小さな背中に捧げる恋のうた
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 桐生さんは、僕がささやきかけた側の耳を押さえ、身体をくるくる回転させながら、辺りを見回している。その内、足をもつれさせて転びそうで怖い。
「だ、だ、だ、だ、だれ? わたしはだれ?!」
 うわずった声を上げながら、桐生さんは頭を抱える。魂は戻ってきたようだけど、自分が何者なのか、ど忘れしてしまったらしい。
 親切な僕は、迷える桐生さんにツッコミという名の優しい手を差し伸べてあげた。
「あなたは僕と同じクラスの、桐生さんです」
「そうなんですか?! そうだった気がする!」
 桐生さんは絶叫しつつ、たどたどしい足取りでさらに一回転半した。
 そして、半ば目を回してふらふらしながら、ようやく僕のネクタイとご対面することができた。
 桐生さんは、目の前にあるコバルトブルーの布地をしばらく見つめた後、徐々に顔を上げていく。
 ネクタイ、結び目、えり元、のど仏、あご、口、鼻、そして……。
 彼女のもうろうとした目が僕の顔をとらえた瞬間、急速に瞳孔が収縮した。双眸の焦点が合い、表情も心なし引き締まった。
 とうとう、桐生さんは僕の存在を認識してくれたのだ。おそらくは、彼女の脳内のスクリーンに明瞭な僕の姿が映し出されているはず。
「き、きりん、さん……?」
 桐生さんは探るような小さな声で、僕のあだ名を呼んだ。どうでもいいけど、「桐生さん」と「きりんさん」って似てるよね。
「そうです、桐生さんのクラスメイトのきりんさんです」
 僕は力強くうなずく。自信にあふれた動作をしているつもりだけど、内心では動揺しまくりだった。
 だって、桐生さんと見つめ合っているのだから。
 今まで話したこともなかったのに。
 名前さえ、覚えてもらえているのか、わからなかったのに。
 桐生さんが、僕のことを、「きりんさん」と呼んでくれた。
 ……ところで、僕の本名、知ってるのかなぁ。まあいいけど。
「き、きりんさん、なぜこんなところに……」
 ただでさえ近い距離にいるのに、桐生さんはさらに一歩前進して、僕を中心とする半径五十センチの円の中、通称「恋人ゾーン(今考えた)」に入ってきた。
 桐生さんがあと十センチ背が高かったら、つまり並の女子高生サイズだったなら、「つめ寄られた」と感じるのだろうけど、僕より頭一つ分以上小さな桐生さんでは、ただ単に「寄られた」としか思えない。迫力がなさすぎるのだ。
 それにしても、桐生さんは僕を不整脈で殺す気だろうか。彼女と僕との距離は空間的に近い、近すぎる。
 空気がひんやりとしているせいか顔は熱くならないけど、僕の心臓は太い血管に繋がれたまま胸の中を暴れ回っている。
 もしこの心臓が暴発したら、僕はこなごなに砕け散って、桐生さんは僕の血を浴びて真っ赤になるかもしれない。
 それはそれで、素敵だと思うけど。でもちょっと、悪趣味かな。
「……わたしがなにをしてたか、見てましたか?」
 桐生さんは今にも泣きそうな顔で、雨の日に捨てられたチワワのように僕を見上げてくる。
 潤っているを通り越して半べそな黒眼に、見飽きた自分の間抜け面がゆらめいているのが、確認できる……ということを認識したその瞬間、
 ぐさぐさどすっどすっ!
 という擬音を数千倍リアルにしたような音が、脳内で響き渡った。
 僕の理性にクリティカルヒット、100のダメージ。理性ゲージがレッドゾーンに突入。
 もう一回チワワ攻撃を食らったら、僕は桐生さんを抱きしめて、いたいけな子犬にするように激しくかわいがってしまうかもしれない。



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