016



 「あなたがこんなところで働いているとは思いもしなかったわ」
 店長さんはこの人が私の母親だとわかると、すぐに二階を使ってもいいと言ってくれた。ここのお店は通常は一階しか使用することが出来ないのだけれど、こういった緊急事態のみ二階を使用することとなっている。
 「今更、何の用ですか?」
 最後にこの人に会ったのは、何年前なのだろうかと思い出す。売られる前だから、おおよそ十年以上は前だ。
 「以前、若い弁護士さんから『娘さんと一緒に暮らす気はありますか』と言われたわ。何を馬鹿なことだと思ったの。勝手に会社の金を使い込んで、借金までつくって、その借金をこの私に一切言わなかった人間の血が入っている小娘と、一緒に暮らす? 冗談じゃないって断ったのよ」
 若い弁護士さんと聞いて、すぐに分かった。きっとあの少年が何かをやったのだと。本当に、あの少年は一体何をしているんだ。帰ったらちょっと聞いてみよう。
 「あの時は、冗談じゃないと思ったわ。あの人の血が入った小娘と一緒に暮らすだなんて、馬鹿げていると」
 だんだんと、我慢の限界がひどくなってきた。ずいぶんと酷い言い方だ。私が一体何をやったというんだ。大きな氷と烏龍茶が入ったコップを握る手に、思わず力が入る。
 「けど、こんなことを考えていて私が馬鹿だったの、ごめんなさい」
 「………はっ?」
 思わず、身体を後ろへとやってしまった。コップを机の上に置いて、脳内をできる限り動かすけれど、文脈が分からなかった。カバンの中に入っているソレを見るまでは。
 「お願い、一緒に暮らしましょう? やり直しましょ? あの日、かっとなってしまったの。私はあの人が好きだった。優しくて、決して馬鹿なことは言わない。普通の人だと信じていた。結衣華ちゃんを産んだときだって、へまな職に就いていない人間だもの。きっと未来は華やかで、幸せになれるって思っていたの。でもあの人が馬鹿な真似をして、わたし、わけがわからなくて、だからお願い、一緒に」
 「断るわ」
 コップの中に入っていた烏龍茶を一気に飲み干して、机の上に置いていた三角巾を掴む。これから夕方のピークにかけて気合をいれて準備をしなければならないという時に、どうしてこの人は来てしまったのだろうか?
 「……………えっ?」
 「大方、カバンの中に入っている本にでも触発されて、娘と親が一緒に暮らすのが綺麗に見えたんでしょ? あなたの所に来た若い弁護士さんが私に言っていたよ? 『あんな醜子とは一緒に生活できない。あの人の血筋が通っている馬鹿娘とは一緒の空気も吸いたくない』って。なのに今更一緒に暮らしたい? 馬鹿言わないで頂戴。私は今の生活が好きなんだ」
 カバンの中に入っている本に目をやる。見たことのあるタイトルだと思った。
 内容は、ネグレクトを受けていた女の子が、誕生日に母親から「あんたなんか産まなきゃよかった」とかなんとか言われて、声が出なくなって、祖父母のいる田舎で生活をすることとなる。最終的には取り戻すことのできた綺麗な声と、優しくて優秀なお兄さんと一緒に両親のもとで過ごして、和解とハッピーエンド、だったか。おおよそ、この物語に触発されて、感動して、自分にも娘がいるから一緒に暮らせば自分は幸せになれる、なんて思っていたのだろう。なんという甘さだ。
 「そんなことないわ! 私は、結衣華ちゃんのことを思って考えて言ってやってあげているの。今の生活は苦しいでしょ? お母さんと一緒に暮らせばそんなことないわ」
 颯爽と下へ戻ろうとする私の手を掴んで、頭を下げる彼女。
 なんて爪なんだろう。仮にも五十代を後半にさしかかっているであろう人間がやるような爪ではない。
 私が以前働いていたあのお店でも、こんな爪をする人はいなかった。五センチは伸びているであろう爪の上には、きらきらのパールに装飾された花が並んでいた。少なくとも私は邪魔だと、そのまま折ってしまうものであっても、この人からしてみれば綺麗なのだろう。
 こんな爪でぐっと腕を掴まれたんだ。痛くて、どうしようもなかったから大きく振りほどいてしまった。
 「たしかに今の生活は決して楽なものではない。ワンルームマンションで二人暮らし。毎週のスーパー特売日になれば奥様方に混ざって食料品を漁って。毎月がカツカツ、ではないけれど、ぎりぎり貯金が出来る程度。世間一般からしてみれば母と娘の二人暮らしの方が、よほど幸せだと思える。けれど」
 「だったら一緒に住みましょう? 役所に行っても結衣華ちゃんの居場所がちっとも掴めなくて、本当に」
 「だけど断るわ。今更何の用なの? 本当に一緒に住みたいというのであれば、どうして私が売られる前に一緒に出て行かなかったの? どうして私を一人にしたの? どうして若い弁護士さんが来た時に『娘とは一緒に住みたいくない』と言ったの? 私は」
 ここまで言って、やっと気がついた。自分は、少年と暮らしたい、一緒にいたいのだと。
 「今の生活が気に入っているんだ。役所で探すことが出来なかったのも、自業自得じゃないのか?」
 酷い言い方だとは、自分でも自覚をしている。けれど、この人にはこれぐらい言ってもいいだろうと、なぜだか思えてしまった。むしろこれぐらい軽いのでは、とも。
 「ここのスペースはあと五分ぐらいならいてもいいけれど、出来るだけ早く出てくださいね。本来であればお客様をお通ししてはいけない部屋なので」
 さて、今から夕方のピークの準備と、帰ってから少年に言わなければならないことをどう伝えるかを考えながら働こう。

 「ぜんばあああああいいいいいだいじょうぶでずがああああああああ」
 いきなりなんだと、思わず身構えてしまったけれど、目元を真っ赤にし、鼻水を流しながら私の所に来たのは篠柳真ちゃん。上唇ぎりぎりまで鼻水が垂れていて、ちょっと汚い。
 「私、先輩が殺されちゃったかと思って、本当に」
 だからその顔で私に抱きつかないで、と言いたかった言葉をぐっとおさえ、どういうことだと店長さんを探す、けれど、どこも見当たらない。
 「狭間木姉さん、おふくろさんと対面したんですよね? しかも十年以上会っていなかったおふくろさんと」
 厨房の奥からやってきたのは御年二十歳の男子専門学生君。というか彼は時刻的にもう帰れる時間なのに、どうしてまだいるのだろうかと時計を見て、ぎょっとした。時刻がもう一五時じゃないか!
 「表なら大丈夫でしたよ。自分、高校の時にホールアルバイトの経験あったんで。ちゃちゃっとやっちゃいました」
 「あ、ありがとう」
 私に抱きついてわんわん泣き出す真ちゃんの頭を撫でるついでに、男子専門学生君の頭も撫でる。どこか、犬属性のモノを感じてしまうのはなぜだろう? 彼に犬の耳なんてついていないはずなのに。
 「話を戻しますと、十年以上会ってもいないおふくろさんと会ったということで、もしかしたら相手が凶器を持っているのかもしれないと思って、柔道歴一五年の自分がホールをしながらいつでも行けるようにスタンバイしていたんですよ。警察呼べるようにするのもいいけれど、時間がかかってしまえば狭間木姉さんがヤバいことになるだろうって」
 「柔道歴、あったんだ」
 改めて御年二十歳の男子専門学生君の身体を見る。うん、言わなければわからないほどほっそりとしていて、とてもではないけれど、武道派には見えない。
 ましてや一五年ということは五つの頃からだ。正直、ちょっと前までに言っていた「夏本番となる猛暑に備えて今のうちにしっかりと食べて、体力をちゃんとつけておくように」の助言は、彼からしてみれば迷惑だったということなのだろう。柔道歴一五年ということを知らなければ、夏場であればいつ倒れてもおかしくないほどほっそりとした身体。本当に人はわからないものだ。
 「がっつりです」
 「見えないねえ?」
 「よく言われます。夏本番に向けて体力つけろだとか、ちゃんと食べろだとか。めちゃくちゃ言われるんですよ。それが悔しくて筋トレしてるんですけど…………筋肉つかなくて」
 ポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認したのだろう。どこかだるそうに携帯電話をポケットの中にしまいこんだ。
 「それじゃあ、自分これから姉貴の迎えなんで」
 お姉さんいるんだ、なんて思っていた。
 「一番上の? それとも二番目? 三番目? 四番目?」
 ようやく落ち着いたのか、私に抱きついて大泣きをしていた真ちゃんが勢いよく彼の顔を見た。
 「残念、本日は五番目………人がバイク持ってるからって足に使うの本当にやめてほしいよね」
 「五番目?」
 思わずびっくりして少しだけ大きな声を出してしまった。すると、何かをすぐに理解した彼は、「自分七人兄弟の末っ子なんですよ」と一言。
 この時代にまさかの七人兄弟が実在するのかと疑問に思ってしまった。どこもかしこもほとんどが一人っ子で、子どもの数が少なくて学校側は生徒が集まらずにあえいでいるのかと思っていた私は、篠柳真ちゃんが平然とした顔で言った。
 「私も兄弟いますよ。兄が二人と妹が三人」
 なるほどと思った。この二人がなんとなく仲が良いと思っていた理由は、「年齢差があまりない」ことと「兄弟が多い」ことなのだろう。一体少子化はどこに行ったのかと思っていた私は、時計を見て、三角巾をきつく結ぶ。
 「私、表でまだ働かないといけないから」
 ヘアピンを使って、三角巾から出た前髪をしまいこむ。きっとこれから夕方時のピークに向けて、私はいろいろと準備をしなければならない。
 「がんばりましょうね」と笑顔で言ってくれたのは篠柳真ちゃん。目がまだ真っ赤に腫れている。
 「お疲れ様です、自分姉貴の迎えに行かないといけないので」と頭を下げて、お店を出て行った御年二十歳の少年。きっと一番のお疲れ様は、彼だろうに。











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