〜 14 〜
成歩堂たちが去ったあとのこと。バンジークスは、ユリアに話があると言って、デスクの前に呼び出した。バンジークスの考え込むような面持ちに、小首をかしげる。その机上には、昨晩の襲撃についてが掲載されている新聞紙が広がっている。
「……秘書を、降りてもいい」
「……え?」
背中に稲妻が走ったような衝撃に襲われて、ユリアは開口したまま固まった。どうして、という言葉が喉を通って出てくる前に、降りてもいい、という言葉が頭の中で繰り返されて、言葉の意味がわからなくなるくらいのショックに陥ってしまう。
「………私では、役不足でございましたか?」
空中を見つめながら、ユリアが精一杯の声を振り絞って言った。
「…そうではない。昨晩のようなことが、これから更に増えていく可能性がある。新聞を見ただろう。おまえも、例外なく写されていたのだ」
バンジークスが検事として復活を果たしてから、約1年。ユリアはバンジークスの“秘書”として、随分と存在が知れ渡ってしまっていた。幸い、エスポワールがユリアを気にかけているおかげで、ユリアのみを狙う犯行はあれ以降起きていない。それでも、《死神》に反感を持った人間が何をしてくるか、わかったものではないのは事実だ。迷惑なのであれば、と切り出したところで、バンジークスが首を振る。
「もう、私一人の問題ではない。おまえの命も狙われるかもしれない。それを踏まえてもらった上での、“選択肢”だ」
あくまでも、選ばせるつもりでいるバンジークスの意図を汲み取って、ユリアは顔を上げた。今ではもう見る影もない、完治したユリアの左頬を一瞥して、バンジークスは机上で手を組む。
「かなり前から、標的とされていたのではないか?」
もう、言い逃れは出来ない。どうして報告しなかった、と叱られる覚悟をして、ユリアは唇を噛み締めながら、こくり、とひとつ頷いた。やはりか、と呟いて、バンジークスは背もたれに寄りかかる。
「おまえのことだ。余計な心配をかけたくない、という理由で黙っていたのだろう」
「…はい」
まったく、と呆れた様子でバンジークスが片手で顔を覆う。あの件についてユリアは、バンジークスには関係ない、と自己完結していた。しかし、報告がいかないことを利用して襲撃に及ぶ危険性も、なくはないのだ。ユリアはエスポワールにも迷惑をかけていたかもしれない可能性を考えて、尚更懺悔したい気持ちになった。
「ご迷惑でなければ、ぜひ、……お傍にいさせてください。」
ユリアは頭を深く下げて、震える声で訴えかけた。
「なぜ、そこまでして私に付くのだ」
「……バンジークス家には、恩返しをしたいのです」
バンジークスは眉をひそめて、ユリアの話の続きを伺った。
約20年前、ユリアの両親は、冤罪で裁判にかけられたことがある。巻き込まれた事件は、殺人。祝い事で友人の家に向かったが、いくら玄関の呼び鈴を鳴らしても中から人が出てくる気配はなく、不審に思った両親が家に上がり込んだところ、死体となって発見された。警察に通報する前に、同じく祝い事で呼ばれていた客が被害者の家に現れ、犯行を疑われて被告人となってしまった。そして、法廷に立たされた。弁護側は当然、両親を庇ってくれるが、問題は担当検事だったクリムトではなく、陪審員だった。真犯人に脅迫されていたようで、6人中、3人が脅され、常時《有罪》を主張。様子のおかしい陪審員を見抜いたのは、クリムトだった。その後、クリムトは真犯人を探り当て、ユリアの両親は《無罪》判決を受けたのだ。まだユリアは幼く、預けられる身内もいない。その上、うちは貧乏で、施設に預けようにもお金がなかった。
「クリムト様がいらっしゃらなければ、私は死んでいたかもしれません」
検事側であるにも関わらず、真実へと向き合って、《無実》を立証してくれたクリムト。なんとか母だけでも助けようと、父は死にものぐるいで《無実》を証明していたのだという。クリムトはそんな父の様子に心をうたれて、当時の弁護士に、遠回しの助言を検事席で行っていた。今となっては感謝を伝えたくても、伝えられないのが苦しい、と寂しそうに語る両親のせめてもの親孝行として、バンジークス邸に仕えるようになったのが、全ての始まりだ。
「それ以外にも、バロック様には本当に常日頃からお世話になっていて…一生をかけてもきっとお返し出来ないくらいにご恩をいただいてるので、せめて”秘書”として働かせていただきたいのです!」
ユリアは拳を握って、身を乗り出した。
「たくさんご迷惑をおかけすると思います。バロック様だけでなく、エスポワールさんにも…。私が標的とされるなら、それこそバロック様の傍から離れません!一緒に、《死神》相手に、闘わせてください!」
「…………」
ユリアの話を静かに聞いていたバンジークスは、ユリアの《覚悟》を垣間見た気がした。この者は、どこまでも他人のために動く。それを“生き方”とする《覚悟》を。本人が望むなら、それを尊重しよう。
「……わかった」
「…ありがとうございます!」
ユリアが頭を下げて、喜んだ。最初はあんなにも機械じみていたユリアが、今は自ら意思を持って職務を全うしようとしている。相変わらずメイドを兼任しているのは、さすがに自己犠牲がすぎるのでは、とも思うが、ユリアが好きでやっていることには変わりないらしい。気合を入れ直して、ユリアは笑顔のまま、仕事に戻った。
ふたりのやりとりを、ただ黙って聞いていたエスポワール。《死神の呪縛》という説は、あながち間違っていなかったのかもしれない、と考えていた。彼は、ユリアを辞任させる気など、更々ないのだ。てきとうに雇った人間を《死神》の指示で動かし、ユリアを襲い、傍にいさせる。いわば、一種の“共依存”を、バンジークスが演じているのだ、と。恐らく、ユリアが辞任したとしても、傍にいさせるために同じ手口を使うに違いない。ならば、その全てからユリアを守ろう。そう心に誓いながら、エスポワールは静かに憤り、握っていたペンを強く握りしめて、紙の端を滲ませた。
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