古びた約束
 おい、ガタロウ。居らぬのか、ガタロウよ。
 水底で魚を捕まえようとしていた所、遥か上の水面から聞き慣れた声がした。うっかりその声に意識を取られてしまい、狙っていたヤマメが逃げてしまう。
 ああ、夕飯が……。がったりとため息を漏らしながら項垂れると、鳥に似た口からポコリと水泡が出た。
 水銀のような輝きを放ちながら、水泡はぐんぐんと暗い水面へ向かって上がって行く。ぼんやりとその泡が水面で弾ける様を見ていると、またもやあの声がした。
 ガタロウよ、其処に居たのか。何をしておる、早う上がって来い!
 水越しに聞こえるその声は酷く歪んでいたが、それはいつもの事で気にする必要はない。
 厄介な奴に目を付けられたものだと、底に下ろしていた腰を上げて水面を見上げた。ぐいと両手を伸ばすと水掻きの間から白銀に輝く三日月が見えた。それがとても美しくて、思わず口角が上がる。
 風流だと頷くも、またもや水面から例の騒がしい声がする。奴には風流を感じるような心を持ち合わせていないのだろうか? 折角の雰囲気が台無しだ。
 これ以上待たせておくと石を投げ入れられそうなので、面倒だが水草を蹴って水面へ浮上する。無視し続けて前回は子牛程の石を投げ入れられた。もうあんな肝を冷やす思いをするのは御免だ。
「遅いぞ! 何をしておったのだ」
 水面に顔を出すと提灯を持った奴は苛立たしげに、けれど何処か嬉しそうに遅れた事を責め立てた。怒りと喜びを同時に表現するとは、人間とは不思議な存在だ。
 この猿のように落ち着きのない男の名は茂吉という。三年ばかり前に出会ってから、こいつは連日のように住処の池に押し掛けてきては、何かと構ってくるようになった。
 現に今も茂吉は手土産であろう胡瓜を手にして、私を陸に上げようとしている。奴は私を犬だとでも思っているのだろうか? 腹立ちつつも、素直な胃は好物を目の前にしてぐうと鳴る。
 空腹に耐えかねて陸に上がると、奴は嬉しそうに笑いながら自分の座っている隣を忙しく叩く。どうやらそこに座れという事らしい。何から何まで注文の多い奴だ。
「どうだ、美味いか!?」
 隣に座っているにも関わらず、奴は一里離れている相手に声をかけるかのように大声で尋ねる。正直五月蝿くてかなわんが、奴に言った所でどうにもならないだろう。
 無言で頷くと奴は軽快に笑いながら意味もなく私の甲羅を叩いてきた。食事中は大人しくしてほしいものだ。
「なぁガタロウ、懐かしいな。五郎丸と呼ばれたお前を助けてから、もう三年も経つのだぞ。……何をむせている?」
 思い出したくもない過去の失態。それを今更話題にされ、私は思わずむせ込んでしまった。奴はどうした等とほざいていたが、この状況で主意外に誰が原因だというのか。
 三年前まで私は水引の五郎丸という悪名高い河童であった。沈めた馬の数と抜いた尻子玉の数は百足の足でも足りぬ程。当時の私は竜王にも一目置かれ、人間共が畏怖する存在であった。
 が、それも三年前までの話。
 三年前、私は天敵である猿と揉め事を起こした。河童の潜水時間は18時間。一方猿の潜水時間は24時間。勝てるわけが無かった。
 住み慣れた池で溺れかけ、猿に滅茶苦茶に引っ掛かれた私は情けないながらも死を覚悟した。
 そんな時に奴が、茂吉が現れたのだ。奴は私達の揉め事を見るなり、持ち前の大声で怒鳴り散らした。そのあまりの大声に猿は肝を冷やして逃げ帰り、私はすんでの所で命を取り止めた。
 しかし人間は散々悪さをした私の事を憎んでいた。何せ近くの村の男共の大半は私に尻子玉を抜かれて腑抜けになっている。
 猿に噛み付かれ、引っ掛かれ、衰弱しきった私は早く殺せと奴に言った。捕らえられ、里で見せ物にされる等の生き恥は晒したくなかったからだ。
 だが奴は殺す所か、水面に漂っていた私の身体をわざわざ陸へと引き上げ、持っていた薬草を塗りたくってきた。その塗り方は非常に粗暴で治療されているようには到底思えなかったが、奴が私を助けようとしている事は嫌ほど伝わってきた。そして奴は、これに懲りたらもう悪さをするなよ。とだけ言い、何の見返りも求めずに里へ帰って行った。
 それ以来、私は人を襲うのも、馬に悪戯をするのも止めた。別に恩返しをしようと思ったのではない。単に、それらに飽きただけだ。
 それから奴はちょくちょく顔を見せるようになった。確かガタロウという妙ちくりんな名を付けられたのは、確か三度目にこの池に来た時だったか。
「鹿の角を投げ入れた時の主の慌てようは傑作だったのう! 儂は暫く笑いが止まらんだぞ!」
 相変わらずやいのやいのと騒がしく喋り続けている奴に、私はふと違和感を感じた。今日は昔の話しかしていないからだ。
 私の疑問に気付いたのか、奴は頭をボリボリと掻き、戦に行くのだと告げた。
 この池から離れた事の無い私は戦という物を見たことがない。だが、仲間の妖怪達から大体の話は聞いていたので、どういう物なのかという事は知っていた。
「なに、直ぐに帰って来るさ。儂には許嫁もおるし、主とまだ相撲も取っておらぬからな!」
「そうだな。主の尻子玉は私が食うのだから、人間なんぞに殺られては困る」
 小さく笑いながらそう言うと、茂吉は誰が食わせるかとまたもや私の甲羅を叩く。そのやり取りはいつもと全く同じものだった。

 そしてその翌朝、茂吉は遠い戦場へと去っていった。
 用水路に忍び込んで奴が出て行く姿を見ていたが、奴はいつもと変わらぬ姿で家族や許嫁であろう娘に「ちょっと行ってくるわ」と言って里を出た。その姿は本当にいつもと同じで、私は奴を見送った人間達と同じく、直に帰ってくるだろうと思っていた。

 だが稲穂が実り、雪が里を染めても奴は帰って来なかった。
 やがて許嫁の娘は他の男に貰われてゆき、奴の両親も寿命が尽きた。それでも奴は帰って来ず、里には古い人間が消え、そして新しい人間が現れた。
 幸い、私達妖怪の寿命は人間のソレとは比べられぬ程長い。だから私は待ち続けた。奴の、相撲を取るという約束を守るために。

「いつまで、いつまで」

 何度目かの飢饉が過ぎた頃、懐かしい妖怪が私の元に来た。名は鳴き声の通り、以津真天と言う。打ち捨てられた死体の怨念から生まれた妖怪だ。
「五郎丸、まだ人間との約束を守っとるのか? 貴様とて馬鹿ではない。奴が遠の昔に息耐えた事など分かっとるだろうに」
「あれは約束を破るような奴ではない。それに、人間も仙人という物に化けると聞いた。もしかすると……」
「ただの農民が仙人に成れはしない事、重々理解しておろう。五郎丸、そろそろ人間に拘るのも終いにせよ。人間共が増え、儂等の住処は少のうなった。竜王達が儂等の為に作ってくださった住処に行こうではないか」
 以津真天の言う通り人間達は次々に数を増やし、そして森林や川を壊した。同時に人間達の自然に対する敬意は薄らぎ、自然の化身と言っても過言でもない私達を見れぬようになっていた。
 それにより、人間達は私達の住処を次々に奪った。私の家は辛うじて人間の手に掛かっていないものの、仲間の中には住処を失い、種が絶えたものもいる。
 以津真天の言う通り、私も此処に拘らず竜王達が用意してくれた新しい住処に越した方が良いのだろう。だが……、
「悪いが私はまだ行けぬ」
「五郎丸、まだ拘ると言うのか!」
「約束をしたのだ。それに、私は未だ住処を追われておらぬ。なに、心配せずとも此処を追われたら直ぐに行くとも」
 以津真天は私の言い分に不満が有るようだったが、それ以上は何も言わずに静かに夕闇の中に消えていった。
 いつまで、いつまで。奴の鳴き声が木々のざわめきと共に池の畔に響く。
 さあ、いつまでだろうな。小さく呟いて池の底へとゆっくり潜る。妖怪の寿命は想像出来ない程長い。だがそれが尽きるまでに奴が来るかは、分からない。

 そしてまた、数えきれぬ程の年月が流れた。
 私の住む池はまだ奪われていない。どうやら人間達は私の池には興味が無いらしい。
 長すぎる年月は私の頭から奴の顔を消し去り、そして名前さえも時折思い出せぬ程にした。
 今日も私は池の岩に座り、夜空を見上げる。今日の月はいつか見た晩のようにとても明るく、美しかった。
 そんな中、背後の藪が激しく揺れる。そしてそこから人間の子どもが顔を覗かせた。昔と違い、今は私達の姿を捉えられる者など居ないに等しい。よって私は子どもに構うことなく空を見上げ続けた。
「オジサン、誰? 何でそんな恰好しているの?」
 しかし子どもは有ろう事か話しかけてきた。何かの間違いだろうと返事をせずに、まじまじと見つめていると、子どもは手に持った灯りで此方を照らしてきた。目が眩むと共に、郷愁の念が胸にじわりと広がる。
「ねぇ、緑のオジサンってば!」
 ──おい、ガタロウ!
 その声は誰かのように不必要に大きく、私の心に暖かい何かをもたらした。
 幻覚だろうか、私を物珍しそうに見つめる子どもの隣に明るく笑う茂吉の顔が浮かんだ。呆然としながらも、私は以津真天がかつて口にしていた事を思い出した。

 人間ってのは、生まれ変わるらしいぞ。儂等が自然から化けたようにな。

 そうか。やっと帰って来たのか。私の口元に長い間忘れていた笑みが浮かぶ。
 姿形は変わってしまったが、奴は確かに帰ってきた。私が待った時間は無駄ではなかったのだ。

「私はガタロウだ」

 名乗るは元の名でなく、友から貰ったあだ名。
 気が遠くなる程の年月を経た再会を、当時と変わらぬ白銀月が優しく照らしていた。

―――
相互お礼として、貴市さんに捧げます。
お互い妖怪好きという事、そして貴市さんが時代物がお好きだという事で作成させて頂きました。
貴市さん、本当にありがとうございます!


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