028
「あなた、まさかそれで汗だくだったってこと? 馬鹿じゃないの?」
美味い飯を食わせてやると豪語した少年のお父様が連れてきてくれた場所は、あろうことか少年の祖父母の家だった。私が一度だけ来たことのあるあの家だった。
あの時と比べてなんら変わらないこの家に来た私は、もちろん汗だく。さらには長袖をまくっていたとはいえ、予想最高気温三八度の中、ほぼ一人で、実のお母様が眠っているであろうお墓を掃除していた少年は、熱中症と脱水症状寸前の状態。たった一人、運転をするからと、私と少年にスポーツ飲料水を、オープニングセールをしていたコンビニで買ってくれた、少年のお父様。
「フジミだって、ずっと自分の子供の成長が見たかったって言ってたんだ。せっかく来たんだから、こいつ一人でやらせるのが一番だってんだ」
「だからって、ケンちゃんが倒れたらどうするのよ」
「男がこれぐらいで倒れてたまるか!」
なんという豪語っぷりだろうか。本当に倒れたらどうするんだろうか? 私の記憶が正しければ、この地域に病院らしい病院なんて、車でもかなり時間がかかる。おおよそ一時間は見込まなければならないのに。それほど、この地域は田舎なんだ。
「狭間木の御嬢さん」とよばれた私は、口の中に入れていた梨を、慌てて噛み砕いては呑み込んだ。たしかに少年のお父様が言うように、美味しい。
「少し、良いかい?」
手招きをするよう私を呼び出したのは、少年のお爺様。嫌な予感しかしなかった。
「お家の方は片付いたかい?」
少年のお爺様は、私を二人がいる居間とは離れた所にある、とある和室に連れてきた。八畳もあるこの部屋だけれど、ずいぶんと殺風景だ。一応窓はあるけれど、外からの景色と言えば、本日の雲一つない青空だけ。小さな膝小僧ぐらいの高さしかない机に、三段ほどの桐箪笥。押入れらしきものがあると推測できる襖もあるけれど、たったこれだけなんだ。
「………一応、なんとか片付きはしました。おかげさまで。ご心配をおかけしました」
深々を頭を下げれば、お爺様は「そんなつもりで言ったわけじゃない」と、どこか申し訳なさそうに言った。
「知っていたんだ、噂で聞いたことがあってね、お嬢のお父様が会社のお金を使って借金返済をしていた。事務の人間から怒られて首を飛ばされ、嫁さんが出て行ったと」
ああ、やっぱりかと思った。田舎のこういったところを見くびってはいけなかったんだ。
「知っていたんですね」
「ああ、こんなナリでも、元新聞記者なんだ。情報収集なんぞ朝飯前だよ。狭間木お嬢、貴女の家の事は調べればすぐに出てきた。だから、私は知っていたんだ、なのに」
初耳だった。こんな田舎なんだ。元新聞記者の人が住むともなれば、一体どれほどの噂がこの町で流れることになるのだろう? このお爺様、只者ではないな、なんて考える余裕もなかった。お爺様は深々と頭を下げ、肩を震わせながら言った。
「孫の恩もあろうに、貴女のことを、見逃し、目をそむけ、見なかったフリをしてしまった………本当に、申し訳ない」
お爺様の震える肩は、演技ではない。声までもが震えていた。
「えっ…………?」
あんまりにも急すぎることで、私は驚いてしまった。だって、少年のお爺様とは、本日のお許しをいただかなければ、完全なる他人の子なんだ。なのに、私がお爺様を許すなんて、わけがわからなかった。
「待ってください、意味が分かりません。お爺様を許すだとか、許さないだとか、私は」
私が唯一許さない相手とは誰だろう? 考えなくともわかる。
自分が勤めていた会社の金を使い、多くの人間に多大なる迷惑をかけ、自分の娘を売り飛ばした人間。自分の旦那が借金発覚とほぼ同時に家を出て、とある本に触発されるまでは、自分の娘を『醜子』呼ばわりした人間。この二人だけだ。少年のお爺様は、私に対して一体何を、ましてや悪いことなんてされた記憶がなかった私は、頭の中でぼんやりととあることが浮かんだ。
『狭間木の御嬢さんがどうしてうちの孫と一緒に公園にいたんだい?』
あれは、いつだったのだろうか? おそらく私と少年があって間もない頃だったはずなんだけれど。
『公園で、たまたまです………大丈夫です、ご安心をしてください、あなたのお孫さんに下手な真似をする気はありませんので』
『それぐらい当たり前だろう! とでも言うと思ったのか?』
あの時もたしかきれいな夕焼けだった。私がまだ北高の制服を着ていたころだから、おおよそ売られる前の頃。
ああ、と私の中で合点がいった。
初めて少年が、祖父母と一緒に住んでいると知って、この家に来た時だ。勉強を見て、家庭教師まがいのことをしたあの時だ。
あの時、私は帰りを少年のお爺様に見送ってもらった。
『困ったときはお互い様だ! なに、遠慮はいらんよ』
あの時、夕焼けに照らされながら、綺麗な笑顔を見せてくれた少年のお爺様。
「私は、狭間木お嬢と初めて会った時、困ったときはお互い様だのなんだのと、ずいぶんと偉そうなことを言ってしまった。けれど、結局なんら手助けをすることもなく、気がつけばお嬢は売られてしまった……なんの、手助けもできず、申し訳なかった」
「そんなっ! 別にこれはお爺様のせいではなく、むしろ」
『私の出来そこないの父親のせいです』と言おうとした言葉を、呑み込んでしまった。小刻みに震えたお爺様の肩が、震えたか細い声が、私が『そんなことない』ということで、余計に傷つけてしまいそうで、怖かった。
「ならば、お願いがございます。これ以上、ご自分を責めるようなことを言うのはやめてください」
おおよそ、今の私が言えることは、これが精一杯なのだと思う。私は、あの二人以外を、借金の件で攻めることをしないけれど、もしも、と思う。あの他家の人間でどうしようもなかったお爺様がご自分をこれ以上責めるというのであれば、私の願いはこれに限ると思う。
「私は、お爺様を責めることなんて一切いたしませんし、出来ません。だって、私は私の父親のせいで、あの人が返済を放棄したせいでこうなったんです。私は、もしかしたら売られることが無かったかもしれないのに、母親が出て行った結果、こうなったんです。ならば、お爺様にはほぼ無縁の事でしょう? 私はお爺様には何の私怨もございません。だから、気を落とさないでください」
おおよそ、今のお爺様にはこの言葉が一番だと思った。小刻みに震える肩と、膝から崩れ落ち、両手でご自分の瞳を隠しながら、何度もよかった、本当に申し訳なかったんだと言うお爺様。
少年は、とても幸せな環境で育ったんだと、心底思えた。何かがあれば顔を真っ青にして、少年のことを思ってくれるおばあ様と、心優しいお爺様。世の中、自分の娘を、子供を「自分をキラキラに見せる道具」としか扱えない親なんて、ごまんといる中、本当に少年は恵まれていたんだ。
「むしろ私はお爺様たちには感謝をしているぐらいなんです。お爺様たちが私が大好きな少年を、ケンくんを引き取ってくれたことを。だから私は彼と出会うことが出来たんです。しかも事情を知ったうえで、私までもを歓迎してくれた。むしろ私は『ありがとう』と言うべきなんですよ」
そっとお爺様の両手を包むように言う。何も嘘なんてついていない。全部、ぜんぶ、本当の事なんだ。
借金を放り出して連絡がつかなくなった父親のことも。つい最近までは自分の娘のことを『酷子』と呼んでいた母親のことも。
私がまだ売られる前に出会ったあの時の小学生が、まさか弁護士になって私を助けてくれただなんて。私が、その弁護士さんを好きになってしまっただなんて。全部、本当の事なんだ。小刻みに震えながら、何度もよかったと言うお爺様。
私は、しばらくの間、動かないほうがよさそうだ。
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