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いきなりのことに目を丸くする毬花。
それは至極当然なわけで、どうかしてたのは僕の方。


『雪男? どしたの?』

「あぁ、いや……」


軽く目眩が襲ったような気がした。小さく息をついて机の上に置きっぱなしにしていた、昨日使わなかった予備の雑巾を手に取る。
誤魔化すみたいだけど、どうせ渡そうと思っていたし、今はこれが最善だろう。


「あの雑巾、始末するのに使って捨てちゃったから、代わりにこれ使うといいよ」

『あ、うん。ありがとう』


まだ真っ白なそれを手渡すと、かえってきたいつもの薄く柔らかな笑みに、勝手に安堵感が芽生えてしまう。
毬花もたいして気にしていないようだし、そのまま部屋に帰してあげればよかったんだろうけれど、ふいにまた首もとに散った痕が目に入って、そのチャンスを自ら流してしまった。


「ねぇ毬花」

『ん?』

「これ、どうしたの?」

『え? あっ……』


おそらくまだついたばかりなんだろう。鮮やかな赤、というよりは紫に近い鬱血の痕を指差して言えば、途端に毬花が狼狽え出すのが見て取れた。
思い出した、今気づいたと言っているみたいに襟元を寄せて隠そうとする。もう手遅れだし、意味なんてないのに。


「怪我でもしたの?」

『怪我、うん、そう。そうなんだ、ちょっと不慮の事故で……』


あえてそんな訊き方をすれば、はっとして話を合わせるような素振りを見せる。それは、なんとか、といった感じでひどく拙い。
まったく、下手くそな言い訳だな。どうしたらそんなところを怪我するって言うんだ。
だけど僕がそれをキスマークだと理解していないと毬花は判断したらしく、僅かに安心したような表情を見せた。念のためなのかさりげなく第一ボタンまで閉めていたけれど。
なるほど、どおりで普段あまり制服を真面目に着ない毬花が今日は堅苦しく一番上までボタンを留めていたわけだ。


『じゃあそろそろ部屋の掃除を……』

「なんなら手伝おうか?」


逃げるようにいそいそとベッドから下りようとする毬花に、掃除は大方済んでいるであろうことを知りながらも声をかける。


『ううん、いい。あと床の雑巾掛けだけだから』


かえってきた答えは予想通りのもので、なんら驚くことはなかったのだが、シーツを残してベッドを下りた瞬間現れた相変わらずの服装には思わず目を逸らしてしまった。
なるべくじろじろと見てしまわないように気を遣いながら、それとなく呼び止めてみる。


「毬花ってさ、彼氏とかそういうの、いたりする?」

『なに? そんな藪から棒に』

「いや、その怪我はその人にやられたのかな、と思って」

『え、や、いないよ! これは違くて、ちょっと大きい子供みたいな人? の好奇心のせいでして……』


話題を戻されてわかりやすく焦り出した毬花に、加虐心をくすぐられる。恋人はいないと言われてなおさら悪い気持ちが出てきてしまったようだ。
でも、付き合ってもいない男にこういうことをされるなんて、毬花もだいぶ自覚が足りないんじゃないか。
ひどく狼狽しているのを必死に隠しているつもりなんだろうけど、早く部屋に帰りたがってるのが見え見えだ。


『もう戻るね。ごめんね迷惑かけて。ありがと』

「あぁ、あと」


パシッと掴んだ手首はやはり細い。
またしても引き止められて、まだ何かあるのかと困惑気味な表情が振り向く。
何もそんな重大なことじゃないけど。まぁでも、いっぱしの男子高生からしてみれば十分死活問題か。兄さんが見たら卒倒するだろうし。


「あんまりそんな格好でうろつくのはよくないな」

『あ……』


指摘すると即座に染まる頬。これまた予想通りの反応が笑いを誘う。照れてる表情も焦ってる時の対応も、初めて会った時から全然変わらないな。
僕としては楽しいけど、毬花からしてみれば少し可哀想かと思って手を離してあげると、お邪魔しました! と言ってものすごい早さで逃げられてしまった。
実際はもっとどもっていて、苦笑いしていたのだけれど、去り際に翻ったワイシャツから毬花が好きだと言っていたキャラクターの柄の下着が見えて、ついため息も洩れていた。





苦難は続くよ、どこまでも。



(はぁ……)
((……あ、なんでワイシャツ1枚だったのか訊きそびれた))


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