兎と狐の月光祭
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 やばい、本当に兎になってしまった。
 いつもより広い視野にうつる黒いふわふわの毛を見て、ユタは舌打ちをしたくなった。
 でも、できない。兎の舌は人間のものとは少し違ったし、今、物音を立てるわけにはいかない。
 ユタは森の中で、ある木の根元の草むらに身を潜めていた。
 大きな耳を少しずつ角度を変えて動かし、周囲の音を探る。鼓膜をふるわせるのは木々のざわめきや、自分よりもっと小さな生き物の息づく音ばかりで、人の気配は感じられない。移動するなら、今の内か。
 だが、身体は安全な場所から中々出ようとしてくれない。昼の熱を失いつつある夜気が、毛の少ない耳に凍みた。

 意を決して、ユタは草むらから飛び出す。息が切れるまで、できるだけ長く走りたい。
 女は「遠くまで逃げろ」と言った。何で村の人間と思われる女が、旅人である自分にそう助言したのかはわからないが、言われなくても村から離れるつもりだ。
 着物も荷物も祠の前に置いてきてしまったが、命には代えられない。
 今は、とにかく生き延びることだけを考えていればいいのだ。
 くい、と足になにかが突っかかった。それは細いひものようだった。ユタが「危ない」と思う前に、ひもはするん、とあっさりと抜けた。
 人間に比べると頭の大きい兎は、つまずけば間違いなく額から地面に衝突するはずだ。
 それは、きっと痛い。すごく痛い。しばらく動けなくなるだろう。
 ユタは、ひもに引っかかって転ばなかったことに感謝した。
 そのとき、ユタの安堵感を吹き飛ばすように、どこかで複数の鐘の鳴る音がした。
 ユタは走りながら小さく跳び上がる。全身の毛が、針のように逆立つのがわかった。鐘との距離は、あまり離れていないようだ。
 ユタは気づいた。先ほど足に引っかかったひもは、罠だったのだ。兎のいるおおよその場所を知るために張られた罠。
 ユタは草むらから出たことを激しく後悔した。
 捕まるわけにはいかない。ユタは走る速度を高めた。体力がいつまで保つかわからない。
 でも、できるだけ遠くにいかなくては。狩人たちは、きっとすぐにやってくる。
 先ほど、犬の鳴き声が聞こえた。猟犬の可能性が高い。茂みで息を潜めていても、獲物の大体の居場所を知った彼らは、きっとユタを見つけるだろう。

 ユタの息が、大分切れてきたころだった。
 立ち止まり、適当な物陰に隠れて休息しようと、辺りを見回す。
 すると、視界の端に光がうつり込んだ。松明だろうか。かすかな生活のにおいが鼻につく。
「いたぞ! 贄兎だ!」
 野太い男の声がした。ざ、と一瞬空気がざわめいた気がした。狩人たちが、色めき立ったのだ。
 ユタは人の声に耳を澄ます。目をこらせば、ぼんやりと炎がいくつか見える。おそらくは、正面と後ろに人々の群れ。犬もいる。
 ユタはとっさに右に向かって走り出した。小さな身体は小回りがよくきく。向かう先からは人の気配は感じられなかったので、そのまま走り続けた。
 様子見のために一度立ち止まりたかったが、足を止めたらそのまま動けなくなりそうな予感がした。
 幸運なことに、まっすぐに駆けていくと途中から下り坂へと変わった。下へ下へと身体の重心が引っぱられるのに任せ、体力の限界ぎりぎりまで走ってみる。
 もうこれ以上走れない、というところで、やっと適当に選んだ木の根の影に隠れた。
 心臓が胸の中で暴れ回っているのがわかる。体中の血管が焼け切れそうに暑いが、人間とは違い、兎の身体では汗が出ない。耳に当たる風が心地よかった。
 ユタは必死で荒い呼吸を押さえつけながら、空を見上げた。
 大分密度の低くなった木の葉の間からのぞく、銀色の満月。
 その冷たく見下ろしてくる様が憎たらしくて、ユタは月をにらみつけた。


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© NATSU

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