愛しい恋人――藤真健司からの誘いのメールを受け取って以降は、なんだか全てが駆け足で過ぎてゆく感覚がした。授業も部活の練習も、早く終わらないかとそわそわしながら、ただ時間が早く過ぎ去ることだけを祈って。
部活の練習後も前回の痛い経験を教訓にして、何かを突っ込まれて訊かれるよりも先に、全ての業務を滞りなく終わらせた。そして、逃げ帰るように体育館を後にするタイミングで、牧さんへと大きくはっきりと宣言してやる。

「牧さん!今日私に電話をしてきたらどうなるか解ってますか?」

「何なんだ一体、どうなる?」

「もし今夜も電話してきて邪魔したら、絶交ですから」

「絶交……またそれは穏やかじゃないな」

「冗談じゃなく、本気だから」

初めこそ私の言葉を聞きながら、少し可笑しそうに顔を緩ませていた牧さんだったが、私がピクリとも笑みを見せず淡々と言い捨てる様を見て、次第に笑みが消えていった。
最終的に絶交という単語を明言すると、ようやく牧さんは私の要望を受け入れたようだった。
前回の総シカトが上手く作用したのだろうか。それだけでも前回の失敗が報われるというものだ。

こうして、無事に学校を後にすることが出来た私は、健司に逢えるのがやっぱりすごく嬉しくて、無意識に歩く速度がどんどんと上がり、駅に着くころにはほぼ駆け足状態になっていた。
一分一秒でも彼の元に早く辿り着きたくて、少し息切れがする苦しささえ心地よく感じられる程だ。

もう何度も通い慣れた道のりを辿り、彼の自宅へと辿り着くと、大きく深呼吸を一つ施してから指先でインターホンを鳴らす。すると、すぐに翔陽のグリーンカラーが基調となった制服を身に纏った健司が、玄関の扉を開けて笑顔で出迎えてくれた。
その瞬間に、すべてが報われた。私はこの笑顔が堪らなく見たかったんだ。

「思ったよりも早かったな。俺もちょうど今帰って来たところでさ、間に合って良かったよ」

「……うん、急いで来ちゃった」

「ふぅん?そんなに俺に逢いたかった?」

「……うん、そうかも」

玄関先で交わす会話。素直に零した私の返答を聞いた健司が、少し驚いた表情を露わにしたものの、そのままふっと微笑み、首を傾けて、軽めの口付けを私に落とした。
ふわっと鼻孔をくすぐる彼の香り。不覚にも一瞬、泣きそうになってしまった。たった一つのキスで、私は彼の恋人なのだと、改めて実感が沸く。彼の柔らかく優しいキスを受け入れながら、瞳をそっと閉じた。
嬉しくて、愛おしくて、好きで好きで堪らない。

目の前の愛おしい彼が友人と楽しむ姿を街で見かけ、ファミレスで大泣きしてから以降も、一度も連絡を取り合っていなければ、もちろん顔を合わせることもなかった。逢いたくて逢いたくて堪らなくて、でもずっと我慢して……長期の『待て』を経て、今、私はここに居る。
大好きで堪らない彼に触れて、私の心は間違いなく歓喜で震えていた。そんな私を健司はそっと抱きしめてくれた。
しかし、こんな玄関先でこんな風に触れ合うなど、今までのことを思い返してみても、初めてのことかもしれない。彼の珍しい行動に嬉しい反面、ふと疑問が脳裏を過った。

「どうしたの?なにか、あった?」

「なにが?彼女にキスして抱きしめるのに理由がいる?」

「いや……そういう訳じゃないけど……」

「たまにはな。ほら、久しぶりだし?」

屈託のない綺麗な笑顔で笑いかける彼は、少しだけお道化た口調で言う。その眩しいばかりの姿に、胸が締め付けられるほどの愛おしさを感じていた。
健司は再度、私をふわりと抱き締めた。頭頂部に微かな重みを感じ、彼がそっと顎を乗せているのがわかる。そのまま、ゆらゆらと緩やかに揺れながら、「俺だって逢いたかったんだぜ?」と、そっと呟いた。

それから、私の両頬を大きな手のひらで優しく挟み込むと、顔を至近距離にまで近付けた。
彼の明るめの茶色いの瞳から目を逸らせない。吸い込まれるような色香と魅力。
優しいキスが、再び私の唇へと触れた。


*


「なぁ、牧にはちゃんと言ってきた?邪魔するなよ、って」

「当たり前でしょ」

玄関から直ぐに移動して、健司の自室へと引きこもった私たちは、そのまま雪崩れ込むように大きなベッドの上へと身を投じた。
私の身体を組み敷きながら、健司が思い出したかのように尋ねてくる。その問いかけに対し、食い気味にそう答えると、彼は一笑して、「だよな、今度こそ邪魔させない」と、色のある声色で呟き、私の首筋に顔を埋めた。

待ちに待った甘い時間。
やっと、だ。私も健司も、前回のお預けがあったせいか、気分の盛り上がりがいつも以上に性急で、待ちきれないと言わんばかりに互いを求める。
彼とこういった事をするのはもちろん初めてではないが、それでも私の方は毎回ドキドキと心臓が張り裂けんばかりに高鳴ってしまう。こんなに至近距離で藤真健司という男の色香に触れてしまえば、そうなるのも必然ではないだろうか。

少し掠れた声で、囁くように私の名を呼ぶ彼が、堪らなく好きだ。
いつも情事の最中に、「静……」と、彼が呼ぶ度に、自分の名前が特別なものになるような気がした。
今日こそは、彼の腕の中で安らかな心地よさを感じたい。愛されていると、実感させて欲しい。
私は安心感を求める様に、彼の逞しい腕にしがみついた。この手は絶対に離したくないと、強く想いながら――。


しばらくの間、下着だけを身に纏っただけ私たちは、そのままベッドの中で二人でシーツに包まり、微睡みの中へ身を寄せていた。
健司の腕に抱かれながら、共に過ごすこの時間がいつも好き。
他愛のない会話をしてみたり、またちょっぴり触れ合ったり、もう何度目かのキスを交わしながら恋人同士の時間を過ごす。
そんな甘い時間を待ち望んでいたにも関わらず、それでもやっぱり少し恥ずかしくて、キスをする度に私は彼の胸へと顔を隠してしまうのは、もう癖のようなものだ。そんな私を見つめて、健司は、「恥ずかしがる所はいつまで経っても変わんねぇのな」と、少しだけ楽しそうに笑っていた。

彼との幸せな時間のおかげで、ずっと寂しかった私の心は不思議なほどにとても満たされていた。
けれど、ふとした瞬間にアイツの――神宗一郎の言葉が頭の中を過る。

もっとさ、自分自身を出せば?何をそんなに怖がってる?

あの時――神に言われたあのたった一言が、頭にこびり付いて離れない。

今まで健司を困らせたくなくて、健司に嫌われたくなくて言い出せなかった自分の欲を……。
今なら……今なら、曝け出しても良いような気がした。
今この瞬間にならば、言い出せそうな気がした。

幸せな時間に背中を押されるようにして、ほんの少し震える唇から絞り出すように彼の名を呼びかけてみる。
どきどきと心臓が早鐘を打ち、初めての試みに堪らなく緊張をしていた。

「……あ、ねぇ、健司?」

「ん?」

「昨日、さ……」

「昨日?」

健司は私の問いかけに対し反応はするものの、微睡の中にいるせいなのか、少々気怠そうに擦れた声で答える。
意を決したはずなのに、彼のその様子に一瞬怯んでしまった。喉元まで出かかった言葉を、咄嗟に飲み込んで、黙り込む。

「ん……やっぱりいいや」

「……」

(どうしよう。怖い。やっぱり訊くのが怖い……)

もう言えない。躊躇ってしまってはもうダメ。
私の思い詰めた態度が良くなかったのか、明らかに疑問の表情を露わにしたまま、何も言わずに黙ってこちらを見つめる健司の視線が痛い。
彼も勘は良い方だ。何かしら普段とは違う空気を感じ取ってはいるのだろう。
私は中途半端に口に出してしまったことに、早くも後悔し始めていた。

どうしよう……どうしよう!
なんて誤魔化そうか。それとも捨て身の覚悟で全てを吐き出してしまうべきか。考えあぐねていると、更に催促の言葉が彼の口から吐き出された。もう、逃げられない。

「なんだよ、言えよ」

「……あ、あのね、健司?」

「だから……何?」

「今度、さ……外で逢いたいな、って」

「え?」

私の言葉を受けた健司の表情が一瞬固まった。大きな瞳が更に大きくなって、うっかりと引き寄せられそうなほどに。いかにも意外だと言わんばかりの表情。
次に彼がどんな言葉を私に向けて返してくるのか、恐怖心と期待が入り混じった心持ちで、黙って静かに待つ。
時間にして数秒の静寂が怖くて、耐えきれなくなった私はそっと瞳を閉じてみる。すると、すぐ至近距離で吐かれた溜息に、身体がびくりと反応してしまった。

「ふぅ……珍しいな。静がそんな事言うなんて」

「……」

「なんだよ……お前があまりにも深刻そうに何かを言おうとするから……何事かと思っただろ?もっと別の……いや、そうだな……最近あんまり遊んでやれてないもんな?ん〜観に行くか?次の日曜、映画でも」

「えっ……!良いの?」

「良いも何も、お前が言い出したんだろ?外で逢いたいって。なに?映画じゃ不服?」

「あ、ちがっ……全然!そうじゃ、なくて……嬉しくて……っ」


(や、やった!やった!やった!!!まずい……泣いてしまいそう……!)

健司の返答が本当に心の底から嬉しくて、気を抜くと大泣きしてしまいそうなほど嬉しかった。
まさか、こんなにすんなりと健司が了承してくれるなんて、思ってもみなかった。
下手をすれば、「面倒だな」と、一蹴されてもおかしくないとさえ思っていたし、そうじゃなくても、渋い表情一つくらいは出てしまうかもしれないと勝手に決めつけていた部分は確かにあった。
けれど、まさか健司が私の我儘を受け入れてくれるなんて……夢みたいだ。あまりに嬉しすぎて、後に続ける言葉を見つけられない。

張り詰めていた緊張の糸が一気に解放された反動で、瞼の裏には涙がじんわりと浮かんできて、それをどうにか零してしまわないように必死に堪える。
とても嬉しくて顔が緩むのが抑えきれず、こみ上げる感情で顔が熱い。


「なに?もしかして泣いてんの?」

「泣いてない!」

「嘘、こっち向けって」

「ヤーダ!!ちょ、やめてよ……」

「ははっ!静、可愛いね。そんなに嬉しかった?」

涙が今にも零れそうな私の顔を覗き込みながら、健司の嬉しそうな視線とぶつかる。
こんなに感情的なところを見られるのが恥ずかしくて、しきりに顔を隠そうとしたけれど無駄な抵抗だった。
彼は私の頬を両手でふわりと挟み込むと、額にキスを一つ落とす。
「可愛いね」、なんて言葉、いつぶりだろうか。好いた相手に言われて喜ばない女の子なんて、きっといない。

「静がそんなに喜んでくれるなんてな」

小さく呟いた声に、私は堪らず健司に抱き着いた。そして、そのまま再び組み敷かれる。
あぁ、もう……完全に惚れた弱み、なんだよ。

これが私たちのスタイル。
恋人同士なのに、デートの誘いですらも自分からまともに出来なくて、傍から見れば本当に付き合っているのか、と疑問に思うかもしれない。
それでも私は彼のことを好きなのには変わりはないし、こうして傍にいて求められることに幸せを感じている。

けれど……やっぱり欲には勝てない。好きだから。健司のことがすごくすごく好きだからこそ、求めてしまう。
ひょっとしたら私だけが、いつの間にか変わってしまったのかもしれない。
彼は付き合う前から何一つ変わっていなくて、その彼の求めるバランスが崩れてしまわないかを不安に思う冷静な自分も、確かにそこに存在していた。

嬉しい気持ちと複雑な気持ちが入り混じった感情を抱きながら、また私は彼の腕の中に抱かれる。
求められればそれを拒む理由などありはしない。こうして触れ合えていれば、私たちはいつも対等な関係でいられた。
他人が入り込む隙間のない、たった二人だけの時間。この瞬間が、堪らなく好きだ。彼に愛され、求められているこの瞬間が、私にとっては何よりも一番幸せな時なのだから……。


(2020.6.28 Revised)




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