07
目の前でぷつんと糸が切れたように眠ってしまった彼の身体が、畳とぶつかる前に片手で受け止めた俺はそのままゆっくりと床に寝かせて、襖を開けた。
廊下に立っている店員に灰皿を持ってくるように言い、視線を下に向ける。
迎えに行った時は青白かった頬が、今はうっすらと赤に染まっていてなんとも可愛らしい寝顔をしている。
頬が緩むのを感じながら、店員が持ってきた灰皿を片手に床に座ってタバコに火をつけた。
最後の最後で、怖がらせてしまった。うまく懐柔できていたのに。
自分の行動にイラつきながら煙りを肺にめい一杯吸い込んでいると、横になった彼が身じろぎをして仰向けになった。
ネクタイをとって、第二ボタンまで外されたYシャツから覗く、細い首と鎖骨に目がいく。
こんなにもやつれて、辛そうな彼を見て、助けたいと本心が出てしまったが故の言葉だったのだが、どうやら彼は純粋には受け止めなかったらしい。
今まで生まれ育った家に後を継ぐのが面倒だと思ったことはあっても、不満を抱いたことなどなかったのに、初めて自分がヤクザの家の子供であることを恨んだ。カタギの人間だったら、ここまで怖がらせることもなく普通にお友達から始められただろうに。
気づけばフィルターが焦げる匂いがして、もみ消してからさらにもう一本加えて火をつける。
なんでこんな平凡な男に執着しているのか、自分でもよく分かっていない。それでももう、出会ってしまった以上は手放す気なんてさらさらなかった。始めは、放っておけない、偶然にも再会した事への好奇心、ただそれだけだった。
1週間、ほとんど連絡をしなかったのも、仕事が忙しかったというのは本当ではあるが、正直忘れていたというのが事実だった。夜中に気まぐれにメールを送ったが、仕事へ向かう車の中での暇つぶしだった。
仕事を終えて服を着替えて飯でも食いにいくかと思った時に、ふと思い出してメールと同じように気まぐれで連絡をしてみたのだ。
連絡先をあんなに強請ったというのにあまり連絡をしなかった俺に、疑問からなのか、不満からなのか、電話に出た彼の声のトーンの低さに思わずニヤついた。
本人は気づいていないだろうが、会社の側まで迎えに行くと言った時の少し上ずった声が大変可愛らしかった。
怯える猫を手なずける楽しさだろうと、機嫌よく車を走らせて、俺の言葉を素直に聞き入れてカバンを持ってきた彼にさらに気分が良くなった俺は、普段は絶対に人を連れてこない行きつけの料亭にまで向かってしまっていた。
店について、感動しているのか瞳をキラキラさせながらキョロキョロと視線を彷徨わせるその姿にニヤけそうになる頬を抑えて、彼がどうやら安心するらしい笑顔で声をかけた。
酒が入ってからは、どんどんと内側にある想いをさらけ出していく彼に、組の人間からは怖いと言われるニヤけ顔を晒してしまったが、酔った彼はそれに気づくことなくただただ、愚痴をこぼしていった。そして優しい言葉を投げかけるにつれて潤んでいく瞳からついに涙がこぼれた。
これは、完全に心を開くまで後ひと押しだ、と、夜の相手にするように優しく抱きしめると、少し予想外だったが抱きついて大声で泣く彼に再びニヤける。薄い肩をあやす様に摩っていると、徐々に声が小さくなっていき、熱い息が開いたシャツの隙間から肌に触れた。
その瞬間、ゾクッと背筋が震えた。
弱り切った彼が、縋ってくるこの状況にとてつもなく優越感を感じる。そして、それと同時に彼を苦しめる全てを取り払ってしまえば、俺の手元に落ちてくるのではないかと思ってしまった。
『俺が、助けてあげようか?』
思ったよりも、感情のこもってしまった俺の言葉を聞いた彼は潤んだ瞳で俺を見上げた。そして徐々に恐怖の色を濃くしていったその顔を見て、ああ、失敗したと思った時には俺の腕の中からすり抜けてしまっていた。
表情を取り繕って言い訳すると、慌てた様子で「助かります」と口にした彼に、こんなお人好しじゃ、俺みたいな悪い人間にとって食われてしまうよ、と内心あきれつつも黙っていた。
すると彼は俺が予想もしていなかった言葉を吐き出した。
『でも、嬉しかったです。話を聞いてもらえて、理解してもらえて。・・・ありがとうございます』
そう言って浮かべた彼の笑顔に思わず見惚れていると、冒頭にある様にぷつんと糸が切れたように眠ってしまったのだった。
「あー、これは、完全に・・・」
落ちた。
どうやら俺は、この平々凡々な疲れ切って青白い顔をした彼に完全に落ちてしまった様だ。
2本目のタバコはとうに吸い終えて、灰皿を隅にやって襖を閉める。
畳の上でスヤスヤとあどけない顔で眠る彼の頭を撫でると、感じたことのない幸福感が俺の中を満たしていく。
今までと変わらず、ただ気に入っただけだったら、まずは身体から、と思っていたかもしれない。実際今まで気に入ってきた女も男も、だいたい俺が優しく声をかければ簡単についてきて足を開いた。一夜限りの相手もいれば、気に入れば2、3回呼び出したこともあった。
あぁ、そういえば、修羅場になって女と男が殴り合いのケンカをしているのをただただ何も感じることなく眺めていたこともあったっけな。
途中から面倒になって、ホテルから出た俺はその後どうなったのかも知らない。多分、組のやつがどうにか片付けたんだろうけど。
そんなクズなことをしてきた俺を、彼には知られたくないなと思うほどには、彼のことを好いている自分に少し吐き気がするが、なってしまったものは仕方がない。
頭を撫でていた手を頬に滑らせると、酒で火照った身体に体温の低い俺の手が気持ちいいのか、口元を緩めて擦り寄ってくる彼を、正直抱き潰してしまいたい。
この細い身体を組み敷いて、押さえつけて犯すなんて簡単だろう。
ヤってきた相手に言わせると、セックスが上手いらしい俺は、彼を気持ちよくさせる自信は存分にあった。
でもきっと、犯した後に俺を見る彼の瞳は恐怖に染まっていて、二度とさっき見せてくれた様な笑顔を向けることはないんだと分かっている俺は、そんなことはできない。
どうやらこの可愛らしい彼に本気になった俺は身体だけじゃなく、しっかりと心まで自分のものにしたい様だ。
これは、多分、初恋だ。
柄にもないことを思い浮かべて、でもその言葉がしっくりくる。
いいと思った相手がいなくなった時、別の誰かのものになった時、寂しいと思ったり悲しいと思ったりしたことはある。それは、すぐに忘れられる程度の思いで、何が何でも自分のものにしようなんて思わなかった。
しかし、目の前の彼に関してはどうも違う。他の誰かに渡すなんてことになったら、俺はその相手を手にかけてしまうかもしれない。想像するだけで体内の血が沸騰しそうになる。
「ごめんね、はるちゃん。逃がしては、あげられないみたいだ」
こんな獣じみた俺に、ヤクザの俺に惚れられてしまった彼に心底同情しながらも、諦める気はさらさらない俺はこれからどうやって彼を口説いていこうか、と生まれて初めての高揚感を楽しんでいた。
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