兎と狐の月光祭
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犬の鳴き声がした。ユタははっとして、耳を立てる。距離的には、あまり遠くないところだ。
逃げるか? ユタは自分の胸に問う。
荒かった呼吸は大分収まってきたが、鼓動は激しく、おそらくそんなに長くは走れないだろう。
狩人たちの姿が見えるまで、このまま隠れていることにした。犬がいる以上、うまくやり過ごせるとは思わないが、今は体力の回復に努めたい。
様々な方向から、人が近づいてくるのがわかる。一体何人で兎狩りをしているというのだろうか。
山間のさして大きくない村に、大した数の人間はいないと思われる。その内の半分が男だとして、狩りができる年齢の者は、さらに少ないだろう。
集団で行動していれば熊に襲われる危険性は少なくなるのだろうが、それにしても夜の山は危険だ。そんな夜の山で、小さな黒兎一匹を追い回そうだなんて、気狂いのすることとしか思えない。
足音が大分近づいてきた。
そろそろか、とユタは恐怖を振り切って隠れ場所から飛び出した。先ほどと同じように、ひたすら斜面を下る。
どうにかして、人の手が届かないような穴蔵かなにかに逃げ込みたい。
野生の兎の掘った穴はないのだろうか? 嗅覚をうまく利用してみたいが、知っているにおいの種類が少なすぎる。兎のにおいなんて今まで知らなかったから、かぎわけなんてできるはずがない。
ユタがあまりの解決策のなさに混乱しそうになっていると、突然木々がとぎれた。
黒い壁が視界に立ちはだかっていた。あわてて急停止する。
ユタはゆっくりと視線を上げる。
崖だ。行き止まりになっている。
ユタは頭の中が真っ白になるのを感じた。崖があるなんて、想定外だった。
しかし、前に進めないからといって、引き返すわけにいかない。
早いところ、右か左に曲がらなくては……。
ユタが左に向かって足を踏み出そうとしたとき、なにかが高い音をたてながら頭の上を通過した。続けざまに、ユタが進もうとしていた方の地面に細い棒が突き刺さった。
ユタは飛び道具が発された方をふり返る。
松明が揺れている。人が近い。何人もいる。兎のものよりも精度の高い人間の目ならば、その表情までもがわかるような距離だ。
ユタの足と思考が凍りつく。
狩人たちの内の一人が、手に持った細長い円筒の先をユタに向けていた。円筒に垂直に取り付けられた、弓のような形の装置の弦を、きりきりと引いていく。
撃たれる、と思った。逃げたいのに、なぜか足が動かない。
ユタは恐怖のあまり、目をつぶった。
そろそろ武器が放たれる。そう思ったときだった。
しゃらん、とかすかに鈴の音が聞こえた。
次の瞬間、崖の上からなにかが落ちてきた。背後で低い振動と枯葉のつぶれる音、そして濃密な獣と香のにおい。
飛び道具を構えていた狩人が、弦を引くのをやめ、腕を下ろす。
ユタにはわけがわからなかった。
崖の方を見ようとしたが、その前に首根っこをつかまれた。そのまま持ち上げられ、人間の手の位置にしては低いところでぶら下げられる。
つかまれた部分に粘度のある生温かい液体が付着し、耳に湿っぽい鼻息がかけられた。何かに、くわえられたようだ。
「え……炎狐様!?」
男のあせったような声がした。
炎狐。
贄兎を捧げられる、おそらく祭りの主役のことか。
わざわざ贄兎たる自分を回収しに来たのだろうか? ユタは首をひねる。
ふり返って確認したいが、牙が食い込み痛くて無理だ。
炎狐に害意があるのなら、傷つけないようくわえたりせずに、もっとしっかり食らいついているだろう。
それとも、炎狐は贄兎をじっくりといたぶり殺すことが好みなのだろうか?
どちらにしろ、ユタには対処しようがないからじっとしているしかない。とりあえず、まだ命運が尽きてないことは確かなのだ。
炎狐は動揺した狩人たちに突進した。
炎狐にくわえられたままのユタは首の皮が引きちぎられそうなほどふり回され、痛みで悲鳴を上げそうになる。しかし、兎ののどでは声が出せない。
ユタは必死で歯を食いしばり、痛みと振動に耐えた。周りの風景が左右に大きく揺れ、気持ちが悪くなる。胃の中身が逆流しそうになるが、炎狐はそんなユタにはお構いなしで、ものすごい速さで走った。
狩人たちの群れはとっくに突破し、彼らから大分遠ざかっても、速度を緩めようとはしなかった。
まるで、炎狐は先ほどまでのユタのようだった。何かから、必死で逃げている。そんな気がしてならない。
しかしなぜ、祀られる対象である炎狐が逃げなくてはいけない?
激しく揺さぶられて思考力が低下しているユタには、何もわからなかった。
炎狐の意図、進む先、そして自身の未来さえも。
贄兎をくわえた炎狐は、山の中をどこまでも、どこまでも駆けていった。