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自分の部屋があるフロアへ上がってきた時に、真っ先に見えたのはドアの隙間から薄く漏れた明かりだった。
兄さんはまだ向こうにいる。毬花が先に帰ってきていたんだ、と思った。


「少し遅くなったな……」


窓から見える景色はひたすらぼんやりとした闇がかかっている。
兄さんが帰ってくる前にフェレス卿に連絡も取っておきたい。
少し足を早めた時、明かりの漏れた部屋から僅かな物音と、少女の慄然とした悲鳴が聞こえてきた。


『ひゃあああぁぁぁぁ!!』

「なっ、毬花!?」


ただならぬ様子に、目的地を隣室に変更して駆け出す。万が一を考えて、常にホルダーに入れている銃に手をかけた。
女性の部屋にずかずかと入り込むのはどうかと思うが、状況が状況だけにそうも言ってられない。
バンッと乱暴にドアを開けると、タイミングよく出てこようとしていたらしい毬花と鉢合わせた。急に止まれず、そのまま胸に飛び込んできた体を抱き止める。


『雪、男っ……』

「毬花、何が」


あったんだ、と訊こうとして思わず言葉につまっていた。肩を掴んで少し距離を取ったのがいけなかった。
ふいに視界に入ってきたのは、滑らかな生っ白い足。そして何故か毬花が身につけていたのはワイシャツ1枚だけで、そのくつろげられた襟元から覗く首筋には無数の赤い残痕が散っている。
もしかして忍び込んだ暴漢にでも襲われたのかと目線だけで部屋を見回すが、それらしい人物はおらず、悪魔の類いもいっさい見当たらない。掃除の途中だったのか、床には雑巾と、何故かローファーが片っ方転がっているだけだった。

とりあえず自分が着ていたコートを羽織らせて抱き上げると、すぐさま隣の部屋に運んだ。
ベッドに下ろしてあげるとモゾモゾとシーツにくるまって、弱々しい声でごめんと呟きながらコートを渡してきた。
そのままハンガーにかけながら横目に問いかける。


「何があったの?」

『うぅ……その、ゴキブリが……』

「ゴキブリ? それだったら昨日もいたじゃない」

『ちがっ、違うの!』


飛んだの! とシーツから頭だけ出して泣きそうな顔をされて、苦笑が洩れる。
聞けば、雑巾掛けをしていたら手もとをゴキブリが横切り、退治しなくてはととりあえず目に入ったローファーを手にして振りかぶったら外した上に目の前を飛ばれたらしい。それでつい叫んでしまい、もうダメだとローファーを放って避難しようとしたらちょうど駆けつけた僕と鉢合わせたと。


「はぁ……。じゃあ今退治してくるから。ちょっと待ってて」

『ご、ごめんね……』


おずおずと見上げてきた毬花の頭をぽんと撫でて部屋を出る。
ゴキブリのくだりより、なんでワイシャツしか着ていなかったのか、なんで首や鎖骨辺りまであんなにたくさん痕がついていたのか、そっちの方が気になるんだけど。
それも問いただしてみるか、となんだかすっきりしないモヤモヤを抱えたまま毬花の部屋に入る。さっと近辺を探すと、事の発端である奴が、これから始末されるとも知らずに悠然とした態度で壁に張りついていた。
ピクピクと触角を動かして、万人受けしないその黒々とした肢体を晒している奴を見て、こいつが原因で、と自らの靴を片手に憎悪の視線を向けざるをえなかった。転がったままになっていた毬花のローファーを玄関に揃える。
さて、さっさと片付けてしまわなければ。

毬花は何をそんなに手こずったのか、振りかぶって当てにいけば、呆気なく壁と靴の間で潰れてしまった。そっと離してみて確認したものに、無意識に眉根を寄せる。
死骸は靴の方についてきていて、開け放った窓から振り落として捨てることにした。別にここなら問題はないだろう。
床に置きっぱなしになっていた雑巾を拾い上げて軽く靴裏を拭く。さすがにゴキブリを殺した靴をそのまま履ける敢闘精神は持ち合わせていなかった。
玄関と呼ぶにはあまりに狭く簡素なスペースに、今回大活躍だった靴を毬花のと並べて置いてから、半分に折られていた雑巾を、靴を拭いた方を内側にしてもう一度折り込んだ。毬花の今後のためにも壁で殺したとは言わず証拠は全て消し去っておこう。

今度バルサンでも買ってこようかと思念し、壁も綺麗にしたところで、雑巾を置いてあったゴミ箱に捨てて毬花のローファーと共に部屋を後にした。
隣の自室へ戻ってくると、相変わらずシーツを被った姿の毬花がベッドの上に座り込んでいた。恥ずかしいような、申し訳ないような面持ちでこちらをうかがってくる。


「もういないよ」

『ほんと?』


すがるような視線がおかしくて、ほんと、と答えながら少々乱れ髪の頭を撫でる。触り心地のよい髪をすくように撫でつけていたら、だんだんと形のいい唇が僅かに尖ってきた。
きっとまた子供扱いしてる、とでも言いたいんだろうけれど、僕に退治してもらったからなんとなく言いづらい。そんなところかな。
ははっと笑うと、毬花は羞恥に微かに頬を染めてベッドから抜け出そうとした。


「あ、ちょっと」

『掃除、まだ途中だったから』


床にひたっとついた足はやっぱり白くて、少しだけ捲った袖から伸びる腕は僕なんかより全然細くて。


「待て」

『うわっ』


とっさに無理矢理ベッドに押し戻してシーツをかけていた。
驚いた様子の毬花に、あ、と思うがもう遅い。





目に毒でしょう。



(雪男? どしたの?)
(あぁ、いや……)


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