015



 予想だにしないことが起きたとは、まさしくこのこと。
 「ああ、近くの学校が今日はお休みなのよ。なんでも創立記念日だとかなんとかで」
 私の働いているファミリーレストランがある地区には、とあるマンモス公立学校がある。それも、小中高大と一貫校の公立学校だ。決して子供数が少ないから行政の方からの指導を受けて一つにしたとか、学校の運営が成り立たないから一つにまとめたとか言った理由ではない。合併云々、子供の数云々ではなく、ただ単純にここら辺には学校を立てられるほどの広大な敷地面積が限られていたから、だったら公立学校として一つにまとめるというもの。全校生徒一万人を超えるマンモス学校は、本日お休み。なるほど、と合点がいった。
 店長さんが来たのは二度目のピーク真っただ中だった。二十分も早めに表に立ち、お客さんのオーダーをバンバンとっていく。さすがは慣れた手つきだと思いながら、なんとかして本日二度目のピークを朝のパートの人たち二人と私、店長さんの五人で回す。
 これでも手がいっぱいになるのだから、あの学校の創立記念日はおそろしい。これじゃあ、まるで盆正月レベルだ。
 比例するようにボンボンと上がっていく売り上げの数字を見た店長さんの一言がこれだった。
 「そうなんですか?」
 わたしだって一応知っている。小中高大の一貫校であり、この地区の公立学校のこと。何年も前、北高が落ちたらと思って滑り止め程度に考えていた地区も異なる学校。結果的に北高には入れたから、こんな学校もあるのか、程度の私にしてみれば、あの学校の本当のことも何も知らない。
 「うちの息子がそこの学校に行ってるのよ」と朝のパートの湯嶋さん。
 「へえ、あそこの学校、評判悪いでしょ」と、同じく朝のパートの竹下さん。あなたの評判も十分悪いですよ、と口から出かけたのは内緒だ。
 「でも湯嶋さんの所母子家庭でしょ? 母子家庭で公立は仕方ないわ、納得だもの。公立学校なんて貧乏人が行く所でしょ? ガラ悪そう」と、同じく朝のパートの木野さん。『きの』と書いて『もくの』と読む。もう六十を手前なのに、ここのファミリーレストランが頭に三角巾をつけるからと、いつまでもツインテールをするのは、さすがに痛い。化粧もかなり濃い。顔が真っ白なうえに、首と顔の色が違うと感じるのは、私だけだろうか?
 というか、木野さん論だと私はもっと貧乏人になる。あそこの学校は公立と言っても市立なんだ。私は仮にも県立だったから、木野さん論だと両親がいたのにもかかわらず、片親世帯の湯嶋さんよりも貧乏だったということになる。一応、私は一軒家だったんだけどな。
 けれど、と思う。たしかに私の行った高校はピンきりだった気がする。お金がないから奨学金を使って国公立大学を目指すクラスメイト達はたくさんいたし、お金があるからこそ有名な私立大学へ受験するために塾に行っていた子もいた。近くの公立工業学校は、もっとすごかった、らしい。母子家庭、片親、両親他界、こんなのがぼろぼろいた。まるで自分の地区はこういったわけありの家庭が大勢いる地区ではと思うほど。
 でもこれは何も公立学校に限った話ではないと思う。私立だって、大勢いたはずなんだ。私は知らないけれど。黙りこくった木野さんに助け舟を出そうとした私は口を開き、
 「あら、だったら私と狭間木ちゃんはもっと貧乏ね、なんせ国立と県立高校出身なんだし」
 ぐっと肩を引っ張られ、若干私の頭が店長さんの胸元にあたっていたけれど、こんなことはどうだっていい。
 今、初めて知った。この人、国立高校出身だったんだ、と。この地区で国立と言うと、専修高校の事だろうか。隣だと工業関係の国立学校だし、どのみちめちゃくちゃ頭いいじゃないか。私なんかと比べものにならないぐらいには。ぐっと唇をかみしめた木野さんと、つられて厨房の中に入っていく竹下さん。
 「ありがとうございました」と、深く頭を下げる湯嶋さん。
 「良いの良いの、気にしない。家庭の事情で公立に行かせて何が悪いっての!」
 いまだにぐっと寄せられたままの私は、ふと思った。湯嶋さん、見た目年齢がまだ若い。下手をすれば私と年齢差は、大きくないはずだ。なのに、竹下さんたちが言っていた『息子さんがいる』とは、一体どういったことだろうか? 空いた左手をふらふらと上下に動かす店長さん。なんだか今日はやたらと甘いにおいがするな、なんて思っていた。表ではお会計を済ませた音がする。もうそろそろ行かなくてはいけない。今日はもうお店を閉めもいいだろうと思うぐらいにはお客さんが来たし、私もできれば帰りたい。
 「ところで狭間木ちゃん」と店長さんが、にやりと笑いながら言った。
 「例の弁護士さんとはどうなったの?」
 あんまりにも急だった。例の弁護士さん、きっと少年の事なんだろうとはすぐに理解できたけれど、でも言いたくはなかった。誰が仕事上の上司に『今朝起きたら恩人でもある例の弁護士さんに添い寝をされました。思わず殴ってしまいましたけれど』なんてことを言えるのだろうか。思い出しただけでも顔が赤くなってしまう。
 「どうということはありませんよ、進展なしです」
 自分ながらに当たり障りのない回答だと思った。
 「添い寝されたとかないの? 手を出されそうになったとか?」
 おおよそ事情をよく理解していない竹下さんが言う。
 私は、この手に関して本当に馬鹿だと思う。北高に行っていたときは、恋愛に無関係な生活を送っていた。決して毎日勉強をしていたわけではないけれど、勉強をしない日は家の手伝いや趣味と特技の一環でもある料理をしていたし、なんせ進学高校だったから、課題の量も並大抵ではなかった。こんな中で色恋に走れる人間はよほど勉強をしていない人間ぐらいだと思えるほどの課題の量をさばいていた私は、高校時代、恋愛の「れ」の字もなかった。
 クラスメイト達も、おそらくは同じだったと思う。塾に通う子もいた。毎日頑張ってアルバイトと学生生活に翻弄する子もいた。
 けれど、アイドルがどうだとか、このドラマがどうだとか言うような子は、不思議と一人もいなかった。みんな流行に疎くて当たり前だったという生活環境の中で、恋愛なんて当然出てくるわけもない。
 だから竹下さんの言葉で、私は何も言えなかった。
 どうして添い寝をされたとわかったの?
 どうして手を出されそうになったとわかったの? ただこの疑問だけが頭の中をぐるぐるとまわりながら、ぐんぐんと自分の体温が上昇していく。数秒ほど間をおいて、やがて竹下さんが言った。
 「本当に添い寝をされたの?」
 厨房の奥で誰かが何かを洗い場に落とした音がした。入ったばかっかりの男子専門学生君、御年二十歳の子が、小さく「狭間木姉さんに彼氏?」と言った。君には関係のないことだろうに。竹下さんがゆっくりと首を縦に動かせば、鼻を荒くした店長さんが私の肩をしっかりと両手で掴んだ。
 「避妊は絶対にするのよ! 望まない妊娠なんて許さないからね」
 「何の話ですか!」
 ほら、店長さんがこんなことを言うから御年二十歳の男子専門学生君の顔が林檎のように真っ赤だ。おまけに厨房に入っているリーダーだって「狭間木さんに彼氏が出来たか」と呟いている。彼が帰る前までに訂正をしておかなければ、後々がややこしい。ちりんちりん、とお客さんが入ってくる音がする。ほら、今から忙しくなるんだ。時刻はもうお昼の二時を少し過ぎたぐらい。
 「このお話はおしまいです!」
 我ながらになかなかの強引な切り上げ方だと思う。のれんをくぐり、お客さんが出入り口付近で立ち止まっているのが目に見えた。見た目年齢五十代を後半と言ったところだろうか?
 「おひとり様で」
 『よろしいでしょうか』という続きの言葉は出てこなかった。見た目年齢五十代後半の、紫色のワンピースにちょっと余所行きのメイク。長い髪を後ろで一つに束ねてはいるけれど、決して地味にはしないように、熊手クリップで一つにまとめた女性。
 「結衣華?」
 なんでお客さんが私の下の名前を知っているのなんて、言えるはずもなかった。紫をベースとし、所々にきらきらとしたものがちりばめられているワンピース。加えて白髪を隠すように一つにまとめ、さらに熊手クリップですっきりさせるという、手抜きなのかよくわからない髪型。幼い頃からずっとこの人の右手を握っていた私からしてみれば、顔を忘れるはずがなかった。

 「店長、よかったんですか?」
 もうすぐ上がれる彼女が言う。時刻は一四時を少し手前。
 「別にいいのよ、二階は従業員しか使っちゃいけないルールだし」
 「でも、あの人は」
 「良いのよ………あの人、母親って顔してなかったでしょ? 完全に女性の顔をしていたのは、竹下ちゃんだってわかったでしょ?」
 「それぐらいはわかります………でも、もしも狭間木ちゃんに何かあれば」
 「その時は警察でもなんでも呼ぶわ……………あの子の交際相手が弁護士だってこと、感謝をするのは二度目ね」
 「ですね、一度目は風俗店と此処の掛け持ちで、過労と借金でしたもんね」
 ちりんちりん、とお客さんが来た音がした。
 「幸せになってほしいわ、狭間木ちゃん」
 「ですね」






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