006



 『菊』の人たちは、祖母の肉じゃがに大変喜んでくれた。
 「いつもおいしいご飯ありがとうございます」や「これで国家試験頑張れるってばあちゃんに伝えておいて」に加え、「勉強わかんないときはいつでも言っていいよ」とまで言ってもらえた。このことすべてを祖母に伝えるべく、僕はぶつぶつと一人呟きながら、往復五分とかからない道を歩いていた。『菊』の人たちは、将来大きな目標に向かって頑張る人たちばかり、らしい。先生や医者に学者、すぐ近くに理系の公立大学があるから、あそこの学生さんだと、祖母はいつだったか教えてくれた。
 日も暮れた七時頃。頭の片隅で今頃祖父がニュースでも見ているのだろうか、祖母はまだか、まだかとソワソワしていないだろうか、などと思いながらも、頭の中ではしっかりと大学生のお兄さんたちが残してくれた伝言を浮かべる。
 ふと、視界に入った。真っ白なセーラー服を着て、真っ黒な黒髪に紺色のスカートを揺らしながら、若い男性の手を引っ張られながら歩く、たった一人の女性の姿に、僕の心臓は口から飛び出るかと思った。
 「えっ………?」
 まさかと思った。心臓がやたらと早く動く中、僕は「おねえさん」の単語が口から出るのを前に、男性の服に気がついた。真っ黒なスーツに、しっかりと上までしめられたネクタイ。
 どくん、どくん、と何度も心臓が早く動く。
 どうしてこんなところにおねえさんがいるのかもわからなかった。おねえさんは、祖父がお迎えに行ったのではないのだろうか? おねえさんと同じ学校の人であれば良いのだけれど。
 おねえさんが男性に向かって何かを言った。ぱくぱくと口を動かしたけれど、男の人は、おそらく何かを言っただけだった。おおよそだけれど、一言二言。
 僕は、なぜだか見てはいけないような気がした。おねえさんがスーツをしっかりと来たお兄さんとで歩く姿を、見てはいけないような気がした。
 だから僕は慌てて、走って家へと駆けこんだ。見てはいけないような気がしたから、慌てて玄関の引き戸も閉めた。ほんの少し走っただけなのに、ずいぶんと長い距離を走った気がするのは、見てはいけないモノを、見てしまったからなのだろうか?
 「あら、けんちゃん、どうしたの? 顔真っ青よ?」
 あんまりにも乱暴に閉めてしまったからか、祖母が眉を八の字にして、割烹着を着たまま玄関まで迎えに来てくれた。居間と玄関の間には段差があるというのに。
 「えっ、そ、う………かな? 『菊』の人たちの教科書のぶ厚さを見たからじゃないかな?」
 「あらまあ!」
 くすくすと笑う祖母。
 本当はうそだ。『菊』の人たちの教科書なんて一度も見たことが無いけれど、これしか言えなかった。

 「それじゃあ! 垣本! 教科書四七ページの問三を! 前に出てやってみるんだ!」
 次の日、先生は予告通り、授業開始の号令が終わった第一声がこれだった。
 何も今日一発目の授業が算数じゃなくてもいいじゃないか。
 何も今日一発目にわざわざ僕に当てなくてもいいじゃないか。
 「はい」
 普段だったら思っていたことを、今日ばっかりは思うことなく、黒板の前に立って思いっきり背伸びをする。
 決して僕が小さいわけではない。全身紺色のジャージに、今日は青色の無地のティーシャツを着てきた先生が大きいんだ。どうやったらこんなにも大きくなれるんだと思うほどの長身の先生は、黒板の上から書いていく。きっと先生がまだ『菊』の人たちと年齢が変わらないときは、バスケットボールかバレーボールでもしていたのだろう。そうでなければ高すぎる身長だ。
 先生があんまりにも考えずにめいいっぱい上の方に書くものだから、僕も頑張って上の方に書こうとするけれど、普段なれることのないチョークと、まだ成長中の僕の身長では、右肩下がりと、いつもより汚くなる文字。さらには先生が書いた「問三」も文字よりもかなり下の所からでしか書くことが出来なかった。
 先生はきっと「教室にたくさんの子供がいる」ということを想像したうえで黒板に文字を書いたのだろうけれど、ここの地域は本当に子どもが少ない。だから黒板の文字を一番上から書く必要なんてない。ちょっと真ん中よりも上から書き始めるのがちょうどいいぐらいなんだ。
 最後の文字を書き終えて、先生の顔をじっと見る。教科書と黒板の文字を交互に見つめること数回。大きく頷いて、先生はまた大きな声で言った。
 「完璧だな! ハナマル百点満点だ!」
 チョークのついていない先生の左手で、僕はみんなの前で乱暴に頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。豪快な先生だから、僕の頭が何度も左右に揺れる。
 「解説を始めたいと思う! 垣本! よくやったぞ! ああ、席についていいぞ?」
 ニコニコと笑う先生。なんだか僕まで嬉しくて、心が温まる気持ちだった。

 教室の窓ガラスが先生の声で今日もびりびりと揺れた。先生は教室内に小人数しかいないことをすっかり忘れているのか、はたまたおねえさんの言っていた「熱血体育会系」の先生だからなのか、主席確認の点呼から授業終了後まで、本当に大きな声だ。
 「垣本くん、少しいいかな?」
 午前中の授業が終わり、僕はいつものように給食を食べたら図書館に行こうと思っていた。クラスメイトの、名前も分からない子が言った。
 「よかったら一緒にご飯食べようぜ!」
 「でさでさ! お昼休みにみんなでドッチしようぜ!」
 どうして急にこんなことを言い出したのかが、この時の僕には全く分からなかった。
 けれど、誰かと一緒にご飯を食べて、お昼休みになれば一緒に遊ぶということが、僕の疑問すべてを吹き飛ばしてくれた。
 だから、僕は、
 「うん! いいよ」
 なんて笑顔で返事をしてしまった。





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