剣が淵の声なき主
 人里離れた山の中。
 幾つもの山を掻き分け、幾重もの谷と崖を超えた先。鳥さえ鳴かぬ鬱蒼とした山の中に、剣が淵という名の沼がある。
 鳥も動物も、虫さえ寄らぬその沼は年中深緑の水に覆われ、水底を臨むことなど到底出来はしない。更に、その沼には非常に凶暴で、見るもおぞましい主がいると言う。
 主は沼に生物が寄ると、地の底から響くような不気味な音を立て、底があるかも分からぬ水底からその身を浮上させる。哀れな獲物が主に気付いた時には既に手遅れ。主は無数もの水泡と共に巨大なその体を水中から出し、恐怖で動けぬ獲物をいとも容易く捕える。
 更に、主の体は灰色がかったぬめぬめと不気味に光る粘膜に覆われ、例え反旗を翻そうとも攻撃が届くことは無い。哀れな獲物は届くことも無い反撃をしながら、主の巨体と共に水底に沈む。
 誰もいなくなった池の淵には、持ち主を失った武器が無数に残され、風化に耐えながら主の仇を討ってくれる者をただ静かに待っているという。
 無数に放置された剣が眠る淵。いつしか、人々はその淵のことを剣が淵と呼ばれるようになった。
 本来ならば誰も立ち寄らないような沼であるが、怪物退治の大義名分を掲げ、一旗挙げてやろうと思ってしまうのが人の哀しい性。彼等は己の危険も省みず、今日も武器を携え正確な場所も分からぬ、名だけ知っている剣が淵を目指す。自分の剣が沼の名前の一部になるとも知らず。
「化け物め、出て来い! この島津義孝が倒して見せよう!」
 今日やって来たのはまだ年端も行かない青年であった。
 彼はここまでの旅路で既に傷んでいる装具を身に着け、一部歯こぼれをおこしている剣を掲げて沼へと叫ぶ。鬱蒼とした草に覆われた沼は深緑の水を湛え、数少ない木漏れ日を受けて時折妖しく光る。
「怖気付いたのか!? 俺は此処にいるぞ!!」
 ゴポリ。
 沼の遥か下。あるかも分からぬ固定から小さな水泡が生まれ、その下を大きな影が横切る。
 小さな水泡はゆらゆらと揺れながら水面に浮上し、ポコという小さな音を立てて弾けた。だが、嵐の前の小さな音に、すっかり英雄気取りで自分に酔ってしまっている青年は気付かない。
 しばらく叫んでも何一つ変わらぬ状態に飽きたのか、青年は、とんだ腑抜けだな。と忌々しげに呟き、視線を沼から周囲へと向ける。
 沼から周囲は地面に突き刺さった無数の剣により縁取られている。
「さぞ無念だっただろうに……」
 一際装飾が目立つ剣を手に取った直後、地の底から響くような不気味な音が周囲に木霊する。
 豪華な装飾を食い入るように見つめていた青年は気付くことが出来なかった。音も無く忍び寄る巨大な影と、沼の中から延ばされた触手のような物に。
(我は此処……)
 ひやり。
「ひやぁあああ!!」
 首筋に冷たい感触を感じた青年はそれまでの雄々しい雄叫びとは正反対の情けない悲鳴を上げて飛び上がる。
 涙目の彼が見たのは、水面から伸びた二本の触手。そしてその下でゆらゆらと蠢く巨大な影であった。
 影でさえ分かるその巨大な体躯。その圧倒的な存在感は、触手に首を撫でられ、既に折れかかっている青年の心を見事なまでに粉砕した。
「お、お母ちゃーーーん!!」
 すっかり肝をつぶした青年は、情けない悲鳴を上げて逃げる。その際に今まで自慢気に掲げていた剣を落としてしまうが、青年はそれを拾う事なく走り去って行った。
(……剣)
 対象が去り、手持ち無沙汰にぷらぷらと揺れていた触手は青年が落とした剣をおもむろに拾い上げ、他の剣と同じように地面に刺す。そして水上へとゆっくり灰色がかった顔を出すと、金色の目で口惜しそうに青年が走り去った方角を見つめ、再び水底へと沈んで行った。
 灰色がかった体に、金色の目。戦わずして敵の戦意を削いだその存在こそ、人々が退治せんと追い求める剣が淵の主であった。


 淀んだ剣が淵であるが、実は底に行けば行くほど水は澄み、水底には酸素の膜に覆われた巨大な水中洞窟がある。幾ら主とて、呼吸をせねば死んでしまう。その為、主は水中洞窟をねぐらとしていた。
「応、主よ。生意気な人間を食うてやったか?」
 大きな体を上手にくねらせ、水中洞窟へ戻った主へと、威厳のある低い声が掛けられる。
 それが仲良くしている川の主の物だと把握している主は、川の主の自分とは違うゴツゴツとした強靭な鱗に見とれた後、ぺこりと一礼してふるふると首を横に振る。
 途端、川の主の緑の眼光が爛々と光り、鋭い葉が生え揃った口がわなわなと開かれる。
「またか!! お主は何遍言うたら奴等を食うのだ!? ああ? 可哀想だから。だと? 阿呆か、奴等はお主を殺す為に来ておるのだ。殺しに来た奴を殺すのは通りであろう! なーにを寝ぼけた事を言うておるのだ、この甘ちゃんめが!」
 怒りに駆られた川の主に詰め寄られ、沼の主は怯えから触手を垂らして洞窟の端に寄る。しかし、川の主はどんどん距離を詰めて来る。
「遠路はるばる来てくれたのに、もてなさないと悪い……。お主はどれだけ阿呆なのだ!! 殺しに来る奴らに何を持て成す必要があるのだ! このド阿呆めが!!」
 烈火の如く怒り狂う川の主を前に、淵の主は涙を浮かべて狼狽することしか出来なかった。
 凶悪と名高い剣が淵の主であるが、その実態は非常に気弱で、殺生を好まぬ、凶悪とは図体だけの存在であった。
「逃げるな。話はまだ終わっておらんぞ! ええい、主たる者が泣くでない!」
 逃走しようとするも、触手を掴まれて未遂に終わる。全身が粘膜で覆われている主であるが、触手だけは唯一粘膜に覆われていない。
 何て不便な体なのだ。自分の不甲斐無さと川の主の剣幕にぽろぽろと涙を零していると、川の主はいい加減に泣き止めと一喝して来た。
 明らかに逆効果なのだが、これ以上泣いていると何をされるか分からないので、主は懸命に涙を堪える。
 その姿を見て川の主は満足そうに鼻を鳴らす。しまったと思うも時既に遅し。川の主は淵の主を泣き止ませるには怒鳴るのが最適だと思い込んでいた。
「お主は何だ、己が死んでも良いと考えているのか」
 まさか。と首を横に振るも、川の主の表情は更に険しくなっていた。
「ならば何故何もせんのだ。攻められて何も手を打たねば、どうなるかは明白であろう?」
 淵の主とて、川の主の言い分が正しいということは理解している。
 けれど、それでも人間を手にかける気にはなれなかった。人の一生は主達と比べてほんの一瞬だ。その一瞬を摘み取る事はあまりに酷である。ならば、せめてその一瞬に一時の夢でも見てくれればいい。その為ならば、淵の主は喜んでこの身を捧げるつもりでいた。ただし、命に関わらぬ範囲であるが。
「ふん、所詮偽善であろうが。大体、お主が声を失ったのも、元はと言えば人間のせいではないか。声があれば奴等とも多少は解り逢えたかも知れんというのに、懲りん奴よ」
 淵の主は声を失っていた。
 昔、人間に声が怖いと言われたため、喉を潰したのだ。もっとも、声を失ってからも人間は主を恐れるので、声を失った意味は全く無かったのだが。
 しかし、淵の主はそれを悲観していなかった。元より無口であるし、友である川の主とは意思疎通が取れるからだ。
「困っていないから構わん、……だと?」
 ギロリと睨み付けられ、淵の主は蛇に睨まれた蛙のように凍り付く。
 自分の考えが甘いことは分かっている。このような考えでは主は務まらないとも。
 だから何度も主を譲ることを提案した。そもそも、淵の主は好んで主になったのではない。たまたま住んでいた淵で自分より貫禄ある体格のものがいなかっただけ。それだけだ。
 だが、その提案はいつも却下されていた。
「また主を降りたいと抜かすのだろう。阿呆か。許す訳が無いだろう、無責任めが!」
 そんな気はないと弁明するが、心の奥底で少しは思っている為、川の主の抜き見の言葉が心に刺さる。それを皮切りに、暫し止まっていた涙が再び堰を切ったように溢れ出す。
 川の主は悪くない。こうして怒っているのも自分のことを思ってのこと。事実、川の主は幾度と無く淵の主を助けてくれている。
 それはとても有難い事で、感謝はすれど恨む通りはない。しかしいかんせん怖い。角ばった外見に劣化の如く怒られ、更に鋭い牙がびっしり生えた口から出る言葉が正論ばかりとなれば、心が羽化したての蝶の様に軟い淵の主に太刀打ち出来る術は残されていなかった。
 川の主に恩返しが出来るとすれば、自分が川の主の言う通り強さを備え、指導通りに人間を拒絶し、主らしく振る舞えば良いだけのこと。だが、それは淵の主には到底出来ぬ事であった。
「お主は本当に愚かだの。もう良い。怒る気も失せたわ」
 ボロボロとえづきながら泣く淵の主に呆れ果てたのか、黙って睨み付けていた川の主が腰を上げる。
 ーーす、すみません、誰かおられませんか?
「……何だ?」
 突如水面から聞こえてきた子どもの声に、川の主はその緑色の目をギラリと向ける。
 途端、何故か淵の主の体がビクリと跳ね上がる。
「気のせい。早く帰れ、だと? 白々しい。隠し通せると思うなよ。だって、言ったら怒るだと? 遠の昔に怒っとるわ、たわけ! さっさと吐かねば地上に居るであろう餓鬼を喰い殺すぞ!」
 ぶるると震え、淵の主はその巨体を人の大きさに変化させる。少々歪で、淡く光ってはいるものの、その姿は遠目に見れば面をつけた人に見えないことはない。
「は、けったいな。何故あ奴らの姿をなぞらえねばならんのだ。む? 普段の姿ならば怖がられるからだと? 阿呆らしい。何だ、知りたければ付いて来いと? 生意気な……」
 言葉とは裏腹に、川の主は淵の主と同じく、瞬時に子どもの姿に化けて見せた。
 意外と可愛い姿を取るんだねと微笑むと、最近喰った者の姿だと言われ、淵の主は閉口する。
 それでは行こうか。淵の主に促されるまま、川の主は子供の姿でゆっくりと水面へと浮上する。その途中、川の主は水中で漂っていた大きめの葉を1つ取り、顔に被せておくことにした。
「……あれ、誰もいないのかな?」
 水面では一人の少女が不安そうに手を組みながら、そわそわと周囲を見渡していた。
 こんな人里離れた山の中に少女が一人でいるとは中々考え辛い。しかし、少女は目立った傷もなく、疲弊した様子も無く淵のほとりに立っていた。
「あのー……」
 もう一度呼ぼうとした時、湖面が不意に淡く輝き、やがてその中から二人の人のような者が出てきた。二人共淡い光を放ち、そして顔を隠していた。
 一人は少女と同じか、やや下程。もう一人は成人しているように見えた。
「あ、あの! あなたは剣が淵の主様ですか!?」
 やや間があって、大人の方が辿々しく頷く。何故か、少年の方が大人を小突いたような気がしたが、おそらく見間違いであろう。
「おい、子ども。何用だ?」
 湖面に立つ二人の姿に呆気にとられて見つめていると、意外にも少年の方が偉そうに喋り出す。
 その喋り方、そしてまだ声変わりもしていない声が昔近所に住んでいた兄にそっくりで、少女はまた暫し呆気に取られる。もっとも、今の少女はその兄の歳を越してしまったのだけど。
「あ、あの、私鈴と申します! 爺ちゃんが昔、主様をとっちめようと来たそうで」
「仇討ちか」
「滅相もねぇ!!」
 一口に食うてやろうと川の主が構えると同時に、鈴と名乗った少女は慌てて否定の言葉を口にする。
「爺ちゃん、最近元気がのうて。昔、主様をとっちめようとした罰かもしれんと毎晩言うとるんです」
「そうなのか?」
 ぶんぶんと首を横に振る淵の主に、だろうな。と呟く。川の主がここまで苦労することはないからだ。
「ほんで、爺ちゃん、あの主には悪いことをしたと。今思えばあの主は自分になんの手出しもしなかった。いや、きっと今まで行った奴等全てに何もしなかったのだろう。むしろ、主は逃げ出す際に転んだ儂に薬をくれたと」
 照れたように頭を掻く淵の主に、川の主はお節介だとひっそりと突っ込む。
「流石にその薬は怪しかったから、近所の犬が怪我している時に塗ったと言うておったんですが」
「子ども、それは言わんで良い」
 再び落ち込む淵の主に、当たり前の反応だと励まし兼指摘の言葉を掛ける。川の主は何となく淵の主が何をしようとしているのかが分かってきた。
「爺ちゃん、謝っとりました。淵の主に酷いことをしてもうたと。でも、爺ちゃん、足腰悪くて立つのもほうぼうで……だから私が代わりに謝りに来たんです。淵の主様、ほんとうにすみませんでした!」
「して、淵の主を殺ろうとしたこんこんちきの祖父の名は?」
「助六です!」
 名を聞いた途端、淵の主は人で言う指の部分から光に形を変えた触手を延ばし、一本の剣を掴む。ゆっくり引き抜かれたそれは、昨晩打ったばかりのような青白い光を放っていた。
 こ奴、毎日毎日敵の得物の手入れをしていたな。小さく舌打ちをすると、淵の主はビクリと肩を上げる。その反応こそが川の主の仮定を裏付けていた。川の主の圧迫を受けながらも、淵の主は鈴の手に優しく剣を置いた。
「それが愚鈍の祖父の得物だ。淵の主は責めておらんと伝えよ」
「あ、ありがとうございます! 主様、恩に切ります!!」
 何度も何度も頭を下げ、鈴は淵から去って行った。
「……なる程な、最近お主が任を降りたいと申さぬようになったのはこれが理由か。人間を寄せ付けぬどころか、馴れ合いをしているとはのう……」
 お先に帰ります。見る見るうちに膨れ上がる川の主の圧迫感から逃れるべく、淵の主はそそくさと淵の底へと去って行く。
 どうせ後から追いかけられると分かっているのに、学習しない奴だと毒づき、川の主は鈴が去って行った方を見る。
 良く良く目を凝らせば、鈴が向かった先には下手くそで歪な術が張ってあった。紋様を見るに、移動式術だろう。ともすれば、大人の足でも到達することが難しいこの地に、鈴が疲労も怪我も無く到達したことの理由がつく。
 恐らく、かつての挑戦者全てに印を付けており、その誰かが淵の主の力を求めた時に移動式術が展開するようにしているのだろう。
 能力の無駄遣いだ。そう思いつつも、川の主は鈴の笑顔を思い浮かべる。ありがとうございます。日の光のように明るいあの笑みは、暴れ神と呼ばれる事の多い川の主には向けられたことのないものであった。
「その労力と知恵を何故他に使わぬのか、馬鹿馬鹿しい。全く、飽きに足りん者よ」
 呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑い、川の主は変化を解いて淵の底へと戻って行った。
 愚かで、優しすぎる友を追って。

 人里離れた山の中。
 幾つもの山を掻き分け、幾重もの谷と崖を超えた先。鳥さえ鳴かぬ鬱蒼とした山の中に、剣が淵という名の沼がある。
 そこには穏やかで泣き虫な主と、そんな主を叱り飛ばすお節介な主の友がいると言う。


▼お題提供:清久志信さん
▽お題:剣が淵の声なき主


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