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 「遅くなりました、ごめんなさいっ!」
 一気に階段を駆け下り、また全速力で階段を駆け上がるという、とんでもない運動量をこなした私は、両手に持っているバケツの水がこぼれないように、地面に置いた。なんせ階段の量もすごいけれど、ここはもともと山を切り崩した霊園。斜面も決して緩やかではないから、普段から運動なんてしない人間が、この階段を全速力で駆け上がるなんてことをしようものであれば、どうなるか? 安易に想像がつく。
 「お疲れさん、姐さん………えらい息が上がってるけど、大丈夫かい?」
 少年のお父様は、日頃、運動不足の私が、この霊園の階段を一気に駆け下りて、さらにバケツ二つ分を持ってまた全速力でこの階段を駆け上がるという運動をしたことを知ってか知らずか、のんきに「大丈夫か?」なんて言ってきた。
 「だ、だい……じょう、ぶ………です」
 実際は大丈夫なんかじゃない。日頃は本当に運動をしていないこともあってか、息が途切れている。幼い頃からずっと続けていたスポーツというものがなかった私からしてみれば、この階段はなかなかにしんどい。
 「あっ、もしかして」と少年のお父様が何かを思いついたように言った。
 「水を持ってくるとき、まさか一番下の駐車場のすぐ近くの井戸から持ってきたの?」
 「………はい、いけなかったのですか?」
 どこか悪そうに言う少年のお父様に、自分があそこから水を持ってきてはいけないのだと思った。
 「水を持ってくるだけだったら、一番近くだとここから三段上がったところに蛇口があるから、そこから汲めばよかったのに」
 右斜め上をさして言った少年のお父様。嘘だろと思った、この暑い中、決して慣れていないわけではないけれど、それでも全速力で走るのには少しつらいヒールのあるパンプス。あんまりにも暑すぎて、一番下に着いた時には、腕で持つようにしたカーディガン。もう一度この場所に戻ってきたときには、汗が止まらなかった。額から流れる汗が、背中や首元からの汗が、止まらなかった。
 「………先に言えばよかったな、悪いわ」
 後でなんか美味いもん食べるぞ、といった少年のお父様。ありがたいけれど、と思いながら少年のお母様が眠っていると思わしきお墓を見る。『藤咲家之墓』と書かれていることに違和感があるけれど、こんなことは実はどうだっていい。
 「……………何があったんですか?」と聞く。
 「自分の母親の墓掃除をさせて何が悪い」と少年の父親。
 一ミリたりとも悪くありません。むしろ別に悪いことではなく、良いことなのでしょう。
 けれど、汚れるとわかっているジャケットを脱いだのは、おおよそ正解でしょう。下に着ていたカッターシャツは腕まくりをし、さらにはネクタイをジャケットの上に、丁寧に畳んで置いている。
 だけど、と思う。
 なにゆえ素足。普通に考えて、暑いだろう。
 なにゆえ少年たった一人で、てきぱきとやっているんだ。すると少年のお父様が小さな声で「姐さんはさ」と言ってきた。
 「あいつが小学生の頃にいじめを受けてたって知ってんの?」
 意外な言葉だった。少年のお父様と少年は、幼い頃の接点は、ほとんどなかったはず。なのに、どうしてこんなことを口にしたんだと思ったけど、はっとした。私が戻ってきたときにはもういなかったあの男性。あの人が口を滑らしたんだ、と。
 「…………ええ、知ってます」
 むしろこれが原因で知り合いました、とまで言うべきなのだろうか悩んでいた私は、ちらりと少年のお父様の顔をのぞいた。渋い顔で、なにか奥深いことを考えていた。
 やがて、そうか、と小さく呟いた少年のお父様。少し、さみしいのかな、なんて思ってしまった私は、なんて言えばいいのかが分からなかった。
 なんせ私の父親がアレだ。まともな父親の姿だなんて、あれを実の父親とする私からしてみれば、想像もつかない。
 たしかに少年はあの時、とても寂しそうだった。たった一人で抱えきれないようなものまで抱えて、あのままだと潰れていた。
 でも、少年は言ってくれた。
 『大げさに聞こえるかもしれませんが、僕はあの時、本当に、心から絶望していました』
 『おねえさんに会った時、僕は本当に楽しかった。たった三日間という短い期間だったけれど、僕にとってはかけがえのない三日間だった。あの三日間がなければ、今頃僕はこの世にいたかどうかぐらい、本当に楽しかった』
 私は、本当にたまたまだった。家に帰りたくなくて、帰れば父親として尊敬していた人間を、絶望してしまった父親と二人きりの空間が、私は嫌だった。学校にいても「あの狭間木」として見られることが多くて、だからたまたまふらふらと歩いていて、公園の前を歩いていて、見つけたのが少年だった。
 「あのっ!」
 言うべきかどうか悩んだ私は、言おうと思った。否、言わなければならないと思い、
 「あっ、おねえさん戻ってきたんですか? 悪いのですが、上から水をかけたいので、バケツを一つとっていただけませんでしょうか? 水をすくう道具もバケツの中に入れていただければ、ありがたいのですが」
 なんでこのタイミングでこれを言うんだ少年よ!
 ぐっと言いかけた言葉をおさえ、少年にたっぷり水が入ったバケツを渡す。ついでに「水をすくう道具」は柄杓だ。これで「ひしゃく」と読む。首元にタオルをかけ、汗まみれになった少年は、どこかすっきりと達成感を味わった顔だ。
 「えっと、姐さん? なんか用か? 『あのっ!』ってなんだ?」
 これを今言えというのでしょうか、お父様。










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