019
扉が開く音がした。
「誰だろ」
もうすぐお風呂を出ようと思っていた私は、当然ながら衣服を着ていない。夏場でもお湯につかる私は、不思議に思いながらも立ち上がり、
「おねえさん、垣本です。ただいま戻りました」
心底危ないと、再び肩までお湯につかる。
もしもあのままお風呂の扉を開けていたらと思うと、いくら少年であったとしても、危ない。私の心臓が保ってくれない。
「ごめんなさい、仕事が片付かなくて」
「い、いえ」
鼓動が速くなる理由は、私がよく知っている。決して裸を見られるかもしれない、なんてことではないことも。扉から聞こえる少年の声が、これほどまでに悲しくて、遠いと思う理由も、私自身がよく知っている。
「今日は僕が晩御飯の用意をしますね。おねえさんはもう少しゆっくりお風呂に入ってくださって大丈夫ですので」
「………えっ?」
びっくりしすぎて、あれほど煩かった鼓動が、ぴたりと止まるかと思った。
少年が料理をできる、出来ない、ではない。
「待って」
少年が、このままどこかに行ってしまいそうで、怖かった。
私を一人にしないで。こんな子供じみた感情を、いい年をした私が、いつまでも持っていてどうするのか、ということは十分わかっている。
それでも、怖かった。また、一人になってしまうのではないのか、と。お風呂の扉を勢いよく開けて、少年の背中に抱きつく。お風呂に出たばかりだとか、この時の私には考えるだけの余裕がなかった。
「おねえさん?」
とても驚いていると言わんばかりの少年の声。
けれど、言わなければならなかった。大きく息を吸い込む。心の中で、自分を偽ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせる。二度目の深呼吸を終えて、もう今しかないと思った。
「私は、少年には本当に感謝をしている」
もしかしたら、声が小さすぎるかもしれないし、逆に大きすぎるのかもしれない。身体が震えていて、少年に「いい年をした大の女性が」と思われているのかもしれない。
けれど、どうしても言わなければ、伝えなければと思った。
「地獄のような毎日を過ごすことしかできなかった私を、お日様の光が当たる表に出してくれた。それだけでなく、私が本来あと何年も働いて返さなければならないお金を、少年が肩代わりをしてくれて。私は、本当に少年に感謝をしている。けれど」
「おねえさん、それはっ!」
くるりと振り返った少年。
わかっている、私だって馬鹿ではない。
私がまだ女子高校生だった頃、父親の借金が発覚して、母親が出て行ってまだ日数もさほど経っていない頃のこと。これからどうしたらいいのかが分からなくて、ぶらぶらしていたところを、ひどいいじめを受けていた少年とばったりと会った。あの後、私はすぐに売られてしまって、少年と会うことは出来なくなった。
それでも、と思う。
「私だって、少年といっしょにすごしたあの三日間は、すごく楽しかったんだ」
事実、私だってあの数日は「現実」を忘れるのには、十分すぎた。借金が発覚して、煩い親戚連中から毎日毎日、一切の手を貸すこともなく、借金返済の進捗状況を聞かれ、私が知る由もなかった。
家にいたくなかった。でも外にいれば、「狭間木さんの所の娘さん」として名の通っていた私は、少年と過ごしたあの三日間が、どれほど楽しかったか。
「毎日毎日借金取りの人たちが来て、お金の返済だのなんだのと言ってきて、けどお父さんは知らないの一点張り。暫くしたら親戚からの電話で、相当滅入っていた。笑ったって良いよ、いくつも年下の男の子と一緒に過ごす時間が、あの時の私からしてみれば一番楽しかった、だなんて………馬鹿げていると、笑っていいし、でもこれだけは忘れないでほしい」
あの時に比べたら、当たり前だけれど、少年も身長がずいぶんと伸びだものだ。私も決して身長が低くはないのに、かなり背伸びをしなければならないのは、なんだか悔しい。
「私ね」
そっと少年の頬に手を伸ばす。大丈夫、なんて根拠どこにもない。
わたしだって、お酒臭いオジサマたち相手であれば、自分が好きでもない人間相手であれば、あった。
けれど、今は少年なんだ。心臓がやたらと煩く動くことも、少年の頬に添えた右手が、やたらと震えることも、全部私が理由を知っている。
思いっきり背伸びをしたのも、少年の頬に手を当てたのも、実はこれが目的だったりする。
「………いきなりキスだなんて酷いじゃないですか」
少しだけ顔が赤い少年は、どこか困った表情。
言わなければならないような気がした。震える手も、身体も、いつもよりも早く動く鼓動も、すべて差し置いて、言わなければならに様な気がした。すう、と大きく息を吸い込み、やがて意を決した。今しかないと思ったから。
「好きなんだ、少年のこと、だから」
『このまま一緒に暮らしたい』と言おうとした私の唇は、少年によって塞がれ、言えなくなってしまった。
「ずっと、待ってました………おねえさんの、その言葉を」
ぽろぽろと、私の額に落ちたのは、少年の涙。
「僕も、おねえさんのことが好きです…………情けないですよね、こんなことで泣いてしまうだなんて」
少年の胸ポケットの中に入っていたメガネが、私の耳たぶにあたるのは、どうっだっていい。問題は、少年が意外と女の子らしいな、と思ってしまったこと。
「ところでおねえさん」と続けるように少年が言った。
「今の自分の姿、ちゃんとわかってますよね?」
少年の瞳の奥がきらりと光った。今の私の姿、と考える暇もなかった。
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