでヒワはこんな奴に隙を見せてしまった。そして、信じがたいが、こいつはヒワの体を奪うことにまんまと成功した。今すぐにでも腹をかっさばいて謝らなければならないところだが、そんなことをしたところでヒワは戻ってこないし、何よりこいつが喜ぶだけだろう。
「ヒワ、早く戻ってこい」
「はあ?」
「お前じゃない。ヒワに言ってんだ。偽物はすっこんでろ」
「本当、むかつくね」
 頭を強く地面に叩きつけられ、目の前に星が舞う。
 腱は切られて動けない。目の前の偽りの男は好戦的。絶望的な状況に間違いないが、それが逆にコユキの反骨精神に火を着けた。
「何を寝ているんだ。こんな奴に体乗っ取られて悔しくないのか?」
 また頭を叩きつけられる。これ以上馬鹿になったらどうしてくれるんだと心の中で毒づく。
「早く起きなよ。ヒワはもう一人じゃない。不本意ながらも私もヒワと同じ立ち位置になりそうだ。だから出来るだけ早く戻ってきてね。一人じゃ何も出来ないだろうからさ」
 どうせすぐに起きあがってもまたなぶられるだけだと、立ち上がることを止めて横たわったまま話しかける。
 ーーヒワに声が届いていれば良いんだけど。
 割れそうに痛い頭にしかめっ面で横たわっていると、男の追撃の手が止んだ。どうしたのだと顔を上げようとして、不意に聞こえてきた足音に気付いて、そのまま足音に耳を澄ます。一つは足幅の感覚が狭く、摺り足がちであることから老人であろう。あともう一人は非常に足音が小さく、気を付けていなければ聞き取れない程である。この際性別、年齢などどうでも良いから助けてはくれないだろうかと思うが、この状況で助けが来ないことなど分かり切っている。
 そうこうする内に足下はすぐ側まで来ていた。頭を押さえながら無理矢理起こそうとする青年に抵抗していると、どうやらすぐ前にあった扉がきしんだ音を立てて開く。開かれた扉の前にいたのは無造作にも程がある白髪の老人と、その後ろで仏頂面で控える短髪で赤目の男であった。
 老人は人当たりの良い穏やかな笑みを浮かべているが、本能的に受け入れられないというシグナルが発される。得体の知れない不気味さが老人からは放たれていたのだ。そして側の男からは生き物らしいものが感じられない。生理的に受け付けられないという感覚を、コユキはこの日初めて知った。
「目覚めたのだね。どうだい、具合は?」
「良いって言うと思っているなら、病院の診察をお勧めするね。頭のな」
「結構結構。素体にはそれ位元気があった方が良い。これくらいでへこたれていてはこれからの実験に耐えられない。それに、反骨精神がある方が屈服のしがいがあるというものだからね」
 ーーやっぱりろくな奴じゃなかったか。
 楽しそうに笑う老人に、嫌悪感が見る見る内に蓄積されていく。
 いっそ従順なフリをして老人の好まない素体とやらを演じてみようか。ちらりとそう考えたが、それは彼女のプライドが許さなかった。例え助かるとしても、苦痛が緩和されるとしても、彼らに媚びへつらうなど。
『お前はいつかその下らぬプライドとやらで身を滅ぼすだろうな』
 かつて友人に言われた言葉を思い出す。こんな目に遭ってつくづく思った。自分は力も無いのに、理想だけは高い頭でっかち野郎だと。だが仕方ないではないか。自分は自分のくだらないプライドを折ってまで、他人に媚びるような器用な生き方と順応性が無いのだから。
「どれ、顔を良く見せてごらん」
 顎に指を当てられかけ、これぞ好機とばかりに食いちぎってやろうと噛みつく。が、見透かされていたのだろう。指は老人の動きとは思えない程素早く逃げていき、空を噛む音だけが響いた。
 直後、コユキは腹部と背中に未だかつて経験したことのない衝撃を受け、地面に崩れ落ちる。
 星が飛ぶ視界と耐え難い痛みに、今なにが起こったのか考えることすら放棄してしまう。ともかく呼吸をしようと息を吸えば、口から生温かい液体がどっと押し寄せる。手の上に落ちたそれを見て、コユキはやっと自分の身に何が起きているのかを理解した。
 霞む視界の中に映された自分の手は、口から出た液体で真っ赤に染まっていた。そう理解する内にも、口からはおびただしいほどの量の血が吐き出される。数回えづいてから鼻で呼吸すると、口よりは楽に出来た。
「物言いに気を付けなさいね。私と違って彼、ココーは気が短い」
 人当たりの良い笑みを浮かべる老人から目を離し、ココーと呼ばれた男を見る。男は足の裾を払い、冷たい赤い目で害虫を見るかのようにこちらを見下ろしている。
 随分血を出したからだろうか? 既に四肢の感覚は無く、体中を耐え難い寒気が襲う。視界はもとより、耳まで遠くなっているような気がした。このまま眠ってしまえば楽だろう。ふとそんな考えが過ぎった。
「さて、早くしないと死んでしまうな。まったく、君は昔から手加減を知らないのだから参ったものだよ。……さっさと紹介をしてしまおう。私の名はアルティフ・シアル。君たちを使って、これから人類を新たなる進化へと導く、いわば人類の父だ。喜びたまえ。君は今から未知なる可能性を秘めた新しい人類となるのだ」
 ふざけろよ。
 酷く掠れたこの声は彼らの耳に届いただろうか?
 動きを止めつつあるコユキの体をココーという名の男が麻袋を担ぐように肩に乗せる。せめてもの嫌がらせだと盛大に咽せてやると乱暴に投げ捨てられた。
 注意するアルティフ・シアルの声を聞きながら、ゆるゆるとコユキの意識は深淵へと落ちていく。何が何でもこいつらの思い通りにはならない。その強い思いと、僅かに見えた澄んだ目のヒワへの安堵を胸に抱き。


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