017



 「申し訳ございませんでした」
 僕の前に座る先生は、腕を組み、椅子に深く座っている。
 「事情は理解できました。連絡もいただいていましたから…………けれど、時刻は守っていかなければなりません。時間厳守だということは、垣本くんも十分理解できるでしょうから、今回の九段につきましては特別ということにいたしますが、次はないものだと理解できますね?」
 にっこりと笑いながら言った先生。
 あの後、僕は慌てて若い女性に仕事場に戻れるかを言った。お腹が空いていたけれど、時刻がお昼休みを後一分ほどで終了するという、どうあがいても仕事場に戻ることが出来そうになかった。着替えながら慌てて先生に「諸々の諸事情で遅れます」と電話を一本入れて、この高級ホテルからタクシーを使うのもまどろっこしいと考えた。全速力で走ればどれぐらい時間がかかるだろうか? いっそのことタクシーで帰ったほうが早いのだろうかなどと思いながらホテルを出ようとした。
 父親から「飯を食ってないだろう」と言われ、僕のお腹が激しく鳴った。今から職場に戻らなければならないというのに、僕は父親からぐいぐいと手を引っ張られ、言葉が半分近く通じない、地図を祖国に忘れたという人と一緒にお昼ご飯を食べて、職場に戻ったのが一六時だった。
 「それで」と先生が続けるように言った。
 「お父様とご飯を食べることが出来て、感想はどう?」
 一瞬何を言っているのかがわからなかった。やさしく微笑む先生。悪いけれど、これだと残業は確定だとか思っていたところを、急に「お父様とご飯を食べることが出来て、感想はどう?」なんだ。混乱しないわけがない。
 「…………どう、と言われましても」
 パソコンのタイピングの音が響く部屋で、ぼんやりと数時間前のやり取りを思い出す。日本語がほとんど通じない相手に見くびることなく、相手がネイティブだというのに、あの人は時折笑いながら話していた。ちなみにお昼ご飯は湯葉だった。柚子の入った湯葉は、僕は食べなれていたけれど、観光に来ていた人たちからしてみれば新鮮だったのだろう。目が輝いていた。時折あの人が『日本のご飯はおいしいですか?』と言っていた。彼らがなんと答えたのかは、僕の英語能力の低さでは、理解することが出来なかったけれど、どこか満足しているようにも思えた。
 「英語が出来ていないと不便な世の中になりましたね」
 きっと祖父母が僕と同じ年のころには、英語が特段で来ていなくても、困ることはなかったのかも知れない。もしかしたら英語が出来ていたほうが、困っていたのかもしれない。
 けれど、今の時代では英語が出来ていないと困る時代となってしまった。
 「お父様、日本語が出来ないの?」
 「いえ、あの人は日本語が話せます。ただ、英語も話せると言うだけで」
 ますます意味が分からないといった顔をした先生は、どこからか大量の書類を取り出して、僕に渡した。書類の山の高さ、おおよそ五センチ強。
 「罰ゲームだと思ってがんばってね。これ、今日中に終わらせて、朝一番で提出するように。それと、これが定時までに終わらないとか言っても残業代つけないから」
 「は、はい」
 いくら自業自得だとは言っても、これではあんまりにも顔が引きつってしまう。席に戻ると、横で大量の書類を裁いている途中の同僚こと堀塚は、にやりと笑いながら言った。
 「本当に親父さんなのか?」
 「本当に親父さんだよ」
 にわかには信じがたい事実と、大量の書類をぱらぱらとめくる。今日は何時に帰れるのだろうか? これでは昨日がんばって仕上げた意味がない。
 「猫さん、じゃないよな?」
 こいつは何を言っているのだろうか?







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