小さな背中に捧げる恋のうた
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「希硫酸は熱濃硫酸に比べて酸化力が強く……」
 先生の声が遠い。
「硫酸を薄めて希硫酸を作る際には、一気に水で溶いたりはせずに……」
「希硫酸」が「桐生さん」にしか聞こえないです先生。
「希硫酸は……」
 ああ、桐生さんどうしているかなぁ。同じ教室にいるんだけどね。
 会いたいなぁ。
 話したいなぁ。
 触れたいなぁ。
 好きだなぁ。
 大好きだなぁ。
 愛してる……かも――。
 僕の意識が再び眠りの世界へと引き戻されそうになったとき、突然ポケットの中の携帯が震え始めた。
「っ?!」
 僕は驚いて飛び起きる。
 お約束のように机を大きく揺らしてしまい、クラス全員が振り返るような音を立ててしまう……なんてことはなくて、少し寝ぼけた僕が一人あたふたとズボンのポケットを漁っているだけだった。先生ですら、板書に集中していてこちらを見ていない。
 机の下で携帯をこっそり開き、画面を確認する。
『着信有り』――桐生さんからだ。
 なんで? 今、授業中じゃないの?
 僕は廊下側の最前列にある桐生さんの座席を確認する。
 いない。けど、机の上に教科書は並べてある。
 保健室かな? さっきまで、元気そうだったのに。そういえば、寝不足みたいだったけど……。
 なんだか、悪い予感がした。早く桐生さんの元に行ってあげないと、大変なことになるような気がした。
 変なところで行動力あふれる僕は、音を立てて椅子を引いて立ち上がる。意外と僕の方を見る生徒は少なかった。先生さえも振り返らない。
 周りがなにも言ってこないのをいいことに、僕は机と机の間を縫って教卓の方に向かった。
 机の横にぶら下げてある鞄が邪魔で、いちいち断りながら進まなくちゃいけない。みんな、ロッカーを使えロッカーを。僕も使ってないけど。
 教室の一番前に来て、ようやく白衣姿の先生は、僕のことに気づいた。
「先生、お腹痛いんですけど……」
 できるかぎりか細い声を出して、先生に訴えかける。
 僕は普段から血色が悪くて痩せていて、自分で言うのも悲しいが弱々しい見た目をしている。だからかはわからないが、先生は無言でうなずいてくれた。
 それにしても、トイレに行くのか、それとも保健室に行くのかも確認しないのか。もし、このまま僕が行方不明になってしまったら、どうするつもりなんだろうか。まあ、ふつうはそんなこと想定しないだろうけど。
「すみません」
 僕はなにも訊いてこない先生の厚意(ではないと思うけど)に甘えて、静かに教室を出た。
 廊下に出たら、保健室目指して一目散に走り出す。一応授業なわけだから、足音は極力立てないように気をつける。
 もちろん、「お腹が痛い」というのは仮病だ。痛かったら階段を二つ飛ばしで降りるなんて芸当はできない。
 今の僕なら忍者にだってなれる……と思っていたら、ポケットから携帯が飛び出した。
「あっ……!」
 携帯はそのまま階段を転がり、踊り場に落ちた。くるくると数回回転した後、ぴたりと止まる。
 僕はあわてて携帯に駆け寄った。持ち上げて手早く全体を確認してみるけど、バッテリーははずれていないし、他に目立った傷はない。よかった。
 動作がおかしくなっていないか調べるために、二つ折りの携帯を開いてみる。
 待ち受け画面の中央に浮かぶ、『着信有り』の四文字。また桐生さんからだ。留守電メッセージ付き。
 なんの用だろか?
 僕は走ってきたことだけが原因ではない動悸を抑えながら、携帯会社の「お留守番センター」へ電話をかけ、スピーカーから聞こえてくる声に耳を澄ます。
 電気信号が空気の波へと変換され、少し変質した高い声が再生され始めた。
『……きりんさん、ごめんなさい。わたし、もう我慢できない。やっぱり呪いじゃなくて、直接ころ』
 す。と言い切られる直前で、桐生さんからの伝言が途切れた。
 不穏な空気がただよい出る受話器の奥から聞こえてくるのは、無機質な機械音だけ。そして、メッセージをもう一度再生するか問う女性のナレーション。


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© NATSU
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