「トウヤ、行かないで」

ちゃんと口にした筈なのに、トウヤは少し眉を下げただけで、足を踏み出す。
行かないでよ。
行かないで下さい。
お願いだから。

「こうしてるとさ、ナマエと会った日のこと思い出すんだ」

「え?」

「道路の脇でさ、一人でボールを持って考え込んでた」

そうだ。プラズマ団っていうよくわからない組織の人達に、突然私のポケモンは奪われて、ただ呆然としていた。
私は凄く悲しかったけれど、あの子の方はもしかしたら自由になれて、嬉しかったのかもしれないなと、相反する気持ちの渦の中にただ溺れていた。

「危ないよってトウヤが草むらから連れ出してくれたの、覚えてるよ」

「うん」

「それでナマエのポケモン、きっと取り返すよって言ってくれた」

「うん」

「それなのに…」

違うのだ。私のポケモンはちゃんと帰ってきた。トウヤが一生懸命、プラズマ団と戦って取り返してくれたのだ。無事に戻ってきたあの子は今、私のモンスターボールの中で眠っている。空っぽじゃない。それなのにどうしてだろう、私の心の方が、今度は空っぽになる。

「遠いところに行くの?」

「かもしれない」

私にはいけない場所に行ってしまう。出会った時から、普通の人とは違うなって思っていた。みんな自分のことに一生懸命な中で、助けてくれた、声をかけてくれた、そんなことの積み重ねのせいかもしれないけど。

誰かを追いかけてる。

トウヤの視線の先に、多分、いなくなってしまった誰かがいる。その影みたいな存在に、きっとトウヤは何か言いたくて、伝えたくて、それはもしかしたら文句みたいなものかもしれないけど、でも、きっと大切な何かをしまい込んでいるのだ。

「帰ってきたときは」

「うん…」

「ナマエのこと、迎えに行くから」

「忘れない?私のこと」

「忘れてやんない」

当たり前、と言ってから、そっちこそ忘れないでよってトウヤが笑った。忘れないよ。待ってるよ。

「だから、帰ってきて」



二年、私は待った。
多分、これからも待っているけれど、それでも二年は随分と長すぎた。トウヤを知っている人が、少しずつ、彼のことを思い出の中の欠片みたいに扱うようになる。段々と彼が薄れていく。涙をぽろぽろと流す度に、悲しみが落ちていくように、トウヤの存在も消えてしまうんじゃないかと思ったら怖くなった。
それに、もしかしたら、トウヤは…思い出だけじゃなくて、本当に?

そんなことはもっと怖すぎて、考えるのを途中で止めた。

「ナマエさんは、ええと、その、二年前の英雄さんを、待ってるんですか」

うん、と頷く。久しぶりにトウヤの話をする。相手はキョウヘイくんと名乗ったポケモントレーナーで、彼も旅する内にトウヤの影を追いかけている、らしい。

「多分、僕…会ったんです。その人が追いかけていた人に」

この地方に戻って来たみたいで、とキョウヘイくんは紅茶を一口飲む。私にはその話が衝撃的だった。だって、追いかけていたその人が戻って来たっていうなら、トウヤは?帰ってきたら、迎えに行くって言ってたのに。

話してくれてありがとう、と彼と別れて自分の家へとぼとぼと戻る。周りはみんな居なくなった人を待つなんて、と言った。もしそれが他の人の行為なら、私だってそう止める。でも私はそれでも、忘れられないから。

「トウヤ…」

呼んだ?って、その木陰から出てきて欲しかった。帰り道のついでで来てくれたって構わなかった。何でも良かった。
ただ、トウヤに会いたかった。

私の中から、忘れたくないのに、段々トウヤが居なくなってしまう。


「おかえり」

だから、それは幻なのかもしれないと思った。心の中を全部見透かしたみたいに、現実逃避な夢を見ているんだと。
玄関の脇に凭れていた身体を起こして、俺のこと忘れた?って、トウヤが言う。


息が詰まる。


「忘れないよ」

僅かな間を置いて、両目から、沢山悲しみが溢れてこぼれた。言いたいことも思っていたことも、全部その中に溶けて流れていった。ただ呆然と涙をこぼした。


「忘れてると思った。だから本当は、また違うところに行こうかなって。でも、忘れててほしくないとも、思ったから」

「わすれ、ないよ」

言葉が上手く出なくなって、トウヤの胸にしがみついて泣いた。無事で、戻ってきてくれて、ここにいるっていうだけで私の涙腺を壊すのには十分だった。子供みたいに泣きじゃくる私の背中に腕が回って、静かに、だけど強く抱き締められる。洋服越しの暖かさが私を安心させた。

「良かった…帰ってきてくれて…」

「はは、そんな泣かれると困るんだけど…」


涙でいっぱいの顔を上げると、柔らかく笑ったトウヤが目に入った。それから、本当は、と目を伏せてゆっくりトウヤが呟く。

会いたくてしょうがなかった。

そんな風に言うトウヤの表情があんまりにも苦しそうで、切なくて、目を丸くすると、頭の後ろに手のひらが回って顔が見えなくなった。

「ごめん、俺、余裕ない。また会えたら、なんて言おうか考えてたけど、うまく言えないな」

「うん」

「でも……会えて嬉しいっていうのは、本当」

「うん」

返事をすれば一層強く抱き締められて、私はそっと目を閉じた。瞼の奥の暗闇は、暖かい色に渦巻いている。ずっと待っていて、よかった。そうだ、一番に言いたかった言葉を、伝えなくちゃ。

「お帰りなさい」

小さく呟いた言葉に、トウヤがただいま、と返した。




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20150317
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