波乱の登校日も終わり、やっと夏休みを満喫出来るようになった夏真っ盛り。俺、山田太郎は家で扇風機の風を浴びながら、子どもアニメ大会を見ていた。
しかし、あれだ。最近のアニメ大会は少し面白味に欠ける。昔は色んな年代のアニメを放送していたが、今は二種類しかしない上に、放送時間はたったの一時間。俺達の頃と比べると何ともまぁ味気ない。
そんな事を思ったいつもと何も変わらぬ日だった。千代が初めて神妙な表情で口を開いたのは。
「太郎、借りた物は返さねばならんぞ」
What's?
思い当たる節がありすぎて、俺はソーダアイスをくわえたまま、何故か英語で疑問符を浮かべた。
いや、でも渡辺に借りた漫画はちゃんと終業式に返した。橘に借りたCDも昨日返したし、吉田に借りたAVもちゃんと返した。あれ? 俺全部返してるじゃん。
全て返却済みだった事を思い出すと、俺は千代と話しても問題無い場所へ向かう為、魑魅魍魎の如く兄弟達がひしめき合う居間を抜け出した。そして裏口の花壇の前にしゃがみ込み、咳払いを一つして、
「俺借りたの全部返してるよ。……そりゃAV返すのはちょっと遅れたけどさ」
「えーぶい? なんじゃそれは」
「AVってぇのはな、アダルト……。って馬鹿! とにかく全部返却済みだから!」
うっかり説明しそうになった自分を叱ると、それを自分に向けられた言葉と受け取ったのか、千代は難しい表情で俺を睨み付ける。同時に千代の体はみるみる大きくなり、二十代であろう女性の姿となった。
御姉様になった千代に睨まれる俺……。やだ、ちょっと気持ち良いかもしんない。
「……誰が馬鹿じゃと?」
うっかり目惚れていると、千代が怒りを露に口を開く。あれ? 何か髪の毛浮かび上がってない? 何か変なオーラみたいなの見えるんだけど……そろそろ弁解した方が良いな。
「失礼極まりないわ!っ」
謝罪するより早く、雷鳴のような怒鳴り声と共に大人千代の張り手が俺の頬を襲った。
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「……その、なんだ。すまんかった太郎」
「んー、もう良いよ。何か気持ち良かっ……まぁ気にすんなって」
片方の頬を真っ赤にして自転車を漕ぐ俺の後ろで、落ち着いた千代が心底すまなそうに謝罪をする。その声が妙に緊張していて、俺は不覚にも可愛いだなんて思ってしまった。
強烈な張り手を食らわされた後、俺は妙な快感を覚えながらも何とか誤解を解いた。その後の千代の様子は何ともいじらしかった。顔を朱色に染めると同時に、何やら吃りながら身動ぎしていたその様子は、年上好きには堪らないものがあった。直後には惜しくも元の幼女の姿になってしまったのだが、まぁ目の保養になったのでヨシとしよう。
「それで、どこに行けば良いんだっけ?」
思わずにやける顔を何とか引き締め、この炎天下の中出掛けようと持ち出した千代に目的地を尋ねる。
そういえば、具体的な目的地を聞いていないと今気付いたからだ。
「主、本当に借りた事を覚えていないのか?」
「だから、借りたのは全部返したって。あんまり古いのは覚えてないけどさ。どれ位前に借りたかって分かる? それが分かったら思い出せるかも」
「……うむ、この匂いからするに、大体七二〇の月が巡る年じゃの」
「は? ちょっと待って全く分かんない」
「三六〇の月で年が変わる。それ位自分で計算せい」
二年って言えば直ぐ済むのに。そんな事を考えながら、俺は信号待ちの為に自転車から下りた。
右側には昔良く遊んだ古い神社に続く石段があって、それを見た俺の脳裏にある事柄が浮かんだ。
「二年前って言えば、丁度受験の年だな。うーん、俺何か借りたっけ? 参考書?」
唯一思い当たる節を挙げてみても、イマイチピンと来ない。
そんな時、それまで荷台で大人しく座っていた千代が俺の袖をキツく握り、そして力一杯引き寄せた。
「まだ分からんのか! お前達人間はどうしてそう薄情なのじゃ!? 薄々は感じておったが、此処まで酷いとは思っておらなんだ。わしは、わしは……っ!」
怒りに顔を染めた千代の目に一滴の涙が浮かぶ。それはみるみる内にかさを増し、そしてツウと千代の紅い頬を伝って落ちた。
何故俺は怒られたんだろう? あまりに突発的な千代の行動に頭が追いつかない。ぼんやり突っ立っている内に、千代は服の袖を勢い良く離し、もういいという言葉と共に、神社の階段を駆け上がって行った。
信号が青に変わったのか、セミの声に混じって盲人用の歩行音が鳴り響く。けれど俺は動く事もせず、ただ阿呆のように突っ立っていた。
頭にあるのは戸惑いと驚き、そして小さな怒りに、大きな罪悪感であった。
「兄ちゃん、真ん中で突っ立つと邪魔だぜー」
小学生に忠告を受け、俺は力無く自転車を道の脇に避けた。
──お前達人間はどうしてそう薄情なのじゃ!
おばちゃんが漕ぐ自転車に片足を轢かれても、やっぱり頭を支配するのは千代の言葉と、あの怒りと涙に染まった顔。
ここで俺はようやく自分が千代に対して、何かとても失礼な事をしたんじゃないかと気付いた。同時に俺の足は長い石段へと走り出す。
「太郎?」
岡田の声が聞こえたような気がしたが、俺は振り向きもせずひたすら階段を登り続けた。千代に謝罪の言葉を届け、そして怒った真の理由を聞くために。
「千代、どうしたんだ? いきなり」
千代は小さな神社の境内の裏で、ちょこんと座り込んでいた。
その姿はいつもと違い半透明で、前にある木が透けて見えていた。それが千代の心を傷付けた何よりの証のような気がして、俺はチクリと心が痛んだ。
「悪かった。俺の何かが千代を傷付けたんだな」
「もう良い。もう、よいのだ」
背を向けたまま、千代は鼻をすすって俺の言葉を拒んだ。その姿は悲壮感丸出しで、どう考えても良いようには見えない。
溜め息を一つ吐いて千代と背中合わせになるよう腰を下ろす。目の端で、千代の肩が揺れるのが見えた。
「千代が言いたくないのなら良い。でもさ、やっぱり理由位聞かせて欲しい。俺馬鹿だから千代が怒っている理由も、借りた物も分からない。だけどさ、だからこそ知りたいんだ。今後、誰かにそんな思いさせたくないから」
聞いているのかいないのか。千代からの返事は無い。
まぁ言いたい事は言えたからいいか。そう結論付けると、先帰っているから。とだけ言い残し、俺は神社を後にしようとした。
「主が返しておらぬのは目に見える物ではない。感謝の思いじゃ」
立ち上がろうとしたまさにその時。それまで頑なに口を閉ざしていた千代が口を開いた。
予想外の借り物に固まる俺を他所に千代は「独り言だと思って聞いてくれ」と、ポツリポツリと話し始めた。
人間は何か困った事があれば神に頼む。それは何も悪い事ではない。神を信じる心は神の力になるのだから。よって神も人間に力を貸してやる。僅かな、助けになる程の力ではあるが。
力を授かり、願いを果たした人間は神に借りた力を返すと共に、感謝の意を携えて礼に参る。それを神は力を貸した見返りとして受けとる。そして純粋な感謝の思いは更なる神の力となる。
しかし、最近願いを果たした人間はそれだけで満足し、神に感謝の思いを返さぬようになってきた。酷い者は神に頼った事を忘れ、全て自分の力だと振る舞うようになる。
しかしいくら神とて分け与える力には限界がある。やがて力が無くなった神は力を返さぬ者から力を取り返しに行く。
力を奪われた者はたて続きに不幸に見舞われる。それまで順風満帆だった者がいきなり不幸に見舞われたりするのはそれの良い例だ。
「そっか……そう言えば俺、受験で祈願に行ったきり何もしていない。返していないって、そう言う意味か」
ごめんな。もう一度謝罪をすると、わしに謝ってどうする。と注意された。ごもっとも。
願いを叶えてもらった礼なんて、考えた事もなかった。俺達はいつの間にか、神に願う事はあってもそれを感謝する事を忘れていた。分かりやすい例えで言うと、塩を取ってと頼まれて取ったのに、それを礼も無しに奪い取ったという所か。うん、それはあまりに礼儀がないな。
しかし、千代はそれだけに怒っているようではなかった。
「何か、あったのか?」
尋ねてみるも、千代から返って来るのは「別に」という素っ気ない言葉。ミニエリカ様降臨と言った所だろうか。
そんな俺の考えを余所に、今まで座り込んでいた千代は突然立ち上がり、俺の前で立ち止まる。千代の小さな背が、俺の視界を埋め尽くす。
「……返さぬ者が不幸になるのは、自業自得。当然の事じゃ。しかし、中には人を愛するあまり力を取り返さず、邪神となる神がいるのだ。そして後世の人間は原因を知ろうともせず、ただ邪神となった神を邪見に扱う。わしはそれが悔しゅうてたまらんのじゃ」
背を向けている為千代の表情は分からない。けれど、何となく泣いているような気がして、俺は胸を締め付けられるような感覚に襲われた。
出来る事なら千代の頭を撫でて、泣くなと言ってやりたい。けれど、千代を悲しませている理由は俺にも有る。そんな俺は千代に慰めの言葉を送る資格等無いのだ。
今、俺に出来る事は……。
「千代、お礼を伝えに行くのに付き合ってくれるか?」
借りた恩義を返す事。きっとそれが千代にとって一番嬉しい事なのだから。
「ああ。全く仕方がないな、太郎は」
──17の夏の夕暮れ。
俺は今まで自分が神に対して、礼儀も何も無かった事を知った。