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 ビワを風呂敷いっぱいに詰め込んだコユキは、それを鼻歌にあわせて振り回しながら村から離れた農道を歩いていた。
 数年前から、化け物が出るとのことで村から離れた畑は打ち捨てられることが多い。この道も例に漏れず人の手が入っていないため、馬車で慣らされたはずの道は今や草が乱雑に生い茂る有様となっている。
 腰まで生えた草をかき分けて進むコユキの隣には引き締まった体型の犬が周囲を警戒しながら歩いている。彼の名はタマジ。主人であり、家族でもあるコユキよりも遙かに理性が感じられるのは気のせいではない。幼き頃からにメギドに育ち、落ち着きがない彼女を彼はずっと守ってきた。度重なる危険から守ってきたが故、彼は人間のコユキよりもずっと人間らしくなっていた。
 のどが渇いたなと、打ち捨てられた畑から熟れたトマトを手に取りかじり付く。
 放置され、ほぼ野生になっている野菜はどうしても青臭さが目立つ。が、空腹にはどんな食べ物もご馳走になるため、少し青臭くなったところで彼女が気に留めることはない。
 元々彼女の村は農業と林業が主な収入源であった。しかし、数年前から村周辺に化け物が出ると噂されるようになり、数ヶ月前に村の何人かが行方不明になってからは徐々に規模が縮小してきており、前述の通り遠い場所にある畑は放棄されるようになった。
 だが、それで収入が断たれたと聞かれるとそうではない。第一次産業が上手くいかないと判断をした村長の一人、ヒヨはそれまでほぼ放置状態にあった観光事業に重きを置くことにした。
 勿論余所者が来れば治安が悪くなる、風紀が乱れる。そもそも化け物がでているのに客を呼んでどうするのだ等、保守派の者達は異議を申し立てた。コユキもどちらかというとそちらの考えに近い。が、ヒヨのごり押し政策と、このまま引きこもっていては飢え死にすると言う事実を前に、保守派の意見は徐々に小さくなり、次第にヒヨの主張を受け入れる形となった。
 浮遊大陸であるメギドは他の地域からすると死ぬまでに行っておきたい幻の地だそうで、村長が観光の募集をかけると見る見る内に希望者が殺到した。その勢いは凄まじく、宅配鳥の止まる木がなくなり、数少ない通話回線が一時期パンクしたほどである。
 どうやら、今まで限られた数のツアーしか試行されていなかったため、他の地域の人々はメギドはあまり外界の者を歓迎していないと思っていたようである。その真意は、ただ単に浮遊大陸というものが珍しいと思っておらず、外界の者が来ないのは辺鄙な場所が嫌いなのだろうとメギドの民が皆一様にして価値に気付いていなかっただけなのだが。
 ともあれ、ヒヨの思いつきによりメギドの収益は盛り上がった。さらに外界の者と所帯を持つものも増え、右肩下がりだった出生率も見る見る内に右肩上がりになった。結果だけ見れば、化け物の出現はある意味良かったのかもしれない。実際のところ、化け物の出現は外界ではもっと酷かったらしく、メギドは至極安全だったようだ。
「さて、早く行かないとどやされるし、そろそろ行くか」
 満足するまで固くなったトマトを食べたコユキはタマジに声をかけて立ち上がる。日暮れまでまだ時間はあるが、急ぐに越したことは無い。何せ、今からこの山盛りのビワを届ける相手は恐ろしく傲慢で口うるさいのだから。
 軽く延びをして二、三回飛び跳ねた後、コユキは馬車馬の如く凄まじい勢いで走る。欠伸をしていてワンテンポ遅れたタマジが慌てて駆け出すまでに、彼女は近道である畑の外れの獣道に入っていた。
 垂れ下がった枝や、雑草の茨が行く手を阻むも、彼女は少し服をひっかけるだけでそのまま勢いよく走り抜ける。常人ならば怪我や効率を全く考えていない呆れた移動方法だが、頑丈さと単純さが取り柄である彼女にとっては目的地まで直線距離でたどり着く一番効率の良い方法であった。また、タマジの体が他の犬に比べて逞しいのもこれが影響である。
 三度程転倒を繰り返した後、コユキは少し開けた山の中腹に出る。この辺りは森徒と呼ばれる神聖な守り神が住む場所であるが故、さすがのコユキもそろりそろりと移動する。何せ守り神である。怒りを買えばと思うと軽はずみな行動は出来ない。タマジも同じように思っているのか、尾が情けなく垂れ下がっている。
 ーークオォオオン……。
 不意に聞こえてきた悲しげな音に彼女は読んで字の如く飛び上がって驚いた。
 驚きのあまり声を出すことも忘れて傍らのタマジに抱きつく。加減無く抱きつかれたタマジからくぐもったうめき声が漏れるが、自分のことで精一杯の彼女の耳には届かない。
 タマジの固い肉球で顔をこれでもかと言うほど押され、ようやく落ち着いたコユキは、まだ残る恐怖感からタマジを抱いたまま声の方に移動を試みた。
 腕の中で暴れるタマジを自慢の腕力で押さえながら進んでいくと、木の陰に雪と見間違うような毛並みの獣が天を仰いでいるのが見えた。見たことない獣だなと思っていると、抱かれることに限界が来たであろうタマジがここぞとばかりにもがき、情けない声と共にコユキは彼を手放した。
「……誰?」
 ひっかき傷をさすっていると、穏やかではあるがどこか冷たい声が飛んできた。
 誰か居たのかと慌てて見渡すと、先ほど獣が居たように見えた場所に、灰色がかった白髪の青年が座っていた。彼はやや伸びた前髪から、メギドの民では無いであろう新緑色の目でまっすぐに此方を見ている。
 瞬間、息が止まった。
 コユキはあまり外界を好いていない。学校の友人が外界の人は新鮮で恰好良い。メギドは全てにおいて時代遅れだと次々に外界へと嫁いでいってしまったことから、どうしても良い感情を抱けずにいたのだ。
 が、今。彼女は不覚にも目の前の青年に目を奪われていた。
「君は、ここの子かな?」
「あ、うん。いや、はい」
「いいよ、そんなに固くならなくて。その犬は君の? 利口そうな子だね」
「はい。タマジって言います。私より賢いです。よかったら触りま……触る?」
 ありがとう。そう言って微笑む青年は一言で表すと好青年。稀に見るいい男の出現に、コユキはどぎまぎしながら嫌がるタマジをふん捕まえて彼の元に運ぶ。
 降ろされたタマジの顔の前にそっと手を出し、タマジが手の匂いを嗅いだのを確認してから頬から優しく撫でる。その一連の動きから彼が犬好きだと分かり、コユキは安堵から緩く微笑む。更に彼は尾の付け根をコリコリと掻いていた。この男、中々の通である。
 もっともっとと背中を青年に押し当てるタマジに呆れた視線を投げかけ、じっと青年を観察する。見れば、彼は重傷とまではいかないが、所々に派手な切り傷がある。血は出ていない為、大事には至らないだろうが、それでもぱっくりと空いた傷は痛々しいことこの上ない。
 観光で来たのなら、慰謝料を求められるのでは? すっかり観光事業に毒されつつある彼女は、知らず知らずの内にそんな心配をしていた。
「怪我、治療しようか?」
 コユキは常に簡易救急キットを持っている。無茶な行為をしがちなため、見かねた母に持たされているのだ。それ故、ある程度の治療ならば一人で出来る。
 だが、青年は憂いを含んだ眼差しで首を横に振るだけであった。
「良いんだ。もう。何もかも」
 全てを諦めたような力の抜けた口調で呟き、青年はタマジの首筋に顔を埋める。
 年上の男が落ち込んでいる場面を目の当たりにして、コユキはどうすれば良いのか分からず立ち尽くす。それも見ず知らずの男だ。励ましの言葉をかけようにも、彼の背景が全く分からないので何が地雷なのかわからない。
 狼狽していると、僅かにだが鼻をすする音が聞こえてきた。今のところ水っ鼻ではないし、タマジは当然鼻をすすらない。となれば、青年しかいない。そして鼻をすすると言えば、鼻炎か熱い物を食べた時か、泣いているときである。そしてこの状況で当てはまるのは泣いている事案しかない。
 ーーどうすんだ……これ。愉快にビワを配りに来ただけなのに。
 危険予測でも予測しようがない状況に、コユキは頭を抱えた。
 とはいえ、このまま立ち尽くすのも辛いし、タマジも気の毒だ。おまけにこんな精神的に落ち込んでいる男を放って自殺でもされたらたまらない。主に観光の客寄せで。だが、状況を打破しようにも背景が見えない。
 まずは、情報収集が必要であった。
「何があったんですか? メギド側に不手際でも?」
「メギド……? ああ、ここはメギドって言う場所なのか。終末の地……僕にお似合いの場所だね」
 どうやら、青年は観光目的で来たわけではないらしい。それによりコユキの心配が一つ減った。観光目的でこんな大怪我をしていたら、事業は大損害だ。
「君は、生きていて幸せ? そうだろうね。だって、君からは僕にはない物を感じるもの。僕は生まれてこの方幸せと感じたことがない。生まれて、生まれ変わっても、ずっと。ただ苦痛なんだ。きっとこの先も変わらない。だから僕を助けようなんて思わなくて良い。出来るなら、殺してくれ……」
 やや充血した新緑色の目は、コユキが見たことのない絶望に沈んでいた。きっと彼の目には目の前のコユキなどは映っていないのだろう。推測だが、春の到来と共に芽吹く若葉のようなその目には彼の「幸せと感じたことがない」人生が映っているのだろう。
 慎ましくも満たされた環境で育ったコユキには彼の言葉の真意の一割も把握していないし、彼にどんな言葉をかけるのが正解なのかも分からない。唯一分かるのは彼の頼みを聞くことは出来ないと言うことだけだ。
「とりあえずさ、これ食べなよ。ビワ。美味いよ?」
「何の為に?」
「栄養補給。多分お腹空いているから嫌なことばかり考えちゃうんだよ。糖分が足りないと人は苛々するって良く言うでしょ」
 全くもって、平和ぼけした意見である。
 だが、当の本人は大まじめのようで、さあ食え。幸せになりたいんだろう。と、丁寧にも剥いたビワをぐいぐいと差し出してくる。
 このままでは無理矢理口に突っ込まれかねない。コユキの強引さに根負けして仕方なくビワを手に取り、少し匂いを嗅いでからおずおずと口に含む。途端、口内に味わったことのないさっぱりとした甘みが広がり、青年は目を丸くする。彼は、ビワを食べたことがなかった。
「ああ、中の種は噛まないように気を付けてね。歯、欠けるよ」
 少し遅れて忠告をし、コユキは青年の為にビワを食べやすいようせっせと皮を剥く。
 彼女の言うとおり固い種を出すと、彼の手は自然と剥かれたビワに伸ばされる。数日なにも食べていないことを思い出した青年は、無言で、そしてただひたすらにビワを食べ続けた。
 幾ら生きることを諦めようとしたって、無情にも腹は減る。そして空腹で食べる新鮮な果物は彼の胃だけでなく心も満たし始めつつあった。
「美味しい。こんな美味しい食べ物は、初めて食べたよ」
「そりゃあ、ちゃんと手入れされているのを選んだからね」
 そう意味ではないのだが。と、心中で小さく呟き、種や皮を茂みへ投げ入れるコユキをじっと見つめ、まだ若いが、この娘ならあるいは……。と考える。
「ありがとう。君、名前は?」
「コユキ! そっちはタマジ! お兄さんは?」
「ああ……僕、名前は無いんだった」
 言葉の意味が分からず、コユキは目を丸くして青年を食い入るようにして見つめる。どういうことか全く分からなかった。
 そんな彼女の心境がくみ取れたのか、彼は混乱させてごめんと謝ると、自分が孤児で生まれてこの方名前を与えられなかったのだと語る。いつも、おい。とか、お前。と呼ばれていたのだ、と。
 その状態が普通の彼からすれば当たり前の事だったのだが、コユキからすれば未知の現象であったため、いささか理解に時間がかかった。
「じゃあさ、私が名前付けようか? 名前がないと不便だしさ」
「不便? 別に問題無いよ。ああ、でも君のように誰かの名前を知りたかった時は失礼に当たるのかな?」
「確かにそれもあるね。でも、第一は自分の存在証明だよ。何せ名前一つで幸せになったり、呪われたりするんだから。それほど名前には影響力があるんだって、裏のアオタの婆ちゃんが言ってた。それにさ、家族とか友人とかの好きな人には名前で呼んでもらいたいじゃないか。おい。とかは悲しいよ」
 ねえ、タマジ。そう言うとタマジは尾を振って応える。出来た主従関係の一人と一匹の関係に、思わず頬が緩む。もし、タマジが話すことが出来れば、彼女のことを名前で呼ぶことだろう。敬称が付いているかどうかはともかくとして、親しみを含めて、愛情を込めて、コユキ。と。
 ーーそれは少し、羨ましいかもしれない。
 同じ顔でへらへら笑っている一組を眺め、青年は初めて「名」が欲しいと思った。彼らのように種族が違えど通じ合うような、苦楽を共に出来るような相手と肩を並べたい。そして互いの名を呼び合いたい、と。
「呪われたくはないけど、お願いしようかな」
 花が咲いたように顔を綻ばせ、コユキは彼の名を考える。
 凝ったものが良いか、シンプルなのが良いのか。はたまたメギドの民と同じく季節のものが良いのか……。考える内にどれもイマイチのような気がしてきて頭を抱える。と、ふと目のビワが入った袋が目にとまる。
「ヒワ……はどうかな?」
 ビワから取ったのか!? それが安直な感想であった。
「冬にやって来る鳥なんだ。色がとても綺麗なんだよ。ちょうどお兄さんの目の色にもう少し黄色を足したような色。お兄さん、雪みたいな髪の色しているし、丁度良いと思うんだけど、どうかな? ちなみに私の友達の名前にも似ているよ」
 そいつの名前も私がつけた! 鼻を鳴らして得意げに胸を張るコユキに、そうなんだと生返事をしつつ、彼はヒワ。という名を繰り返し呟く。
 ヒワ、ヒワ。呟くごとに心が満たされるような気がした。
 呼んでみて。そう言うとコユキは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。が、直後に彼に宿った名のことだと理解し、咳払いを一つして真新しい名を、精一杯の好意を込めて口にする。
「ヒワ」
「はい。コユキ」
 名を声に出して受け入れた途端、彼の心に暖かい何かが生まれた。そして同時に強い罪悪感を覚えた。へらへらと笑う彼女の前で、青年の体が仄かに発光する。
 わあ、綺麗だな。と剣呑な言葉を口にするコユキとは正反対に、タマジは耳をピンと立てて、ヒワと名付けられた青年を見つめる。その目には強い警戒色が見て取れた。
 ーーさすが、利口な犬だ。
 僅かに口元を緩ませ、彼はそっとコユキの腕を掴んだ。途端、タマジが狂ったように吠え、彼の手に噛みつこうとする。愛犬の傷害沙汰を阻止しようと青年の手を払ったコユキは、自分の手を見て固まる。彼女の腕には、透明な鎖が繋がれていた。
「コユキ、素敵な名前をありがとう。そして、僕の前に現れてくれて、ありがとう」
 自分の腕が繋がれた鎖の先は、青年の手の中にあった。
 何の手品なのだろうと動こうとする。と、不意に彼が強く鎖を引っ張った為、コユキは派手に転倒してしまう。この鎖は何なのかそれは分からない。ただ、タマジが敵意を剥き出しにしていることから、あまり良くない状況だと言うことだけは分かった。
 威嚇を続けるタマジを近くに引き寄せ、コユキは青年を見上げる。
 彼の顔には相変わらず穏やかな笑みが浮かんでいる。ぞっとするような、底の見えない微笑みが。
 とにかく此処から逃げなくては。本能的に足が動く。幸い鎖を持っている青年の体型は細身であまり力があるようには思えない。勢い良く走れば逃げられる筈だと思ったからだ。
 だが、現実はそう上手くは行かない。手の中の鎖を掴んだ青年は片手で軽く鎖を引いた。端から見れば、その仕草は手を下に振ったようにしか見えなかっただろう。
 だが、そんな些細な行動で繋がれた鎖は全力疾走のコユキの動きを阻害するだけに飽きたらず、勢い余って彼女の体を宙に浮かせ、そして地面に叩きつけた。
 受け身も取れず、背中からまともに叩きつけられたコユキは、叩きつけられた衝撃と内蔵が浮つく不快感に、意識がほんの一瞬混濁する。
 今にもすり抜けそうな意識を何とか掴み、咳込みながら体を起こす。と、涙で滲んだ視界に映ったのは、今まさに牙を剥いて青年に飛びかかろうとするタマジの姿であった。
 止めろ! 言うよりも早く、攻撃を避けた青年が首輪を掴んでタマジを宙吊にする。直ぐにでも助けに行こうとしたのだが、左手に激痛が走り動くこともままならない。どうやら、先ほど地面に叩きつけられた際に肩を脱臼したようだった。
 そうこうする内に自由を奪われたタマジは手足をバタ付かせて反撃を試みる。が、首を吊った状態ではどうにもならない。だが、泡を吹いてもタマジは抵抗することを諦めなかった。
「そんなに飼い主が大事かい? 畜生の癖に、従順なんだね」
「畜生は、お前だろうが!!」
 怒声と共に青年の手に掛かっていた負荷が無くなる。
 無理矢理肩を入れたコユキがタマジの首輪を切り裂き、拘束を解いたのだ。
 落下したタマジをすんでの所で捕らえたコユキは、うずく肩の痛みに声にならない悲鳴を上げつつも、懐から出した玉を勢い良く青年の足下に叩きつける。
 直後、彼の足下から赤い煙が沸き立つ。鮮やかな色から、吸い込んでは厄介なことになると把握した彼は口を覆って肺に入れないようにする。が、コユキ特性の火蜂癇癪なすび玉はそれだけで済むほど甘くない。
 その後、青年は目に走る激痛から目を開けることさえままならない状況になった。
「……良い素体だ」
充血した目で呟いた彼の目は、どす黒く濁って見えた。


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