〜 12 〜
“万国博覧会”が無事に開催されて、数日後のこと。先日会話をした、バンジークスの旧友であるベンジャミン・ドビンボーが、自身の研究成果を発表する大舞台で、奇怪な事件を起こした。《超電気式・瞬間移動技術》という、人間の瞬間移動が可能になる装置が出来たと豪語したのだが、暴発を起こして、被験者を死亡させた事件。さっそく起こってしまった万博会場での殺人事件が、まさかバンジークスに関わりのある人間が起こしたものだとは。ユリアは、バンジークスが責任を感じてしまうのではないか、と不安に思っていた。倫敦万博が無事に開催されたことにより、当初より決定していた”国際科学捜査大討論会”が1ヶ月後に控え、その会場をバンジークスが用意していたのだが、今回の事件は他人に任せられない、ということで、ドビンボーの裁判を受け持つことになり、バンジークスは多忙を極めている。
仕事に追われていたせいで、帰りの馬車に乗った時間はいつもより何時間も遅く、まもなく日付が変わろうとしていた。あいにくの雨が、重い空気の馬車内を更に重くする。肌寒さに身を縮めて、コートをたぐり寄せ、持っている鞄で少しでも熱を確保して暖を取ろうとしていた、そのときだった。
「うわああっ!!」
けたたましい銃声のようなものが鳴り響いたと思うと、ユリアの後方…馬車の進行方向から突然、悲痛な叫び声が聞こえて、それと同時に、馬の暴れだすような鳴き声が響いた。人が転げ落ちたような音が馬車の真横からして、ユリアはただ事ではないと瞬時に悟る。
「降りろッ!」
バンジークスが叫びながら、馬車の扉の施錠を外した。御者を失ってパニックになった馬により、だんだんと加速していく馬車からバンジークスが飛び降りて、受け身を取る。ユリアがあとに続こうと身を乗り出したとき、エスポワールの腕が伸びて、ユリアの体を正面から包み込んだ。ユリアが状況を把握する前に、エスポワールが馬車を飛び降りて、ユリアごと受け身を取る。何度か地面を転がったあと、ふたりは同時に起き上がって、暴走した馬車を振り返った。走行を続ける馬車は不運にも、テムズ川に続く堤防を乗り越えて、転がり落ちていく。その光景にユリアが思わず息を飲み、唖然とした。一体何が起こったというのか、頭の整頓が出来ていないまま、ユリアは突然エスポワールに腕を引かれて、意識を向けられた。見ると、武装をした男たちが銃を片手にジリジリと近寄ってくる光景が目に入り、ユリアは内心、またか、と全てを察する。互いに距離を縮めたバンジークスとエスポワールが、ユリアを背に庇うようにして、腰に携えていたレイピアを抜き放った。
「お前が《死神》、か」
「…………」
ひとりの男が、威嚇するように銃をバンジークスの足元に向かって撃ち込んだ。銃声に驚いて、ユリアが声もなく体を跳ねさせる。いつに間に取り囲まれたのだろう、銃を持った男たちが後方からも現れて、気迫に押されたユリアは、一歩下がった。それにいち早く気付いたエスポワールが、バンジークスと自分の背の間に入るようにユリアを置き、レイピアを構える。ユリアは、この書類だけは守らないと、と腕の中にある鞄をしっかりと抱きかかえた。
「……よくも…よくも!俺たちのボスを!!」
「やれッ!!」
その声を合図に引き金を引いた男に向かって、バンジークスが突進する。レイピアで銃弾を弾き、その男の懐に潜り込むと、そのまま男の体を持ち上げて、仲間の元へ放り投げた。男の巨体に押しつぶされた男は、身動きが取れずにもがき苦しむ。銃弾がまるで見えているかのような身のこなしで、バンジークスはひとりずつ相手にしながら、確実に仕留めていった。結局拳銃は、弾を消費することなく地面に転がる。対してエスポワールは、バンジークスの背中が狙われないように、後方にいた男たちを目にも留まらぬ速さで気絶させていく。ユリアはその間、誤って被弾しないようにその場に小さくなっていた。
「……半分は、消えたようだが」
残された男たちは、それでも銃口をバンジークスに向けた。エスポワールはユリアを立ち上がらせて、背にかばいながら、前方に残った男たちを見据える。互いにどう動くかを見定めている間、ユリアの背後で、気絶させたはずの男が、拳銃を持った手を動かした。
「降参と言うなら、大人しく警察に突き出すだけで済まそう」
「なめやがって…!!」
拳銃を構えたままジリジリと距離を詰めてくる男たちの他に、ユリアはどこからか強烈な殺気を感じてあたりを見回した。まさか、まだ居るのだろうか、と、雨と霧で視界の悪い周囲に精神を研ぎ澄ます。カチャリ、とリボルバーをまわすような音が背後から聞こえて、ユリアは懐からナイフを取り出すと、その方向へ向かって迷いなく投げつけた。
「ぐっ……!」
ナイフは見事、起き上がった男が持っていた拳銃に当たって、男の手から弾き飛んだ。後ろを振り返ったエスポワールが、ユリアの手柄を見て唖然とした表情を見せる。
「そこで何をしている!」
突如、バタバタと複数人が駆けて寄ってくる足音が聞こえて、男たちがあからさまにうろたえた。それもそのはず、その複数人の足音は、倫敦警視庁が鳴らしているものに違いないのだから。相当な人数だろう、警察の足音が近付いていくうちに、男たちは分が悪そうに舌打ちをした。
「クソッ…!」
無様にも背中を見せたが最後、バンジークスとエスポワールは男たちを取り押さえて、拳銃を奪い去った。警官たちは状況を確認したのちに、気絶して伸びた男たちにも手錠をかけていく。これで事が収まっただろう、と安心しているのもつかの間、ユリアは撃たれて振り落とされた御者の存在を思い出して、あたりに目を凝らし、馬車で来た道を戻っていく。道の端で、肩をおさえながらうずくまるその人を見つけ、警官を呼んだ。出血がひどく、顔色も悪い。駆け寄った警官によって、御者は応急処置の止血をされ、最寄りの病院へ運ばれていった。無事でいますように、と搬送用の馬車を見送りながら、ユリアはバンジークスの元に戻る。
「無事か」
どこに行っていたんだ、というように、バンジークスがユリアを振り返る。御者のことを言っているのだろう、と理解したユリアはひとまず、はい、とだけ返事をした。
「書類も、大丈夫です」
ユリアが持っている鞄には、“国際科学捜査大討論会”の重要な書類が入っている。これに何かがあったら、バンジークスの立場が危うくなるだろう。傷ひとつ付けずに済んだその鞄を見せると、バンジークスはため息を吐いて、そうではない、と語気を強めた。
「おまえのことだ、ユリア」
「え……」
腕を組みながら言うバンジークスを見て、呆気に取られるユリア。持っていた鞄をしっかりと胸に抱えて、ユリアはまた、はい、と返事をした。
「…なんともありません」
「そうか」
バンジークスはそれだけ言って、男たちの身柄の引き渡しをしていたエスポワールと入れ替わるように、警察の元へと歩いていった。駆け寄ってきたエスポワールにも、大事ないか、と心配をされる。ユリアはひとつうなずいて、それから、ふたりに心配をかけてしまったことを悔やんだ。無力な自分に腹が立って仕方ない。結局ひとりでは、なにも出来ないのだ。
(悔しい……なんで、《死神》なんて異名に苦しめられないとならないの…!バロック様は、何もしていないのに…“復讐”なんて…される筋合いないのに…!)
今回が初めての襲撃ではないが、その度にユリアが思うことだった。一度だけ、剣を手に持ったことがあるが、あまりにも扱いが下手で、自分自身を傷つけて大怪我未遂になったことがある。バンジークスにも、やめておけ、と言われる始末で、自分には才能がないのだと諦めたのだ。体術ならある程度は心得ているが、とてもじゃないが拳銃には立ち打ち出来ない。今回のような拳銃を持った者たちがまた襲ってきたら、と思うと、更に無力さを感じて、奥歯を噛み締めた。強まってきた雨に体をうたれて震えるユリアを見たエスポワールは、その体を引き寄せて、驚いた顔の彼女をそのまま抱きしめ、自身のローブを被せた。
「な、なんですか!?」
いささか窮屈すぎる雨宿りに、ユリアは慌てた。顔を上げてもローブのせいでエスポワールの顔は見えないし、腰に回された腕は、大人しくしろ、と訴えかけているようにびくともしない。密閉はされていないローブの隙間から街頭の光がもれている。その方向に顔を向けたユリアの視線の先に、警察と話しているバンジークスの後ろ姿がうつった。不意に建物を見上げたバンジークスの顔は、至って冷静なものだ。どうしてあの人は、平気な顔をしているのだろう。あまりにも非力な自分に対する無念。《死神》に苦しめられているのに、顔色ひとつ変えないで沈黙を貫くバンジークス。そのふたつが合わさって、ユリアは目の奥が熱くなるのを感じた。鼻をすすったユリアに気付いて、エスポワールがかすかに腕の力を強める。ローブの中で、ユリアは声を押し殺し、流れる涙が頬を伝う感触に目を閉じた。
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