9
「ふう、何とかなったか」
 無事(?)にユキを岸へ上げる事ができた彼女は、眠っているユキの隣へと腰を下ろした。
「予想が現実になった……か」
 隣で眠るユキを見て彼女は呟いた。
 自分の体が入れ替わるという異例の事態だが、目の前で眠っている少し前までは自分の体だった筈のユキを見ると認めざるをえない。
「あたし、これからどうなるだろう」
 少し顔を歪め、未来が全く見えない彼女は膝を抱えて顔をうずめた。
 ――わからない……
 あまりにも日常からかけ離れている事態に見舞われた彼女は少なからず混乱していた。
 しかし、もし自分がユキの体を奪い取っていたのなら、本当に迷惑しているのはユキの方だ。それに今の彼女が何者なのかという事すらわからない。
"漆黒の守り神である"というのはあくまで彼女の仮説にすぎないので彼女の不安は募るばかりであった。
 行き場のない思いを堪える彼女の耳に、小さく草を踏みしめる音が届いた。
 その音は彼女のすぐ後ろから聞こえる。誰だと振り返った先には先程命をかけた鬼ごっこの相手である狼がいた。
「えええぇぇー」
 開かれた口からは何とも間の抜けた声が発せられる。
 そんな彼女を気にする事無く狼は、彼女とユキがいる方へと近寄ってくる。
「あ! 駄目だって! 食べるんならこっち! ヘイッ!」
 まだ目を覚まさないユキを庇うように彼女は狼の前に出た。内心は早く逃げ出したいが、動けないユキを放って行く事はどうしてもできない。
「おかえり」
 しかし、ガチガチに緊張している彼女と正反対に、狼は優しい口調で話しかけた。
「感じ変わったね」
 状況が理解できない彼女を差し置いて、狼は幸せそうに微笑んで続ける。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
 彼女が目と口をぽっかり開いて何も言わない事に気が付いた狼は彼女に尋ねた。
「い、いや。ただ食べないのかな〜? って思っただけでありまして……」
 てっきり襲われるとばかり思っていた彼女は、狼の予想外の行動に戸惑いを隠しきれなかった。それに、異国の言葉が分かるように狼の話が分かり、更に喋れる自分に対しても彼女は戸惑いを感じていた。
「食べる? ああ、最初に追いかけ回したこと? あれはここに導く為だったから、本気だった訳じゃ無いよ」
 狼はそう言うと、あははと笑った。
 呆然と狼の話を聞いていた彼女は、ある単語に反応した。
「導く為って……どういう事? あなた、何を知っているの?」
 眉をひそめて尋ねる彼女に、狼は笑う事を止めて驚いた表情で聞き返した。
「もしかして忘れている?」

 ・

「ははぁ、あたしはずっと昔に眠りに着いた、通称"漆黒の守り神"で、本当の名前はセツ。本来は時期が来たら眠りから自動的に目覚める筈だったけど、十八年前に一時儀式が中断された時に魂が体から離れた。しかし魂が消える直前に儀式が執り行われて、魂は急遽ナツの体に入り、あたしは今までユキとして生きて来れた……こういう事?」
 彼女――セツのまとめに狼は無言で首を縦に振った。心なしか表情がどこか暗い。
「うん、大体そんな感じ。セツは本来十七年前に目覚める筈だったんだ。でも儀式の中断によってセツの魂は、そこの娘の体に入り、娘の魂はセツの体に入った」
 狼がチラッとユキの姿を捉えた。彼女の位置からでは狼の表情は見えない。
「じゃあ目覚めるんだ!」
「ああ、目覚めるよ」
 低い声色で言葉を発すると同時に狼はユキの方に近寄った。
 ユキが目覚めると聞き、安心した彼女は狼の声が低かった事に気が付いていない。
「ね、セツどうする?」
「何が?」
 上機嫌の彼女は狼の問いかけに笑顔で聞き返した。しかし、狼の話は笑って聞けるような内容では無かった。
「この娘どうする? もう役目も終わったし、片付けても良いんだよ?」
 『片付ける』それはすなわちユキを処分するという事を意味していた。
 狼は彼女に背を向けているため、顔は見えない。よって言っている事も冗談か本気か判断できない。
「冗談でそういう事」
「本気だよ」
 悪い冗談かと思って答える彼女の言葉を遮って狼が言う。その言葉からは本気でユキを始末するという意志が込められていた。
「何の為に?」
 彼女の少し低い声に狼は振り返った。視界の下の方には座っている彼女の姿が見えた。
 不意に彼女が顔を上げる。上げられたその顔は無表情だった。
「何の為にユキを処分するの? したら何の利益があって、しなかったらどんな不利益があるの?」
「どうしてって……」
 狼が明らかに動揺したのを見た彼女は更に続ける。
「大した理由無いんでしょ? ユキはあたしの為に十七年を棒に振ったんだよ。なのにあたしは、元の体に戻った時に「どうしてあたしが」なんて最低な事を考えた」
 一気にここまでまくし立てた彼女はここで一旦区切った。
 相変わらず無表情で、しかし荒くまくし立てる彼女に、狼は小さな恐怖を感じた。
「ユキからしちゃ「それはこっちのセリフだ!」ってなもんなのに。ユキが生まれてくれたおかげであたしは消えずに済んだんだ。あの子の十七年と引き換えに。なのに、あたしが戻ったら処分するだって? じゃあユキは何のために生まれたの? 過去の人物の土台になって消える為? そんなの生け贄と同じだろ? あって良い筈が無い! 文句があるならかかって来いや!」
 そこまで言った彼女の顔は怒りと悲しみに染まっていた。
 確かに狼がここでユキを処分すると、ユキが生まれた意味はセツの魂が落ち着くまでの土台、手早く言えばセツ復活のための生け贄に生まれたと言える。
「しないよ」
 座ったまま構えを取る彼女に狼が話しかけた。彼女が疑問を浮かべている間に、背にナツを乗せた狼が目の前に立っていた。
「冗談だよ、ごめん。この娘村に返すんだよね?」
 冗談だと聞いた彼女は自分が言った事を思い出して恥ずかしく思った。
 急いで立ち上がろうとするが、足がまだしっかり動いてくれないのでよたついている。
「そうですよねー、いや失敬。あ、ユキならあたしがおぶるから」
 冗談を真に受けた恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして、若干千鳥足で駆け寄る彼女に狼は苦笑した。
「こっちこそごめん。セツ、足元が覚束無いからオレが運ぶよ」
 狼のもっともな意見に彼女は「そうですか」と小さく答えた。
 今の彼女がユキをおぶった所で、二人して転ぶのが関の山だ。
「本当にごめん。でもさ、次からはああいう冗談抜きで!」
 一本取られたのが悔しい彼女は、狼の隣に並んで歩くとそう言った。
 狼はまた苦笑すると、首を縦に振った。その仕草を見て満足した彼女は、頭の後ろで腕を組むと思い出したように尋ねた。

「ね、名前何ていうの?」
 その言葉に狼はショックを受けた。忘れているとは聞いたが、自分の名前は覚えていると思っていたので思考が一旦停止する。
 しかし、妙な素振りを見せれば心配をかけると思い、必死に言葉を探す。
 ――セツ、あなたがくれた名は……
「……ナツメ」
 突如聞こえた自分の名に、狼は慌てて声の方を向いた。そこには「やっぱり」と言って笑う彼女の姿があった。
「当たりみたいだね? いきなり頭に浮かんだんだ」
 以前は見たことが無い彼女の笑顔に、狼――ナツメは胸が熱くなるのを感じて顔を伏せた。
「なんでかな? 凄く懐かしく感じる。えっと……」
 思い出した事を述べる彼女の横で、ナツメはただ俯いて歩いていた。
 不意に頬を撫でられ、ナツメは彼女の方を見た。彼女もまた俯いている。
「あたしが付けた名前で……ナツメは弟」
 セツとは訳あって家族となった。それはナツメが生まれる以前の話し。
 そしてナツメが生まれ、名を付けたのが彼女、セツであった。
「おかえり、セツ」
「ただいまナツメ」
 お互い胸に熱いものがこみ上げて、顔を見れない二人は改めて挨拶をすると、並んで花畑を歩いて行った。
 二人のその様子を月と結界樹だけが優しく見守っていた。


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bkm

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