主夫になりました2

 「………」

 目を開くと、今度は正確に色彩を捉えた。白、茶色、緑…そうだ、ここは、自分の寝室だ。見るともなしに部屋を眺める。
この家の家具は、彼と一緒に住むことになったときに二人で買ったものだ。俺はインテリアに疎く、ほとんど彼が選んでくれたのだけれど。彼のイメージカラーだという緑は、ここのカーテンやリビングのラグやクッションに反映された。それがいとおしく、穏やかな気持ちにさせた。
その彼のカーテンがそよぐと、その先の窓が見える。その先は綺麗に晴れていた。そこからは雲も見当たらない。そう、晴……れ?

 「っ!!っ!」

今何時だと首を横に振って、時計を確認する。2時…晴れ、電波時計はPMを示していた。か、会社!!会社!遅刻どころじゃない!!

 「起きた?って、ちょ、おい!」
 「っ!っ!」

大急ぎでスーツに着替えていたところに、何故かまだいた彼がやってきた。それなら今日何曜日?水曜!やっぱり休みじゃない!そもそも俺に休みなんかない!!もう恐ろしくて恐ろしくて号泣しながら震える指でボタンを止める。彼がその手に手を重ねる。その手も震えていた。

 「もういい。」
 「っ、ひ、ひぃ」
 「もういいんだ。」

俺は意味もなく号泣しながら、彼が心底悲しそうな顔をしたのを見つめていた。
その瞬間に、全て壊れた。
俺の守ってきたもの、強がっていたもの、はりつめていたもの、ちっぽけな全て。跡形もなく。
床に崩れ落ちる。俺は全て失って、全て壊した。彼は彼は俺をどう見てるのだろうか。あの心配そうな声音と顔が見える。かたかたと震えながら、フローリングの線を見ていた。



 「今まで本当お疲れ様。これからは俺の為に、仕事、やめてくれないか。」
 「…っ!」

ずっと強制する訳じゃないけどと断って出てきた彼の言葉。それはもう唐突だった。今は雑音にはならなかったが、理解は出来なかった。彼の為に、仕事をやめる?本当は欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、欲しくて欲しくなかった、やめる、という言葉。意味が理解出来ず視線を落とした俺の顔を彼が掴む。

 「俺は帰ってきたら、おかえりって言ってくれて、ご飯温め直してくれて、お味噌汁にはじゃがいもいれてくれて、お給料日にはいいワイン開けてくれて、天気がいい日には一緒に散歩したりしてくれて、ああなんだろ。そういう人探してんだ。」
 「う、うん…」

俺の額に額を合わせながら、俺の首の後ろを擦りながら彼は語りかける。どうしてだろう、久しぶりに彼と話すみたいだ、久しぶりに見るみたいだ。彼はこんな声だったろうか、こんな顔だったろうか、そうだ、俺をいつも奮い立てていた、脅かしていた、彼だ。
どうしてそれがこんなに久しぶりなんだろう。一緒に暮らしていたのに。彼の頬の曲線を見つめる。ああ、久しぶりに見る彼は、いとおしかった。全て死んだ心の中で、それだけがまだ息ずいていた。いとおしい、そう思う自分のその部分だけは愛せる気がする。全て全て壊れて、それだけが結局残った。彼だけはそばにいた。

 「だから、俺の為に仕事やめて、…俺のお嫁さんになってください。」

彼はそう、俺の左手をとって、薬指にキスをした。
…なんてキザなんだろう、そう言ってからかってやりたかった。俺のキャラクターはそういうやつだった。しかし俺は鼻水垂らしながら「あーあー」言いながら咽び泣いた。
嬉しかったんだ。俺を必要としてくれたことに。俺を選んでくれたことに。俺のちっぽけなプライドも、卑屈な気持ちも、彼への臆病さも全部彼は許してくれた。壊してくれた。何よりそれが嬉しくて仕方なかった。彼が許してくれるなら、俺はそんなもの簡単に捨てられるのだから。
俺を縛る荷物が外れる、俺は彼に救われたのだ。心の生きていない部分も硬化した皮を剥がそうと脈を打つ。俺は泣きながら抱きついた。

 「ごべんなざいい…」
 「え、俺フラレた!?」
 「ごべんなざいい、おれ、おれ、ひとりでごちゃごちゃになっで、おれ、カッコ悪いとこ正紀に見せたくなくて、嫌われたくなくて、くやじぐて、でも」
 「うん、うん。」
 「そんな、なんで、こんな俺を許しでくれるんだ?ぐすっ、こんなクズな、クズになった、俺を好きでいてくれるのか?」

こんなにみっともないことになったのは、彼と付き合ってから初めてだ。全ての思いの丈と、若干の言い訳と逃げ腰とを混ぜた、それはそれは女々しい言葉ばかり溢れる。
俺はこんなにも彼に嫌われたくないと言い訳ばかりで、失いたくないと逃げ腰ばかりだったか。あーなんてクズだ。クズだクズだと叫ぶ俺に、彼は寂しそうに笑った。

 「文則は何も変わってない。俺がキツいときは何も言わずに家事当番変わってくれるし、自分がキツくても俺には気を遣ってくれたろ?文則は優しいまんまだ。」
 「うっ、うう…それでも、それでも、俺は、俺は、男だから、正紀が好きだから、正紀の荷物に、荷物にはなりたくない…。」

もし俺が女ならそれもまた可能性としてあったろう。でも俺は男で、簡単にそこには収まれない。そういうのを、お荷物、以外に言いようがない。俺はまだ鈍る思考の中で、ようやく彼の幸福も考え出したようだ。そうすると俺は辛くて仕方なくなる。
彼は俺の頬に手を当て、怒ったように話し出す。どうしてだ、その目元は赤かった。

 「俺、どうやってあんだけの激務に耐えてると思う?帰ったら文則がいるって思ってやってんだよ。文則も同じだったろ?」
 「ふ、ふ、う、うん…」
 「だから間違っても荷物だなんて言うな。落ち着いたら専業主夫になればいい。文則の新しい仕事だ。」

体が震える。ああ…。こんなこと言ってくれる人は、今後一生現れないだろう。彼は、俺を、この俺をパートナーに選んでくれた。俺は、そのどうしようもない嬉しさを表現する方法がない。この心臓の高鳴りは、言葉にしたらそれだけだが、確かにその全身を走るような衝撃を示していた。
全ての疑問や不安が消えた訳ではない。それでもその時、俺の鈍る心を動かしたのはその衝撃が全てだった。それ以外に、考えられなくなってしまった。なんて幸福な瞬間だったんだろう。
俺は頬に置かれた彼の手に手を重ねる。

 「ごめん、本当、ごめん、」
 「それより返事が聞きたい。」

俺は、俺は、どうしようもなくて、正紀のお荷物になってしまうかもしれない、

 「……っ、ふ、不束な、俺ですが…よろしく、お願いします…。」

それでも、一緒にいたい。この衝動以外に考えられない。

絞り出すよう伝えると、彼はやっといつものように笑った。それでもその目から涙がぽろりと落ちた。泣いてる、それを見て俺もまたしても涙が止まらなくなった。

 「うん。俺も不束な俺ですが、っ、病めるとき健やかなとき、お嫁さんを愛します。」
 「うっ、うう、俺も旦那さんを、愛します…っ」

神父も指輪もない。ドレスもバージンロードもない。誓いのキスはしょっぱい。
それでも確かに俺達は結婚しました。


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