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 『大変お待たせいたしました、いかがなさいましたでしょうか?』
 決して英語が話せないわけではない。出来ないわけではない。英検一級レベル、TOIC八〇〇超えレベルを少し下回った程度の出来であれば、これほどまでに緊張しなかっただろう。
 『ああ、申し訳ないねえ。実はこの子がどうしてもこの街の観光をしたいというのだけれど、この子馬鹿でねえ? せっかくの地図を家に忘れてきちゃったみたいなんだ。お兄さん、申し訳ないけれどここら辺でおすすめの観光スポット、あったら教えてほしいんだ。わざわざすまないねえ』
 『い、いえ』
 実質、英検三級、平均的な中学生程度の英語力しかなかった僕には、この向日葵の部屋にいる女性の会話を半分も聞き取れなかった。わかったことは『娘さんがいること』と『地図を無くした』ことに加え、『観光場所を教えてほしい』だろうか?
 昔からどうしても英語だけが苦手だった僕は、通常の倍以上頭を働かせ、ポケットの中からメモ紙を取り出す。メモ紙に簡単な地図を描く。本当に、線と箱のようなものが書かれた簡単な地図だ。
 この街はありがたいことに、観光できる場所が一か所に集約されている。箱の中に文字を書いていき、再び頭を高速で回転させようとしたけれど、何も浮かばなかった。
 僕は、とりわけリスニングがよくできていた。高校のときだって通知表に「垣本くんはリスニングはよくできています」と書かれていたぐらいだ。
 けれど、他がダメだった。英文を自分で考えて書くこと、口に出して言うこと。これらが壊滅的に駄目だった過去の僕は、今でも変わらない。真っ白になっていく頭と、なんて言えばいいのかが全く分からない恐怖に怯えながら、ゆっくり振り返る。呆然と、どうしたんだと言わんばかりの顔をしている父親と、自分と年齢差があまりないであろう若い女性。
 やがて、父親が何かに気がついたのだろう。メモ紙をすっと取り上げて、大きく息を吸い込んだ。
 『当ホテルを出たらまず右に曲がってください。ずっと突き進むと青い看板が見えますので。この看板がこちらに書かれています駅になりますので。そして…………』
 びっくりした、としか思えなかった。僕よりも流暢な英語が、この人の口から出てくるなんて、思いもしなかった。「すごいでしょ」と、若い女性が静かに言った。
 「垣本さん、今まで全く違う職種だったんです。なのに接客業希望、しかも特技が英会話なんて。採用面接を担当した人間は最初、誰も信じていなかったんです。たしかに学校は外国語学部出身と書いてはいるけど、それは何年も前の話であって今は話せないだろって。だから面接官の人がちょっと試す勢いで面接を英語でやったら、見事に英語で話してて………うちのホテルは確かに知名度も高いですけれど、言わば地方都市のホテルなんです。大都市のような、有名な三ツ星ホテルじゃないから嫌だ。あるいは、地元の学生さんもホテル、特に外国人観光客が来るような所は特に嫌だって人がとても多くて。せっかく入ってくれても英語が話せなかったりする人がとても多いのが現状なんです。だから、垣本さんはうちでは即戦力のある重要な人なんですよ。まだ入って一月以内なのに、こんなことってすごいですよね」
 まるで自分のことのように言う彼女。おそらくはまだ入社して年月があまり経っていないのだろう。ぺらぺらと喋る。こんなに内情を喋って、はたしてホテル側としては大丈夫なのだろうかと不安になるほど喋る。
 だから僕は少しだけ不安になった。彼女があんまりにも喋るのが、このホテルにとって大丈夫なことなのだろうかと。
 すると、彼女も自分がしゃべりすぎたのだとわかったのか、はっと口元に手を当てた。
 「ごめんなさい、私、ぺらぺらと余計なことまで喋ってしまって。主任からもよく言われているのに」
 顔を少しだけ赤くして肩をすくめる彼女。なんとなくだけれど、彼女の主任さんが言っていることが分かった気がした。
 ふと、時計が視界に入った。時刻はもう長い針を「2」に、短い針は「12」を指そうとして、全身の血が引いていくのが分かった。
 僕の昼休みが、もうすぐ終わる。






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