002



 この日も、僕は公園にいた。理由は簡単で。
 しばらくすると、お姉さんもやってきた。
 「少年、また公園にいるんだ? 今何月か知ってる? 風邪ひくよ」
 「お姉さんみたいに年取ってないし、子供は風の子だって言うだろ?」
 この日のお姉さんは真っ白なセーラー服に、紺色のブレザーを着ていた。理由が『一月という真冬の冷たい風を、防寒着なしで外を出歩くのは、とてもではないけれど出来ない』からなんだろう。
 この時の僕は、冬用のコートが土で汚れないようにランドセルの上に丁寧に畳んで、腕まくりをしながら上履きを洗っていた。
 この南国の地域では珍しく氷点下を大きく下回るほどの寒さだというのに、僕は外で、しかも公園の冷たい水で、上履きをごしごしと洗っていた。感覚もなくなりかけていて、両手が真っ赤になりながらも、上履きの「落書き」を消すために、僕は真冬の寒空の中、冷たい水で「落書き」を消していた。
 「あら少年、意外と生意気ね………ランドセルの『落書き』を消してあげたのは一体どこの誰だっけ?」
 挑発するように笑うお姉さん。ぴたりと洗う手を止めて、ゆっくりと後ろを振り返れば、得意げに言いきたお姉さんの顔があった。『県立北高等学校』の名札に、真っ白なセーラー服と紺色のスカートに、赤色のリボン。相変わらずカバンはもっていないけれど、この時の僕からしてみれば、お姉さんがどうして鞄を持っていないかだなんて気にもとめなかった。
 ぐっと悔しくのをこらえながら、僕はまた手を動かす。今日は子の上靴の『落書き』を消さないと、家に帰れないんだ。
 「しっかし、君も酷なもんだね」と、お姉さんが続けるように言った。
 「何が?」
 「それ、いじめって言うんだよ。なんで家の人に言わないの?」
 「いじめなんかじゃないよ」
 ごしごし、ごしごし。
 僕は何度も上履きをこすりながら『落書き』を消していく。
 「いや、いじめでしょ、それ………だったら、少年が『僕の上履きに書いてください。僕はもらわれっこですって、卑しい子って、書いてください』って言って書いてもらってるの? もしくは書いてもらってうれしいの?」
 「そんなわけないだろ」
 ごしごし、ごしごし。ごしごし、ごしごし。
 片面が真っ白に消えれば、もう片面。片方が終われば、もう片方。もう、気がつけば手は真っ赤だ。
 「じゃあ、なんで言わないの? 県警や教育委員会の力は偉大だよ? 家の人の力だってあるのに」
 ぴたりと、止めるはずのない僕の手が止まった。
 「家族の力ってさ、時にすごいんだよ? バラバラなものが一瞬でつながることもあるし、逆の時もあるんだよ? けどさ」
 「もらわれっこがこんなこと言えるわけないだろ!」
 どうしてこの時、僕はこんなにも大きな声で物事を言えたのかが、全く分からなかった。
 ただ、何も知らないような口調で言う彼女の言葉が、僕は悲しかった。
 「おじいちゃんや、おばあちゃんが! やっとのことで僕のことを認めてくれたのに! 学校でこんなことされてるってわかったら、また、僕は」
 すぐ近くにいるのにわざと大きな声を出したことで、やっと気がついた。
 ランドセルの中に入ったくしゃくしゃの、何枚もの百点満点のテスト用紙。
 先生から背伸びをしてみろと言われて受けた、好成績の学力模試の結果。
 クラブ活動で優秀な成績をおさめたからと、先生からもらったくしゃくしゃの賞状。
 きっと僕は、
 「また見捨てられるじゃないか」
 ぼろぼろとあふれる涙が止まらなかった。
 僕は怖かったんだ。母親の、僕がいなくなるとわかって笑顔で見知らずの男性の手を取ってどこかへ行く姿が、まるで僕は初めから必要とされていないように思えて。
 僕は恐ろしかったんだ。母親と別れ、父親とも別れた後、笑顔で出迎え、まるで前から自分の子供であるような扱いをしてくれる祖父母から、また必要とされず、捨てられるのでは、と。
 冷水をずっと扱っていた手で涙をぬぐう。年上の女性の前でぼろぼろと泣いてカッコワルイ、なんて思う時間もなかった。なんで自分の感情すらも気がつけなかったのかと思うと、自分が悔しくて、たまらなかった。やがて頭の上に置かれた、温かくて大きな掌に、僕は涙を流しながら上を見上げた。
 「言えばいいんだよ」
 真っ白な歯を見せ、笑いながら言ったお姉さんは、ゆっくりと僕と同じ目線に合わせるようにその場に座り込んでいった。
 「寂しかったら寂しいって言えばいんだ。悲しかったら悲しいって言えばいいんだ。辛かったり、怖かったりしたらちゃんと言えばいいだ。無理してテストで良い点数を取って、それで認めてもらおうなんてしたって見放されたりしたら、結局、悲しいしつらいし、嫌なだけだろう?」
 ゆっくりと頷けば、お姉さんは優しく笑って、僕の背中を優しく押してくれた。
 「さあ、お迎えの時間だよ………少年の大事な人が待っている」
 ちゃんと僕の手に僕のランドセルともう片方の上履き、それに冬用のコートを持たせて、公園の出入り口を振り向かせる。行っておいで、の小さな声の意味が分からなかったけれど、
 「おばあちゃん、どうして」
 公園の入り口で、小さな祖母の姿を見た。慌てて家から出てきたのか、薄汚れた割烹着に、嫁入り前に近所のハナマルデパートで買ったと言っていた空色の防寒着。
 「けんちゃん!」と言った祖母の震えた声なんて、気にもとめなかったし、後ろで微笑ましそうに笑っていたお姉さんのことなんて、頭になかった。地面を蹴って、僕は祖母に抱きつくと時間を忘れて泣いてしまった。


 ずいぶんと後になってから知った。
 家から僕と同じ小学校に通っている生徒たちが、家へ帰るのを祖父母がたまたま見たらしい。けれど二時間たっても、三時間たっても一向に帰ってくる気配のない僕に、最初こそ祖父は「友達が出来て公園で遊んでいるんだ」と新聞を読んでいたらしい。
 ところが四時間たっても帰ってこないことに気がつき、晩御飯の用意も途中で切り上げ、祖母は慌てて家を飛び出して探しに行き、これで見つからなければ警察に捜索願を出そうかと本気で考えていたそうだ。
 家に帰りつくなり、祖母と僕、二人でお腹を空かせた祖父に仲良く怒鳴られた。
 「晩御飯まだか!」




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