10
彼女とナツメは古い石柱を越え、彼女が初めに儀式を行った場所まで来ていた。
 彼女はまだナツメと話がしたかった。そしてナツメの方もそう思っていたが、彼女を長い間引き止めていると煩い人物がいるということで、もう別れなければならなかった。
「本当にありがとう、ナツメ。またすぐに戻って来るから、いっぱい話ししよう」
 燭台の炎がユキをおぶった彼女の顔を照らし出す。彼女の笑顔を見たナツメは少し悲しそうに答えた。
「すぐは無理だと思う。あいつはセツを外に連れ出すと思うから」
「あいつ? その、あたしをナツメが長い間引き止めたら煩い人?」
「まあ、煩くはないんだけど……そいつ。何でもセツはここに居てはいけないらしいんだ」
 ナツメの返事に彼女は少し気が重くなった。
 てっきり待ち合わせしている人物と話をすればまた戻って来れると考えていた彼女にはノシドを離れるという決意ができていない。
「そっか……じゃあ、また帰ってきた時に沢山話しよう。で、待ち合わせ場所ってどこ? 今から行けば良いんだよね?」
 彼女の問いかけに、ナツメは顔をひきつらせて答えた。
「場所はノシドの入り口なんだけど、時間が……十番オラ鳥が鳴く頃だってさ」
 それを聞いた彼女は絶句してしまった。彼女の感覚からしてそれまで十時間近くある。
「それだけ時間あったら急ぐ必要無いでしょ?」
 まだ十時間近く待ち合わせには余裕があるのだから、ナツメともっと話ができる。 そう思い、ナツメに告げた彼女だったが、ナツメは静かに首を横に振った。
「そうもいかない。ほら、その娘を家に帰さなきゃ」
 自分の背中で規則正しい寝息をついているナツを見た彼女は、今家がどのような状況になっているのかを想像して頷いた。
 彼女が納得したのを確認したナツメは、彼女に今後の事に対する対処法を教え始めた。

 ・

 ナツメと別れて彼女は聖域の入り口へと向かっていた。
 ナツメに教えられた事を繰り返し復唱しながら歩く彼女の耳に、人の声が聞こえてきた。
 ――大丈夫、ナツメが言った通りにすれば問題は無い。
 そう自分に言い聞かせながら、彼女は聖域の外へと踏み出した。
「ユキーーッ!!」
 一歩出た瞬間、鼓膜が震える程の声を張り上げながら、松明を持ったユキの母が駆け寄って来た。母を見た彼女は安心から思わず顔をほころばせたが、「もう自分の母では無い」と自分に言い聞かせて前に進んだ。
「どこの誰かも存じ上げませんが、このアホ娘を連れて来て頂いてありがとうございます。あ、私この娘の母でございます」
 彼女の前まで来ると、母は深々と礼をした。
 その態度から母は本当に自分の事を知らないのだと分かった彼女は少し俯いて答えた。
「いえ、森に迷い込んだ所でユキさんと会ったので……」
「どちら様ですか? この森は立ち入り禁止となっておるが」
 俯く彼女の元へと、母と共に来ていたゴギョウが歩み寄った。
 明らかに怪しんでいるゴギョウの声に彼女はピクリと肩を震わしたが、顔を上げて答えた。
「立ち入り禁止ですか、知りませんでした。魔物に追いかけられて、ただ無我夢中に走っていたものですから」
 そう言うと彼女はおぶっているユキの顔を一度見た。
 顔を上げても二人は何の反応もしなかった。バレていないという安堵の気持ちの一方で、もう自分は赤の他人なのだという認識が強まった。
「森に逃げ込んでしばらく進んだ所でユキさんに会って一緒に逃げていたのですが途中の小川で足を滑らせてしまい、ユキさんが気を失ってしまったんです」
「はあ、それで濡れていらっしゃるんですね」
 ナツメと打ち合わせした事を間違いなく言ったものの、真実とは全く異なる事を言った彼女の心は後悔で溢れていた。
「まあ、聖域に足を踏み入れた事は許しがたいが……」
 顎髭を触りながらゴギョウが小さく唸った。駆け寄って来た父にユキを渡していた彼女の顔が凍りつく。
 彼女の頭の中では、数年前に聖域に入った事がばれた際に行われた罰が再生されていた。
「しかしあなたは、村の民を救ってくれた。一人の命の事を考えると、踏み入れた事など安いものだ。きっと守り神様も怒ってはおらぬだろう」
 ゴギョウの言葉を聞いた彼女は安堵のため息をこっそりついた。
 しかし、ゴギョウが指す"守り神様"が自分なのだという事を考えると、いささか居心地が悪い。
「あの」
 物思いにふけっている彼女へと、母が声をかけた。
「今夜の宿とかありますか?」
 言われてみれば、自分は旅の身分の者となっている。よって寝る場所は自分で確保しなければならない。静かに首を横に振る彼女へ、母は満面の笑顔を作ると言った。
「だったら家に来てください。せめてものお礼です」
 ・

あれから「悪いので」と断ったものの、母は問答無用に彼女をユキの実家へと連れて帰った。
 ――皆に会ったらボロが出る。
 そんな彼女の心中など露知らず、母は勢い良く玄関の戸を開いたのだった。
「本当にありがとうございました」
 替えの服に着替えさせてもらった彼女は祖母、母そして長女のハルに囲まれながら、最後であろうこの家の雰囲気を楽しんでいた。
 ユキは奥の部屋で父、次女のナツ、三女のアキにお仕置きという名の嫌がらせを受けている。眠ったままで。
「そういえば……」
「うー、あいたたた」
 ハルが彼女に何かを尋ねようとした時、居間の隅にある布切れから唸り声がした。
「なんでわしゃあ、家で寝とるんだ?」
 布切れを跳ね退けたソウカは赤い顔で辺りを見渡した。寝ぼけ眼で家族の顔を眺めるソウカの目が、彼女を見た瞬間大きく見開かれた。
「親父、結界が魔物を消し去った時に、一人で大酒飲んで酔っ払って寝たんじゃないか。それをオレが連れて帰ったんだよ」
 ソウカが目覚めた事を知った父が奥の部屋から出て来て説明するも、祖父の耳には届かなかった。
「あんた……わしを覚えとるか?」
「い、いえ……」
 ばれたと思い、しどろもどろに返事を返す彼女だったが、ソウカは小さく「そんな筈無い」と言い、それを取り繕うように大きな声で祖母に尋ねた。
「どちらさん? 何、ナツの恩人!? こら、おめぇら! 恩人さんは疲れているんだ。早く寝かしてやれ」
 言い出した事は必ず行動に移すソウカは、勝手に解散命令を出して布団を敷き始めた。
 その通りだと思った事と、ソウカの性格を知っているユキの家族は、各々布団を敷いて床に着いた。
 長い、彼女にとって重要な1日がようやく幕をおろした。

 ・

「お世話になりました」
 九番オラ鳥が鳴いてしばらく経った頃、彼女は家の前で深々と礼をする。
 何故か大量の荷物を背負って、服は昨日着ていた紺色の浴衣のようなモノでは無く、甚平という何とも気楽な格好だ。
「ここまでしてもらうと何だか悪い感じが……」
「良いの良いの!あんたは恩人だから気にしないの!」
 まだユキは目覚めていない。しかし、寝返りをうつようになったので意識を戻すのはもうすぐだろう。
「そういえば、名前まだ聞いてなかったね」
「バカかおめぇら! 真っ先に聞くもんだろう」
 ぶりぶりと怒る祖父と、それを押さえようとする家族を見ながら彼女は考えた。
 ――あたしはもうユキじゃない、あたしは、私の名前は……。
「セツ……です」
 小さく名を言った彼女は顔を上げてもう一度、今度は笑いながら言った。
「私の名前はセツ……、セツです」
「セツさん、またおいで。今度はユキも起きているだろうから」
 手を振って別れながら彼女は考えていた。
 私はもうユキじゃない、ユキは本来の人の元へ返った。だから悲しんじゃいけない。私、セツもユキもようやく本当の道を歩き出したのだから。と。
 村の外れでは、大体の予想通りローブの人物が彼女を待っていた。
「何と呼べば良い? セツか? それとも前の……」
「私はセツ。そうでしょ?」
 ノシドの言葉では無い言語で彼女は答えた。その表情は吹っ切れた様にどこか晴れ晴れとしている。
歩き出すローブの人物を追いかけながら、彼女は空を見上げた。
 ノシドの天気は快晴。それはまるで、彼女の心を映し出したようだった。
「よっし! 行くか」
 こうして彼女はナツという名を捨て、セツとして新しく生きる事を誓ったのだった。


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