「ああ、ちょっと待て、静」

全体練習が全て終わり、諸々の後片付けも終わらせてから更衣室へと着替えに行こうとしたところで、少し離れた場所から自主練中の牧さんに呼び止められた。

「一緒に帰らないか?俺ももうあがる」

結局、神とは気まずいまま。変な空気を全く払拭することは出来ないままだった。
別に約束をしている訳ではないけれど、自主練後はいつも帰る方角が一緒の神と帰宅することが恒例になっていて、今日はどうしたものかと思っていただけに、この牧さんの申し出にはほんの少しだけ救われた気がした。

ただ、牧さんがこうして改まって一緒に帰りたいなどと言い出す理由ははっきりとしなくて、ミーティングの一件もあり、少し心に引っ掛かるものはあるものの、私は牧さんの申し出を受けることにした。

「早く帰る準備してきてくださいね?早くしないと私、先に帰っちゃいますからね!」

「そんなに急かすなよ」

「早く!早く!本当に帰っちゃいますよ!」

「ははっ、分かった、分かった」

そんな風に急かしても、牧さんの足取りはゆっくりで、全く急ぐ様子を見せない。
子供を宥めるような笑みを浮かべながら、バッシュとタオルを肩に持ち、部室の方向へと歩いてゆく。私はその後ろ姿を見送ると、自らも更衣室へと着替えの為に向かった。

帰宅の準備が全て整った後、牧さんと落ち合う為に部室へと向かう。そして入り口付近で牧さんが出てくるのを待つこと数分、体育館の方から神と清田が二人で並び歩きながらこちらに向かってくる姿が遠目から分かった。

思わず身体が強張り、瞬時に隠れられそうな場所を無意識に探してしまうけれど、そんな場所はどこにも存在しない。諦めてその場に佇むも、神宗一郎の姿を見ただけで、嫌な胸騒ぎが全身を覆う。
別に神を避けたいわけでもない。嫌いなわけでもない。けれど、やはりあの独特な雰囲気には慣れない。

早くも後悔していた。
こんなことなら、別の場所で牧さんを待っていれば良かった。
あれこれ考えているうちに、彼らはどんどんこちらに迫ってくる。きっと向こうからも私の姿は目視出来ていることだろう。
私の意識は、完全に神宗一郎へと向いていた。

「あれ?静さん、もう帰ったんじゃなかったんスか?」

「あ……うん。牧さん待ってる」

2、3メートル離れた位置から、清田が陽気に私に問う。
けれど、清田の隣を歩く神は、私の存在など初めからそこには無いかのように一瞥もくれず、そのまま黙って部室の中へと入っていった。
目の前を何も言わずに通り過ぎた神の横顔。その冷めた様子に、私は息を呑んだ。緊張感と気まずさが私を雁字搦めにする。

「静さん?……静さんっ!」

「え、あ……なに?」

意識を完全に神に持っていかれていたせいで、清田に呼ばれていることに初めは気が付かなかった。
 
「……いや、今日の神さん、機嫌悪くないっスか?おっかなくて……あんな神さん、久々かも」

「そう、みたいだね」

「やきもちっスかね?昼間の」

「……ん?なにそれ」

「いや、だから、俺的に思うんスけど、牧さんが静さんに告白したのが気に入らなかったんじゃないかと……」

「え、いや……ないない!それはないでしょ!」

なかなかに鋭い清田の指摘に、一瞬ひやりとしたが、それを悟られないように作り笑いで誤魔化すよう努めた。
自分の抱えたいざこざのせいで、周りの部員たちにまでに迷惑をかけるなんてことが本当に嫌だった。後輩にまで気を遣わせるなんて、申し訳がなくて仕方がない。
やっぱりあんな風に周りをも巻き込んで不機嫌を惜しみなく発揮する神のやり方には、納得がいかない。けれど、それを指摘したとしても、彼は私と向き合うことをさっきみたいに拒否してしまう。

それになんの意味があるのか……。
「気に食わない」と言った神だったが、一体どうしたら『気に入る』のかも分からない。
神には皆が振り回されている。
その原因が私だとしても、私だって、どうしたら良いのか解らないんだ。

「そうッスかね?絶対それが原因だと思うんスけど」と、尚も折れない清田に向かって、私はやっぱり愛想笑いを浮かべることしか出来なかった。


「ああ、静、ここに居たのか」

これ以上に神の話が膨らまないことを願っていると、おもむろに部室の出入り口の扉が開いて、中から制服姿の牧さんが姿を見せた。
その姿にまたも救われる思いがして、ホッと安堵する。

「清田、お前何してんだ」

「いや、あの……何もしてない!何も!」

清田へ厳しい視線を向ける牧さん。その姿を見た清田は、ぐっと黙り込んでそのまま逃げるように部室内へと逃げ入った。
その様子がなんだか可笑しくて、思わず小さく笑い声が漏れ出てしまう。

「ふふっ、牧さんも、もう少し清田に優しくしてあげたらいいのに」

「何を、俺はいつも優しいだろ?」

「あ!今、解りやすい嘘吐いた」

「ははっ、何のことだ」

「あ、誤魔化した」

いつも通りの他愛のない会話が、こんなにも心地良いのかと今日ほど身に沁みて実感したことはない。
牧さんのこの緩さは、時に面倒臭いことも多いけれど、本当はとても良い長所なのだろうと思う。彼のこの包み込むような優しさは、もう何度も私を救ってくれた。

厳しい海南バスケ部の練習においても、牧さんが主将だったから、私もマネージャーとしてこうして続けてこれたとも思うし、大泣きしながらファミレスに呼び出した時もそう。息を切らしながら迷わず私の元へと走って来てくれた頼りになる先輩だ。
けれど、その時から既に自分に対して特別な感情を持っていたのかもしれないと思うと、ひどく胸が痛んだ。その時は何も気が付いていなかったとは言え、私は牧さんのその優しさを利用してしまったのではないだろうか。

「今日は……悪かったな」

「もう良いです、さっきも聞きましたし……」

「いや……流石に言われたよ。お前が行った後、宮と高砂にな。そういうのは、こんなところで言うもんじゃねぇだろう、ってな」

「さすが!同じ先輩でも違うな〜」

「ハハッ、本当にな。けどな――」

そこで、牧さんの口調が一気に纏う雰囲気を一変させた。冗談を言っていたものとは全く打って変わって、口ぶりこそ柔らかいのに、粛々とした雰囲気が伝わってきて身が引き締まる思いがした。
私も冗談を言う口を噤んで、そのまま黙って牧さんの言葉に耳を傾ける。

「あれは俺の本心だ……と言っても、別に静を困らせるつもりもなくてな。お前は藤真が大事なんだろうし、要するに、だな……静は俺にとって特別だという事だな、可愛い可愛い後輩だ」

「……」

「だから、静が俺の言った事で気に病むことはない。俺の言葉は頭の片隅にでも置いておいてくれれば良い。んー……そうだな、困った時は俺を頼ってくれても良い、そんなに思いつめることをするな」


語り掛けるように、そっと言葉を紡ぐ牧さん。彼の男らしい低い声。いつもは練習中に部員たちを叱咤する声色や、厳しいことすらもきっぱりと言い切り、主将としての威厳そのものの象徴かのような存在。けれど、怖そうかと思ったら、たまに抜けていて周りをシンと静まり返させるほどの天然ぶりを発揮することすらも多々ある。
けれど、今の牧さんは、そのどれにも当てはまらない姿だった。
一人の男性として、そして先輩として、私に真剣に向き合ってくれている。そして、私を困らせないように、傷つかないように、気を使い、言葉を選んでそう言ってくれているのがひしひしと伝わる。彼の最大級の優しさに触れたら、なんだか泣きそうになってしまった。

牧さんの顔を見ることが出来ない。彼がどんな表情でこの言葉を紡いでいるのか、直視することが出来ない。
見てしまったら、きっと堪らなくなって泣いてしまうから。
この状況で私が泣くなんて、絶対にあってはならない。だって、どう転んでも、牧さんのこの強い想いには応えられないのだから――。

私は俯いたままに、そっと口を開いた。

「牧さん……?」

「ん?」

「ありがとうございます、色々……」

「あぁ」

「……試合、頑張りましょうね」

「あぁ」

「……牧さ、んっ!ごめんなさい……っ。いろいろ……ごめ……っ」

「……いや、良いんだ。俺の方こそ、悪かったな」

こんな所で泣くなんて卑怯だと思って堪えていた涙は、結局、最後の最後で一筋零れてしまった。
牧さんにはバレないように堪えてみたものの、その努力は何の功も奏さず、私の震える声に気付いたであろう彼は、大きな掌で私の頭頂部へぽんぽんと、そっと二度触れる。
その大きな掌が、とても優しくて、またぎゅっと胸が押し潰されそうになった。

こんな風に優しくなんかしなくても良いのに。
甘やかさなくても良いのに。

どうしようもないことだと解ってはいても、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。私は俯いたままで、どうしても最後まで牧さんの顔を見ることが出来なかった。
じわじわと瞼に浮かんでくる雫を、拭うことも止めることも出来なくて、私はひたすらに声を押し殺した。


「俺は、静に泣かれるのが一番困る……だから、泣くな」

「痛っ!!!……え?ちょ、なにこれ。いったぁ!!」

「ハハッ!そんな力入れてないぞ?」

突然、私の背中にバシンと大きな痛みが走る。牧さんの掌が背中を強く叩き、その反動で思わず涙も引っ込むほどの衝撃だった。
その反動で牧さんの顔を見上げると、ものすごく穏やかで優しい表情を私に向けている。思わず、息を呑んだ。

彼の表情を見た途端、あらゆるものを悟る。
あまりにも優しく穏やかな表情。その表情を、鮮やかな夕日が照らし、思わず見とれてしまう程だった。
全てが私の為だということ。言葉に出さなくても、その想いは伝わる。こんな表情をさせているのが自分自身だということ。そして、その強い特別な想いを受け入れられないという事実。
牧さんが背負って伝えてくれたものを、今度は私が受け取って背負う番だ。想いには応えられなくとも――。

「もう、泣くな。悪いと思わなくて良いんだ」

「牧さんの事、好きです……先輩として、だけど」

「あぁ、それでいい。それで十分だ」

晴れやかな顔を見せた牧さんは、私に向かって微笑むとそのまま少しだけ先行して歩き始める。
夕日が眩しく照らすその大きな背を見つめて、私も追随するようにそっと足を踏み出した。こんなに頼りがいのある背を私は知らない。口ではあんな風に悪態をついて、いろいろ言っては来たけど、本当は誰よりも頼りがいのある人だと思っているよ。

けれど、甘えてばかりはいられない。
この大きな背中に甘えて、誤魔化し、蔑ろにするのは絶対に違う。彼がこうして覚悟を持って私に伝えてくれた想いを受け取ったからには、私も自身で立ち向かっていかなくてはいけない。向き合うのは自分自身。
不甲斐ないままの自分はもう止めなくちゃ。

牧さんの姿を見つめながら、私は身の引き締まる思いがした。
このままじゃ、いられない。
自分の気持ちから、逃げない強さ。今の私には、それが一番必要なことだ。
それが、どんな結果を生もうと――私には、それをありのまま受け入れる義務がある。


(2020.8.29 Revised)



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