〜 13 〜
“万国博覧会”での出来事で彩られる倫敦新聞。その裏面に、昨夜の襲撃についての記事が、写真付きで掲載されていた。あの現場を新聞記者が目撃していたようで、ゴシップのような見出しで大きく取り上げられている。ただでさえ多忙の身であるバンジークスに、取材をしたいという依頼が殺到していた。ユリアはそれを片っ端から跳ね除けているが、取材依頼が止むことはなく、現在進行系で対応に追われている。ようやく落ち着いてきたか、と思う頃には午前の時間を半分以上無駄にされ、さすがのユリアも遺憾であった。バンジークスの執務室に戻ってきたユリアが、へとへとになりながら、自身の仕事机の前に腰掛ける。バンジークスとエスポワールの、ペンを紙に走らせる音を聞きつつ、自分の仕事に手を伸ばした。ようやく自分の仕事が出来るようになって、ユリアは気合を入れ直した。
「おじゃましまーす!」
紙の上をペンが走っている音と、時計の振り子だけが聞こえる空間に、ノックの音が聞こえ、さらには場違いのようにも思わせる声が響いて、ユリアは驚きに顔を上げた。桃色の髪をした小さな少女が、黒い服に身をまとった男性を連れて、部屋の入り口から中を覗き込んでいる。控えめに「失礼します」と言って入室してきたその男性は、バンジークスの執務室を物珍しそうに見回していた。
(あら、かわいいお客様。…と、あの人はもしかして…)
記憶違いでなければ、小さな少女に連れられて歩いているのは、かの弁護士だ。異様な組み合わせに首をかしげていると、バンジークスが席を立ってふたりの前に移動し、腕を組んだ。
「……こんなところに、なんの用だ」
入室するやいなや、エスポワールのことを不思議そうに見つめていた黒服の男性が、素っ頓狂な声を上げてバンジークスを振り向いた。ご無沙汰しています、と一言挨拶をした男性、成歩堂龍ノ介と、初めまして、と挨拶をする少女、アイリス・ワトソン。ああ、やっぱりか、とユリアはガチガチに緊張している様子の成歩堂の横顔を、しばらく見つめた。
(弁護士、復帰なさるのかしら)
バンジークスと会話を始めた成歩堂。その会話を聞き流しながら、ユリアは仕事に戻った。ドビンボーの弁護を、成歩堂がすることになったということ。そしてそのドビンボーは、バンジークスの旧友であることを、バンジークス自ら告白している。そこで初めて語られた、バンジークスとドビンボーが仲良くなったきっかけ。ユリアは書き物をしながら、そうだったんだ…と納得した。
「ねーねー。ずっと気になってたんだけど、この模型って…」
成歩堂の手を離れたアイリスが、執務室に入ってすぐ正面にある模型を見た。我ながら再現性の高い模型だと思っている。近寄ってまじまじと模型を見るアイリスと、声を上げて関心している成歩堂を見て、ユリアは嬉しい気持ちになった。
「忙しくて万博に行けない寂しさを、これで紛らわせてるのかな」
「それとも、行列に並ぶのが恥ずかしくて、行きたくとも行けないのかもしれない」
ユリアはふたりの言葉に思わず吹き出しそうになったが、なんとか耐える。バンジークスはそれまで顔色を変えなかったが、ふたりの言葉にはさすがに異論があったのか、身を乗り出した。
「どう考えても、今回の事件を検討するために決まっているだろう!……勝手に、人を“引っ込み思案”にするな……日本人」
予想の遥か上を行ったバンジークスの鋭い指摘に、ユリアは耐えきれず声を漏らして笑う。冗談が通じる人だとは知っていたが、まさかここまで綺麗な返事をするとは思わなかった。くすくすと肩を震わせるユリアに気付いて、アイリスが顔を向けた。
「お姉さん、もしかして…《死神》くんのカノジョ!?」
それまで笑っていたユリアが、一気に顔を引きつらせた。ドビンボーといい、アイリスといい、なぜ確認する前にバンジークスの“いい人”だと思ってしまうのか。ユリアは笑顔を戻すと、立ち上がってお辞儀をした。
「バロック様の秘書をしております。ユリア・ミルトンと申します」
「ヒショ!?かっこいー!よろしくね、ユリアちゃん!」
アイリスの興味は、ユリアの後ろにある大きな絵画にうつった。成歩堂もつられるようにして見上げながら、その絵に圧倒されている。アイリスは絵を見て、「似てなくもないけど、カッコよすぎる」と口にし、それに対して成歩堂が、美化して描けと命じていた仏蘭西の皇帝の話を持ち出してくる。
「…でも、なんだかそれってカッコよくないねー。人として」
ユリアはアイリスの発言に目を剥いて、恐る恐るといった調子でバンジークスの顔を盗み見た。
「それは私の肖像画ではない。……見ればわかるだろうッ!」
バンジークスは年端もいかない少女の発言に対し、そう声を荒げた。では誰なのか、という質問に対しては黙秘して、目を伏せる。ユリアは困ったような笑顔を、アイリスに向けた。
成歩堂はそれからずっと、エスポワールの背中を見つめている。思い出したように、どこからか新聞を取り出して、バンジークスに彼のことを訪ねた。何がそんなに気になるのだろう、と会話するふたりを見つめながら、ユリアもエスポワールを見る。そのときちょうどエスポワールが立ち上がり、バンジークスへと歩みを進めて、目の前にいた成歩堂を視界に入れた。気付いた成歩堂が、バンジークスの目の前から一歩引いた。
「ご苦労だった。では、《訴状》をまとめてもらおう」
ひとつ頷いたエスポワールが、なにも言わないまま、また成歩堂を見つめる。もしかして、と思ったユリアが、自身の机から離れて成歩堂のほうへ向かった。戸惑いながら会釈する成歩堂と、それ以上なにも言わないまま、机へと戻っていくエスポワール。今までの傾向からして、エスポワールの頭の中に、何かが引っかかっているようにも思えた。
「……彼に何か、心当たりがあるのですか?」
成歩堂はユリアの言葉にハッとして、彼女に視線を移す。しばらく考え込んだあと、成歩堂は静かに首を振った。
「……いえ、気のせい…だと思います」
どこか思いつめているような、寂しそうな顔で、成歩堂は自身の右腕につけている“腕章”に触れた。ヴォルテックスの命令で、彼は外部の者とは一切言葉を交わさない。話しかけても無駄だ、と言い放つバンジークスに、成歩堂は目を伏せた。
(彼も、ナルホドーさんのこと、気になっていたように見えたけど……)
先程と変わらぬ体勢で机の前に座しているエスポワールの背中を見て、ユリアは眉をひそめた。彼は胸の内を話さない。それどころか、記憶を思い出すきっかけになりそうなものすら、話してくれないのだ。今みたいに、気になることがあっても、きっとそのまま胸のうちに秘めてしまうだろう。成歩堂が調査に戻ると言って部屋を出ていくその瞬間まで、ユリアはエスポワールの背中を見つめていた。
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