15:予測した変化



かつて、こんなにも恋人の家に向かうことを躊躇ったことがあっただろうか。
意を決して向き合わなければならない問題を前に、健司の顔を想像しただけで身震いがしてしまうくらい余裕もなく、激しく緊張をしていた。

以前は、彼の自宅のある最寄り駅へ降り立つだけであんなにも胸が高鳴って、私の目には輝かしく見えたよく見慣れた街並みも、今日ばかりは少し様子が異なって映ってしまう。
心境の変化によって、これほどまでに顕著に変化が表れてしまうなんて、私は途端に怖くなった。
このまま健司の家に行かなければどうなるだろう――ふと、そんな弱気な気持ちが胸の内を掠めて、無意識に足が止まった。
けれど、ここまで来てそんなことは出来ない。無理やりにでもそう思い直して、再び歩みを再開させる。その小さな一歩が私にとっては、間違いなくかけがえのない一歩で、自分で変わらなくちゃと決めた意思表示。
大きな不安に飲み込まれて逃げ出した気持ちをどうにか制御しながら、歩みを止めないように目指す恋人の家まではあと少し。

部活を終わらせてからすぐに、『今から行くね』と、健司にはメールを送っておいた。すると、ちょうど彼の最寄り駅の改札を抜けたところで、携帯電話のメール通知音が鳴った。

遅くなって悪い。もう家にいるからいつでも

相変わらず簡素的な文章。
この文章からは、彼がどんな心持ちのまま家で私の到着を待っているのか図り知ることは出来ない。
昨夜の電話でのやりとり。察しの良い彼が何かを感じ取っていることは間違いないように思う。だからこそ怖い。何を言われてしまうのか、私が告げようとしている言葉を受けて、どんな反応を見せるのか……それを目の当たりにするのがとても怖くて仕方がない。

私は少し立ち止まって健司からの返信を確認した後、不安を押し隠すようにそっと携帯電話をスカートのポケットに仕舞い込んで、再び歩き出した。


道中はどうやって話を切り出すのが良いのか、そればかりを考えていた。けれど、上手いやり方なんて私に到底出来るはずもないし、小細工を重ねたところですぐに本質を見極めてしまう健司の前では全てのが無意味のような気がして、しばらくして考えるのを止めた。
目の前に広がる立派な一軒家。その玄関の脇に備え付けられているインターホンのボタンをそっと押し込む。指が震えた。どくんどくんと大きな拍動を抑えることが出来ない。
インターホンの呼び鈴が鳴るとすぐに玄関の扉が開かれ、いつもと変わらない笑顔で出迎えてくれた健司の表情を見て、とりあえずは少しだけ安堵する。
この家にやってくるのは、あの夜以来のことだ。そして、彼とこうしてちゃんと顔を合わせるのも、翔陽高校が敗退してしまった、あの試合会場で会った以来。

「おぉ、思ったよりも早かったな」

「……あ、そう?」

今までと変わらない健司の態度を見て、ホッとする反面、正直戸惑ってしまう。私ばかりがいろんなことを気にして、あれこれと考え込んでしまっているのかと、そんな風にも感じてしまうからだ。
健司が何を考えているのかが全く読めない。それを察するだけの情報もなければ、何よりも私たちは一緒に居る時間が極めて少な過ぎるということなのだろう。
あの夜、健司の本心に触れて拒絶されてからというもの、私は一体どんな顔をして目の前のこの人に向き合えば良いのかが解らなくなっていた。

「とりあえず、突っ立ってないで入れば?」

促してくれた健司に従って、玄関の内側に足を踏み入れた。
私の背後でガチャンと控えめに閉まった扉の音と施錠音に、いよいよ逃げられないと腹を括る。
ざわざわと落ち着かない。喉の奥がきゅっと狭まるような息苦しさを感じる感覚。これから迎えるであろう場面を想像して、私は唇を強く結んだ。

それから階段を登り、健司の自室へ迎え入れられると、相変わらず整理されてさっぱりとした室内。
健司はベッドの縁に座り、私は床に置いてあったクッションの上へそっと腰を下ろした。
互いに少しだけ距離を保ったまま、無言で向かい合う。


「久しぶり……というか、ここにお前が来ることが久々だよな」

「そう、だね。会場では会ったね。相変わらず翔陽メンバーはみんな身長が高くて圧倒されたよ」

「そうか?あー……まぁ確かに今年の海南は高さはそうでもないか。けど、逆にデカいと目立って仕方ねぇし、あいつらと一緒に居ると俺の低さが際立つから腹立つんだよな」

ははっ、と相変わらず綺麗な笑顔を向けて話をする健司に、私も釣られて愛想笑いを零す。
頭の中では、楽しく会話を楽しむ余裕が全くなくて、自分からここへ赴いた本来の目的である言葉をいつ切り出そうかと、そのことばかりだった。
当然、その雰囲気を健司も感じているだろう。その証拠にそこから会話も続かず、すぐに沈黙が訪れる。


「……」
「……」

互いに黙り込む。

(どうしよう……どう切り出せばいい……?)

しんと静まり返る無言の空間。二人共が様子を伺い、どちらから会話を切り出すのかを探っている。
部屋の掛け時計の秒針の小さな音ですら、今は耳障りに感じるほどだった。急かされているような、そんな気さえした。
時間にして数秒間の沈黙の後、いよいよ痺れを切らしたように低く呟くように先に言葉を紡ぎ出したのは、健司の方だった。

「……俺のこと、嫌になったか?」

俯いたままだった顔をハッと持ち上げて彼の方へと視線を向けると、彼は苦笑に似た笑みを浮かべていた。彼のそんな苦しそうな笑顔を見たの初めてのことで、胸が潰されそうな想いがする。そんな顔をさせてしまったのは、紛れもなく私が原因だ。急に居た堪れなくなり、申し訳なさも感じながら、慌てて否定の言葉を吐き出した。

「ち、違う、そうじゃない」

それだけしか言えない。気の利いたことなど言えるはずもない。
けれど、その気持ちに嘘偽りはない。紛れもなく私の本心。
健司が悪いわけじゃない。だって健司の在り方は最初から何も変わっていなくて、変わってしまったのは私の方だ。欲を出して、もっとと先を望んでしまったのは、私だから――。

「好きなままだよ、健司のこと……」

「なら、お前はどうしてそんなに泣きそうな顔してんだよ」

「……ごめ……」

「どうして謝る?」

思わず咄嗟に謝罪の言葉が口を衝いて出てきた。
健司の問いかけに上手く答えることが出来ない。
いよいよ、自分の言葉で告げなくてはいけない。このままの関係性ではいられないと、こんな状態のまま隣に寄り添うことは出来ないと――。
なのに、またも自分の弱さが土壇場で露呈してしまう結果になってしまった。

「……あ、あの……あのね……しばらく距離を、置きたいって、今日はね、それを言いに来たの」

「……距離?」

「ほ、ほら!これからちょっと忙しくなると思うし、その……」

「……距離を置いたからって、何か変わるのか?」

「え……」

「いや、悪い。分かった、良いよ。静にとって今はその方が良いって言うんなら、俺はそれでも良い」

言い訳がましい言い方をして誤魔化すことしか出来なかった。私を真っすぐに見据える健司の視線が刺さって痛くて、淡々と切り返す彼の言葉に上手く切り返すことも出来ない。
私の申し出に了承してくれた健司の言葉を受けても尚、私は何も言えないままだった。


「全国、か……頑張って来いよ?俺らは行けないけど、応援はしてる。悔しいけどな、正直。牧にもそう伝えておいてくれ。俺ら冬まで残るからって」

「ん……」

「静、こっち」

私の方へそっと伸ばされた健司の腕。その掌へ自らの手を軽く重ねると、そのまま掴まれて彼の座るベッドへと引き上げられた。そして、何の躊躇いもなく抱きしめられる。
私の肩に顔を埋めるようにした健司のサラサラとした色素の薄い茶色の髪が頬に触れる。
こうして触れ合うこと自体がとても久しぶりで、大好きな彼の匂いに包まれて嬉しいと感じる反面、大きな罪悪感に襲われた。

健司の事は好きなんだよ。けれど――。

自分の中にひしめき合う感情に、もう見て見ぬ振りが出来ないところまで来ていて、それをはっきりと自覚してしまった以上、同じように健司の身体を抱きしめ返すことがどうしても出来なかった。
こんな大事な場面で、距離を置こうなどと中途半端なことしか言えない自分の弱さを更に自覚する。
しっかり誠意を見せるべきならば、はっきりと別れを告げるべきだったかもしれない。
けれどその勇気はなくて、わざとらしい口実まで使って、言い訳までして……私は健司を失う寂しさときちんと向き合えなかった。

私は、ずるい。
きっと、神と居ても健司と居ても、私はこの罪悪感と不安定さからは抜け出せない。
結局、自分が傷付くのを一番怖がって、彼らの気持ちを蔑ろにしてるのと一緒ではないのか。
考えれば考えるほど、自分自身のことを嫌いになりそうだ。

ふいに、私を抱きしめていた健司が私の顔をそっと覗き込む。
大きな瞳が全てを見透かしていそうで怖い。彼の顔が傾き、唇が触れそうになった時、どきりと大きく動揺してしまう。
胸の高鳴りとは違う、焦りのそれ。
私は一体、どういう顔をしてそれを受け入れれば良いのだろうか。
そんなことを考えていると、唇が触れる寸でのところで、健司が囁くように小さく呟いた。

「また、なに泣きそうな顔してんだよ、別にこれっきりってわけでもないだろ?」

「……」

こんな時に。こんな私に。優しくしないで。

軽めに触れるだけの優しいキスが、今の私にとってはこの上なく痛かった。


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