一つのケーキ
 しんしんと、静かに雪が降ってきた。何故雪の降る音がしんしんと言うのかは分からないが、昔から使う表現なので置いておくとしよう。
 セツは雪の匂いが好きだった。故郷に住む友人に言わせれば雪の匂いは埃と酷似しているらしいが、それでもセツはその匂いが好きだった。
「雪遊びしないのー?」
 雪の匂いというか、雪自体が好きなセツは降り積もった雪に興奮し、一人で一心不乱に雪ウサギを製作していた。
 冷たさで真っ赤になった指先を吐息で温めながら、洞窟内で眠る旅の相棒――イスカに尋ねてみるが、イスカは雪に興味が無いのかセツの言葉に何の反応も示さなかった。
「狼だって犬と同じようなモノなのに……、ちぇっ」
 つれない相棒に不平を漏らしながら、セツは115体目の雪ウサギ作りに取りかかった。
 初めの方に作っておいた雪ウサギは既に降り積もる雪によって埋まっている。
「そういえば毎年この頃になると、家族みんなで甘い焼き菓子を食べたなあ……」
 ふと、今日がその頃だと思い出したセツは雪ウサギを作る手を止めて空を見上げた。
 故郷であるノシドにも繋がっている空は、雪雲に覆われ、お世辞にも綺麗とは言えない天候だった。
 ノシドへと思いを馳せるようにゆっくりとセツは瞼を閉じた。しんしんと真っ白な雪が黒い睫毛に積もる。

 ――冬に一度だけ食べられる甘い焼き菓子……。
 目を閉じたセツは懐かしい記憶の箱をそっと開いた。そこには近いが遠い、もう二度と乗り越える事の出来ない壁の先にいる家族の姿があった。
 毎年、厳しい冬に一度だけ特別なお菓子を食べる習慣がノシドにはあった。
 取っておいたとびっきりの小麦粉に取れたての鶏の卵、それに貴重な砂糖を使って焼き上げ、甘いパンのようになった生地の上に牛から搾っておいた特別に濃い乳と砂糖を混ぜたモノをかける。
 祖父は「そんな宗派に入ってないぞ」と訳の分からない事を言っていたが、それでも焼き菓子を食べた後には極上の笑みを浮かべていた。
 甘いものが苦手なセツだが、不思議な事にこの焼き菓子だけは大好きだった。
「イスカ、ちょっと町に出てくる」
 好物の焼き菓子を思い返したセツは居ても立ってもいられず、財布を手にすると町に飛び出した。
 材料と製造法は分かっている。焼き上げるのも石を積み上げて蒸し焼きにすればできる。混ぜるのも枝を組み合わせたらできるだろう。金も、先日川魚を売った際に受け取った額で足りるだろう。
 そう思ったセツは山一つ越えた先にある町に向けてひたすら足を動かした。

━━━
━━

「店が……開いてない……」
 日暮れ時、ほくほく顔で町へ向かったセツだったが、何の因果か店は一つを除いて全て閉まっていた。
 店の看板には"臨時休業"と書いてあるのだが、文字を読むことができないセツには伝わる事は無い。
 予想外の展開に愕然としたセツは、どういう事を尋ねる為に、そして小麦粉だけでも買えればと、唯一開いている店へと足を踏み入れた。

「いらっしゃい」

 中年の女性の声と共に、店内の暖炉によって温められた空気にセツはマフラーを外しながら、ほっとため息を一つ吐く。
 ため息を吐いた後に店内を見渡したセツは、前に置かれているガラスケースを見て驚きの声を上げた。
「こんな綺麗な菓子……初めて見た」
 セツの目に飛び込んで来たのは、ガラスケースに一つだけ残っているイチゴのショートケーキだった。
 形はノシドの物を八等分にしたものなのだが、生地に生クリームをかけただけのノシドの焼き菓子とは違い、目の前にある焼き菓子には真っ白な生クリームの上に、宝石のような真っ赤な苺がちょこんと乗っていた。
 赤と白、そして黄色が織りなす芸術とでも言える焼き菓子を、セツは見つめる事しか出来なかった。
「ケーキ、一つかい? といってもこれで最後なんだけどね」
「えっ、最後ですか?」
「一つ以上必要かい?」
 店員の声で我に返ったセツはこれまた予想外の展開に慌てて尋ね返した。小麦粉を買いに来たという目的は、すでに焼き菓子を買うという目的にすり代わっている。
「二人分欲しいんですけど……無理ですか?」
 本来イスカの分も焼き菓子を作ろうと考えていたセツは、もう在庫は無いのかと店員に尋ねた。店に出していない時点で答えは分かっているのだが、やはり聞かずにはいられない。
 だが、セツの心配とは裏腹に、店員はにっこりと笑みを浮かべてガラスケースの中から芸術品のような、ケーキと呼ばれる焼き菓子を取り出して小さな箱に入れた。
「あの、二つ欲しいんですが」
「今日はね、昔昔、神話よりずーっと昔に生まれた人の誕生日の前日なんだよ」
 セツの言葉を遮り、大事そうにケーキを小さな箱に入れながら、店員は語りかけるように今日の日の由来を話し始めた。
 元々伝説やそういった類いの話が好きなセツは、疑問しか飛び出さない口を閉じて店員の話に聞き入る。
「はっきりとした文献は残されていないけれど、その人は素晴らしい考えの持ち主だったらしい。回りにいる人を愛せ……だっけね? うろ覚えだから忘れてしまったよ」
 ははは、と元気に笑いながら店員はケーキが入った箱をセツに渡した。戸惑いつつも、お代を支払ったセツに店員は先ほどとは違う、優しい笑みを顔に浮かべて、セツへ諭すように呟いた。
「大事なのは数じゃない。相手を思う心だよ。今までこの時期にはいつもケーキを食べてたのかい? そうだろうね。なら、何故この小麦粉と卵と砂糖で作られた菓子が美味しく感じられたのか、考えてごらん」
「……家族と、好きな人達と一緒に食べたから」
 考える間も無く、ごく自然にセツの口から出た言葉に店員はただ黙って微笑むと、ケーキの入った箱を大事に両手で持ったセツの肩を叩いて早く行くよう促した。
 早く待ち人の元へ行くように、好きな人の元へ行くように。

「ありがとうございました」

 店を出る直前に店員の方へ向けて礼と共に感謝の意を告げたセツは、振り返る事なく走り出した。
 走っても、その手には小さな箱が揺れないよう、大事に抱えられている。
 ――ケーキは半分個にしよう。
 走りながら、セツは心でそう小さく呟いた。
 何故あんな小さな焼き菓子が、ただ焼いた生地の上に生クリームをかけただけの物が美味しく感じられたのか、今になってセツは分かる事ができた。
 今思えば、焼き菓子はそんなに甘くなく、口当たりもパサパサしていてそんなに美味しく無かったような気がする。
 だが、それでも毎年食べたいと思わせるような何かがあった。それは大好きな人達、家族と語らいながら食べていたからだ。
 家族と楽しい一時を過ごす……これがあの焼き菓子を毎年食べたいと思わせる由縁だった。
 小さな謎が解けたセツは息を切らしながら峠を走った。体は疲労感からダルいと叫ぶ、しかしセツの顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。

 ――そうだ、食べる前に明日が誰かの誕生日だという事を教えてあげよう。
 峠を上りきり、下りに差し掛かった時、辺りはすっかり闇に包まれていた。だが雪の光と夜でもはっきりと物を見ることができる目のおかげで不自由は無い。
 サクサクと新たに積もった雪の上を歩くセツは、前方にある何かに気付き、表情を柔らかな笑みから輝かんばかりの笑顔に変えた。
「迎えに来てくれてありがとう。イスカ、一緒に食べよう」
 家族とも言える仲間に駆け寄りながら、セツは大事に持っていた箱をイスカに軽く持ち上げて見せた。
 この日、一つのケーキを一人と一匹で分けあいながら、店員から聞いた話をイスカに語ってみせたセツは寒さで身体は凍えていた。
 しかし心は幸福感に満ち溢れ、気のせいか身体すらも暖かく感じたのだった。


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