025



 「狭間木さんのところのお嬢さんでしたよね、あの子」
 おねえさんが下の井戸まで水を汲みに行ったころ、菊に住んでいた人が言った。
 「あの娘も不運ですよね、あそこの旦那さんが借金返済のために会社の金を使い込んで、娘さんが売られるなんて」
 菊にすんでいた柴田さんがどこか悲しそうに言う。僕は柴田さんのことをよく知っている。柴田さんは教員免許を取りたくて、けど家に金がないからって地元でもあるここの村のすぐ近くにある、国公立大学を行きながらアルバイトを続けていた人。今はどうなったのかは知らないけど。
 「でも今は幸せそうですけどね」と父親がすぐさま言う。あんまりにも意外すぎる発言に、僕はお墓の前で手を合わせていたというのに、おもわず父を見てしまった。
 「私は、以前の彼女にお会いしたことがあります。あの頃の彼女は、どこか死んだ魚のような目をしていました。生きることに絶望を感じていた、とでも言うべきでしょうか? けれど、今の狭間木お嬢は、今ある生活に満足している、とでも言えばよろしいのでしょうか? とても、幸せそうに見えました。少なくとも、彼女が幸せだったころに比べ、はるかに今の方が生活が充実しているようにも見えますけどね」
 空いた口がふさがらない、とはまさしくこのことなのだろう。この人は、おねえさんをそういったふうに見ていたとは、僕は知らなかった。
 八月中旬、最高気温がまさかの三八度まで上がるとの予想が出たこの地域でも、やっぱり蝉は煩い。ましてや田舎だから山なんて無駄にある。土地なんてあほみたいに残っている。ミンミンと鳴く蝉の声だけが、数秒間だけ流れた。
 やがて、静かに「よろしいんですか」と柴田さんが言った。
 「よろしいんですか、とは何がですか?」
 「何がではないでしょう!」
 きっと柴田さんはこの暑さとあんまりの驚きで頭のねじがどこかへ行っていたのだろう。加えて、冷静な判断が出来ずに、思わず声を高らかと出してしまった。はっと口元をおさえても、遅かった。
 田舎の墓地なんだ。言うほど立派ではないけれど、霊園なんだ。普段は都会にいるけれど、この盆休みぐらいは帰省をした人と、せっかくだからお墓参りに来たという人たちが、いっせいに柴田さんを見た。突然大の男が大きな声を出せば、注目の的となる。
 「何がとは、なんですか。狭間木さんですよ? あの、狭間木さんなんですよ?」
 こんどはあまり大きな声で言わなかった柴田さん。なんとなく、言いたい意味が分かった。
 きっと柴田さんが言いたいのは、『会社のお金を自分で作った借金返済に充て、さらには残額の借金返済に困ったから実の愛娘を売りとばした。実の父親として神経を疑わざるを得ない目で見られてもおかしくはない、あの男の娘』の狭間木お嬢と、自分の子供を一緒にさせてもいいのか、ということ。加えてたしかおねえさんの親戚一同はそこそこの実業家や投資家が多い。何か言われたら大丈夫なのか、一体どう乗り切っていくのか、そんな問題児のような娘を、自分の子供と一緒にさせて、本当に父親として許すのか、と。
 「藤咲さん、あなたが何を考えているのかは、俺にはまったくわからん。けどな、俺だったら絶対に狭間木のお嬢だけはごめんだ。そりゃあお嬢は美人さんだ。頭だって、あの北高に行ったって実力がある。加えてスポーツだって出来る。料理も裁縫もできる。べらんぼう優秀なお嬢さんだよ。けどなあ、父親は借金返済が嫌になって実の娘を売り飛ばすわ、このことで親戚中から煙たがられ、縁を切られ、こんな娘を一体どこのモノ好きが人生のパートナーとしてもらうってんだ。いっくら条件が良すぎたって、こればっかりは無理だろう」
 「僕はおねえさんのことが好きです」
 あんまりだと思った。確かに予想はしていたし、なによりも言われることはわかっていた。
 調べればすぐにできてた。おねえさんのお父様のお兄様は、かなり腕のいい、投資家。家も大きく、また、僕はこの界隈がよくわからないけれど、この人はかなり投資家としては有名な人らしい。さらにおねえさんのお母様側もすごかった。僕は詳しくない世界だけれど、業界としては有名なデザイナーや、業界では著名人ばかり。僕は詳しくないから知らないけど。
 きっと柴田さんの言いたいことは、自分の子供がもしも結婚をするとなった時、この人たちから、これからの一生、何かを言われ続けなければならないということ。たしかに業界ではかなり腕のいい有名人を相手に、自分の一生涯だけでなく、下手をすれば自分の子供までもが何かしら言われるのは、納得がいかない。
 けれど、僕は思う。
 「柴田さんはおねえさんの見た目が良くて、周りが煩いからこんな子、なんて言い方を仰るんでしょう? でもその周りを黙らせてしまえば、別に今後の心配なんて一切する必要はないじゃないですか? それに、本人を好きになることと、周囲からとやかく言われぬために、その人を好きになることは違うと思います」







[ 37/48 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -