02 眼鏡と美女と田舎者
 薄暗い店の中へと、窓から配達鳥が舞い降りた。足には手紙が入った筒がついている。
入ったものの、薄暗くて良く見えないので立ち往生する配達鳥に奥から声がかけられる。鳴く事により、自分がここに居ると伝える配達鳥の元に一人の人物が近寄った。
 手紙を受け取った人物は配達鳥に水が入ったグラスを差し出すと、ニヤリと笑う。
「どうしてやろう?」
 その憎悪に満ちた呟きは、遠出をしたため必死に喉の乾きを癒す配達鳥以外は誰も聞いていなかった。

 ・

「意味が分からーん!!」
 セツの怒鳴り声が辺りに響く。しかしその声は辺りに流れる滝の音にかき消されて誰の耳にも届かない。
「こんなの聞いて無ぁーい!!」
 それでもめげずにセツは滝の音に対抗するかのように怒鳴った。
 セツが今いる所は幾筋もの滝が流れ、ほぼ垂直に切り立つ崖だった。"断崖絶壁"まさにこの言葉が似合うこの場所で、セツは壁にへばり付きながら怒鳴っているのだった。
 ――初めから言えって
 内心愚痴をいいながら、セツは自分の少し下まで降りているローブの人物を見た。
 ……時間はセツ達が出発したすぐ後にまでさかのぼる。

 ・

「おい、セツ」
 歩き出してから数分後、ずっと無言だったローブの人物がセツに声をかけた。声からするとどうも男のようだ。
「はいはい、なんでしょ」
 村の外れまで来た彼女は、どういう方法で他の地から切り離されたこの土地――ノシドから出るのか……それがようやく明らかになりそうで少々浮き足立って男に近づいた。
「今からこの地を出る」
 ――当たりっ!
 内心ガッツポーズを決めたセツは、これから告げられるであろうその方法を静かに待った。しかし、男の口から出た言葉はセツの想定外だった。
「崖登りをしたことあるか?」
「はいっ!? ええそりゃまあ」
 「何を言ってるんだ?」妙な質問に疑問を抱きながら、彼女は答えた。土地柄に加え、ままごと等より外で走り回る方が好きだったセツにとって崖登り等は日課のようなものだった。
「なら大丈夫だな」
 勝手に納得して男は村の境、崖に向かって歩き出した。
 ――嫌な予感……
 男の進む方向を見たセツの頭に、あまり望ましくない手段がよぎる。
「すみません、まさかですけど崖を地道に降りる……何てことは有り得ないですよね?」
 冷や汗だらだら内心どきどきの彼女が聞くと、男の動きが止まった。
 ――頼むから否定して
「そのまさか、だ」
 その一言は、今セツが一番恐れる言葉であった。放心状態の彼女を差し置いて、男は境へと再び足を進める。
「ちょい待ち」
 我に返ったセツが男を追い抜いて境まで先にたどり着き、崖の下を指差した。
「見てくださいよ! この高さ! この数々の滝から発生する霧たちをッ! はい何か感想どうぞ」
 感想を、といきなり振られた男はしばしの沈黙の後、一言呟いた。
「絶景だな」
「そうそう、その通り! ここはノシド三大名所の一つでありまして、運が良ければ沢山の虹が……って違うわ!」
 勢い良く突っ込みながら、セツはやけに熱く語る。そんな必死なセツを男は少し面白いと感じながら黙って眺めた。
「下見えないんですよ? 降りている時に魔物にでも襲われたらどうするんです? 即ご先祖様の仲間入りですよ! それに、崖の少し下には結界があるんです! 弾かれるのが関の山です」
 熱く語った彼女は息を弾ませながら男を見た。相変わらずローブをすっぽり被っているため表情は見えない。
「……終わりか? じゃあ行くぞ」
 顎に手を当てて聞いているとばかり思っていた男は、話が終わると崖を降りようとし始めた。
「ちょ……人の話聞いて無かったんか!?」
 男の態度に、セツは男のローブを引っ張って抗議した。しかし、頭に血が上っているセツとは対称的に、男は落ち着いた様子で言った。
「聞いていた。大丈夫だ、心配するな」
 セツが手を離したのを確認した男は、手慣れた様子で崖を降りていく。その姿を見たセツは、振り返ってノシドの景色を目に焼き付けると、小さく「行ってきます」と呟いて、崖を降り始めた。

 ・

「うん、大丈夫は大丈夫なんだけど……凄く濡れるんだよ」
 あれからセツは文句を言いながらも順調に崖を降りていた。が、その姿は滝から起こる霧でびしょびしょに濡れていた。髪が長いので鬱陶しい事この上ない。当然背負っている荷物も濡れている。
「おい」
 嘆きながら降りるセツの斜め下から男の声がした。嘆いている割に、すぐさま声のした方を見た彼女の目には、少し平らになっている所で立ってこちらを見ている男の姿が飛び込んできた。
「なんです?」
 男の隣までたどり着いたセツは垂れ下がってくる前髪を、乱暴に跳ね退けると男を見上げた。
「あれを見ろ、結界だ」
 男の視線の先には霧に紛れて真珠色に輝く結界があった。その美しい様にセツは息を呑んでその光景を食い入るように見つめた。
「今からあそこを抜ける。つまりノシドから出る」
「はいっ!?」
 男の言葉を聞いたセツは眼下の美しい光景から目を離して男を見つめた。
「いやいや、今までの結界ならまだしも今の結界に突っ込んだら……」
 焦るセツの脳内では昨夜に母達から聞いた、魔物を消し去った結界の話が流れていた。
「大丈夫だと言っただろ? 結界が俺達を拒絶する筈がない。守り神であるお前がついているんだからな」
 男の言葉にセツは照れくささと否定が入り交じった妙な気持ちになった。それと共に、自分が知らない"セツ"の事をもっと知りたいと感じた。
「あなたが言うと大丈夫な気がするんだよね」
 セツが男に笑いかけると、男は無言で先に崖を降り始めた。
 男の体が結界に触れると同時に、男を通すかのように結界がぽっかりと穴をあけた。そして男の体が結界を通り抜けると、穴は徐々に縮んで最終的に塞がった。
「おおー! よし、私も行くか」
わくわくしながらセツも結界に足を伸ばした。しかし、男の時とは違いセツが触れた結界は、穴があく事無く、ぐにーっと体重をかけるごとに延びてゆく。
「うあ? この感じ……なんか経験したことある」
 セツの頭に昨夜、まだユキの体にいたころの記憶が蘇る。あの時も弾力のある結界に彼女は阻まれていた。
 ――気持ちいいんだけど……まずい
 セツがそう思うのも無理は無い。結界に足を取られた今の彼女は、崖に手をかけているだけ。早い話が宙ぶらりんだ。
「いだだだっ!」
足をばたつかせてみるも、結界から抜け出す事は出来ずにただ両手が痛くなるだけだった。かといって手を離すことも出来ない。いきなり結界が解けて崖の下へと真っ逆さまという事もあり得るからだ。
 途方に暮れるセツの足がいきなり誰かに掴まれた。考える間もなくセツはその手に引っ張られ、結界の下へと消えた。
 ──行ってらっしゃい
 結界から抜け出す時、セツは確かに誰かの声を聞いた。


「あ゙ーー?」
 突如止んだ浮遊感にセツは思わず間の抜けた声を出した。目に入ってくるのはもう見飽きた滝、しかしどこか見え方がおかしい。そしてやけに荷物を背負った背中が痛い。
「無事か?」
 声がした方を見ると案の定男がいた。ただ男の姿が逆に見え、やけに上の方に頭部がある。
 そこでようやくセツは自分が逆さまで、足を男が掴んでいるのに気が付いた。
「無事です! ありがとうございます! それで……そろそろ降ろしてもらって良いですか?」
 いつまでも持ってもらうのは気が引けるセツは、感謝の言葉と共に降ろしてもらうよう頼んだ。逆さまのセツの頼みを了承した男は腕を横に向けて平らな岩場に彼女を降ろした。
「あ、ありがとうございます」
 色んな意味でギリギリなセツは、もう一度お礼を言うと上を見上げた。
 下から見るとあれだけはっきり見えていた結界は一切見えない。ただ滝の霧が辺りを覆っているだけだ。
「疲れたか?」
 小さくため息をついたセツに男が声をかけた。聞こえていた事に驚きながら、セツは否定した。
「そんな事ないですよ。ただ、ノシドを出た事に少し寂しさがあるだけです」
 本当はこれほど崖にしがみついていた経験は無いので疲れはあった。しかし自分のせいでペースを狂わせてはならないと思い、セツはとっさに疲れについて否定した。
 だが言った事に偽りは無い。事実、ノシドを離れた事にセツは寂しさを感じていた。
「そうか、もう少し進むと洞穴がある。一旦そこで休むとしよう」
 人の話を聞いていなかったのかセツの嘘を見破ったのか、勝手に休憩をすると言って進み出す男にセツは少し懐かしさを感じた。

 ――どこがもう少し?
 眼下でさくさくと疲労の色を全く見せずに崖を降りている男を見て、セツは内心ぼやいていた。男が「もう少し」発言をしてから、休憩を楽しみに下っていたセツだったが、あれから一向に男は足を止めない。
 あまりにも長い"もう少し"。セツの中ではまるで、それが夢か幻のように思えた。
 度々男が「まだ着かないが、疲れたなら休むぞ?」と声をかけてくれてはいたが、何となくそれが「俺は疲れていないが、お前が疲れているのなら仕方無しに休むぞ」という風にセツには感じられたので、何となく癪に触ったセツは頑なに拒んでいたのだった。
 しかし、意地だけで疲労をごまかせる訳も無く、只でさえ辛い状況に加えて結界を抜けてからの急激な気温の変化に、セツの疲労はほぼ限界に達している。その証拠に口数はめっきり減り、顔にはだらしない笑みを浮かべている。
「着いたぞ」
 待ちわびたその言葉にセツの疲れ切った顔が一瞬の内に明るくなる。男が顎でしゃくって見せたその先にはぽっかりと口を広げる岩穴があった。
 陰気な所だったが、滝の雫に嫌というほど全身を濡らされ、疲労感満載のセツにとって「雫から逃れられて横になれる場所」は楽園といっても過言ではなかった。


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