013



 お昼時、案の定の量をさばく同僚を横目に、僕は近所のコンビニへと向かった。ここ半年ほど行かなかったのに、今日になってコンビニへ行くことになった理由は、お昼ご飯はコンビニの刑になってしまったからだ。
 別に悪気はなかったのだ。少なくとも僕は、少しだけ眠るだけで、あれほどガッツリと眠ろうだなんて思ってもいなかった。おねえさんのビンタで起きた僕には、お昼ご飯となるお弁当はない。
 事務所が入っている仕事場から徒歩圏内にある小さなコンビニ。正直に言うと、僕はここのコンビニがあまり好きではない。理由としては、お店があんまりにも小さすぎて、必要最低限しか揃えていない。加えて言うのであれば、ここら辺は一応学校やら住宅やらが多く存在していて、お昼時ともなれば、近くの高校生たちがこっそりと学校を抜け出してはお昼ご飯を買いに来るので、一応社会人でもある僕がお昼ご飯を購入しようと思った時には、もう棚がすっからかん、なんてことも珍しくはない。
 「ありゃあ」
 だからここのコンビニは苦手だった。お昼時で人が多く、商品の補充をする余裕なんてどこにもないのは承知の上だけれど、一応それ相応の収益は見込めているはずなのだから、せめてもう少しお店を大きくするなり、なんなりしてくれないと、これでは学生の為のコンビニだ。社会人はお昼が一三時からなんだ。高校生は一二時半からで、僕がこのお店に来る頃には、商品がほとんどない。
 今日だってそうだ。あるのは定番のおにぎりと、食パン。これではあんまりにもお昼ご飯にはならない。
 だから僕は一人暮らしを始めた頃、このコンビニによらなくてもいいようにと、別のパン屋さんに行っていた。お昼休みが短くなるのは承知の上で少し遠いパン屋さんに行こう。これでもなかったらどうしようか、なんて思い、小さなコンビニで目に留まったのはコッペパンだった。
 『ケンちゃんはあのバカ息子と同じでコッペパン好きね』
 昔、祖母と一緒に街へ行くことがあった。夕暮れ時、晩御飯と明日の朝ごはんを買うとなった時、幼かった僕は真っ先にコッペパンを手にした。
 僕はコッペパンが好きだ。特に、中にマーガリンとイチゴジャムが入っているコッペパンが好きだ。だからよく、祖母から「今日はお弁当ないのよ、ごめんね」なんて言われた日のお昼ご飯は、いつもコッペパンとプライベートブランドの飲み物、そして適当に選んだクリームパンだった。懐かしいな、なんて思いながら手をのばそうとして、右側からすっと自分ではない誰かの手が伸びた。
 「あっ」と、小さく声をもらしてしまった。自分以外にこれを食べようと思っていた人間がいた。僕はすかさず身を引こうと思ったけれど、相手も僕と変わらない考えを持っていたようで。すぐに手をひっこめ、そして気がついた。
 「………ケンか? なんでこんなところに」
 コッペパンを食べようとした人は、僕の父親だった。

 危険な仕事をするのはやめてくれ。たしかに僕はそう言った。訂正なんてことはしない。けれど、目の前にそびえたつ大きなビルに、愕然としてしまった。
 「いつまでそこにいるつもりだ、早く来なさい」
 市内で最も高級ホテルとして、また、最も古いホテルとして有名な建物の前に僕はいる。いくら国公立大学を卒業した身としても、安易に入れるような場所ではない。
 昨日会った時に比べたら随分と小奇麗になった父親は、不満そうに「早く来い」などという。
 「ちょっと待ってくれ、ここって」
 わかっている。ここがどれほど有名な場所なのかを。もちろん、ここで泊れるのであれば泊まりたい。ここのホテルの最上階には、街を一望できるほどの全面ガラス張りの高級レストランがあって、もちろん料理も値段も相応の物。まだ二十代の自分には、到底足を踏み入れることのできない世界なんだ。
 「父さんの職場なんだから別にいいだろ」
 「そりゃあ、親の」
 ぴたりと、フロントで止まった。ふかふかの真っ赤なカーペット。おそらくこれは女性だと、ヒールはきつそうだな、なんて考えはどうでもよかった。
 ここは市内で最も高級かつ古く、サービスも抜群に良いとされる高級ホテル。『親の職場であればいいのかもしれないけれど』と言いかけたのも束の間だった。父親が、あの父親がここで働いている? 一体どういったことだ?
 「………昨日言ってなかったか? ここのホテルの再就職が決まったんだ」
 にやりと笑いながら言った父親。昨日? 昨日って、二十年以上の再会を果たしたあの昨日? あの時にここのホテルでの再就職が決まったなんて、言っていただろうかと思い出すも、全く思い出せない。
 「……………言ってた?」
 「………もしかして言い忘れてた?」
 「もしかしなくても、言い忘れてたと思う」
 ため息をこぼす。こんなところで就職できただなんて、一体どんな仕事をしているかだなんてあえて聞こうとも思わないけれど、あたりをぐるりと見渡す。仕事で高級ホテルとして名高いところに行ったことは何度かあったけれど、あれはあくまで仕事という名目で言ったわけであって。今回は完全プライベートだ。ふかふかの赤いカーペットに、高いフロントフロアの天井。
 「先輩」と女性の声がした。真っ黒な頭で、髪を高い位置にお団子で一つにまとめ、見た目をすっきりさせた、凡そ自分と年齢差があまりないであろう女性。
 「ひまわ………り、の」
 おそらくだけれど、自分の前に立っている人間に仕事での話があったのだろう。証拠といわんばかりに書類を抱えながら、いかにも「どうしたらいいですか」と言わんばかりの顔だ。ミスか、トラブルの発生だろうな、などと客観視していた。
 「向日葵の部屋のお客様から何か言われたのか?」
 かちりと、何か音がしたのとほぼ同時だった。僕の前にいる人間の仕事モードのスイッチが入ったような気がした。僕はここにいては邪魔だろうと思った。だから極力害が及ばないように、邪魔にならないようにそっと距離をとった。
 それにしても、と思う。さすがは市内でもっとも有名なホテルだけはある。こんな寂れた街であったとしても、だ。過去は地方でも名だたるほど栄えた街だったのに、今では人工が激減していて、市長だかなんだかが『人を増やすためにはどうしたら良いか』との対策案を考えていると、数日前にテレビで言っていた。
 ここのホテルは、過去に、この街が栄えていた時よりも前から存在する。一応地方都市とは言っても相応のホテルはあるのだと、僕の知らない誰かが胸を張りたいのだろう。
 豪華爛漫なシャンデリア。ふかふかの真っ赤なカーペット。市内で一番高い高層ビルだから、街を一望できる最上階の高級レストラン。僕の前では父親と、僕とあまり年齢差のない女性が仕事の話をしている。
 「向日葵のお部屋のお客様からご注文を受けたのですが、私、申し訳ございませんが英語がしゃべれなくて。他の人たちも全員出払っていて、喋れる人が館内に一人もいなんです。お客様は怒っているわけではないけれど、何かお願いをしているようでして。私どうしたらいいのかが全く分からなくて」
 「………佐井さんや塩田さんは?」
 「二人は今日非番です」
 「……………そうか、弱ったな」
 ホテル業は大変だ。国内の人間だけでも大変なのに、近頃ではどこもバスツアーや旅行会社が外国人観光客を取り寄せよう、なんて迷惑極まりない発想のせいで、ホテルに就職を考えるのであれば英語が必須、なんて所も決して珍しくはない。加えて近頃では「おもてなし」という言葉の流行もあってか、やたらと無限大のサービスを求めてくる客もいるらしい。本来のおもてなしとはかけ離れたサービスを提供しなければならない従業員からしてみれば、こういった客は、本当にたまったものではないだろう。自分であれば手を上げていたし、根も上げていた。当然続いて三日程度だ。時々、ホテル業を自ら志願する人間を見ることがあるけれど、彼らの辛抱強さは如何なるものなのかと思う。
 だから弁護士の道を選んだ、ともいえる。もちろん、弁護士も大変な仕事であることには間違いないのだけれど。圧倒的に、ホテル業に比べたら精神面では楽に違いないと、数年前の自分は思った。
 天井を見上げる。改めて本当にどうして自分がこんな立派なホテルにいるのかが全く分からない。自分の父親がこのホテルでどんな仕事をしているのかも気になるけれど、こんな所に泊まることが出来たら、どれほどの優越感を味わえるのだろうか、などと妄想に妄想を重ねていた。「ケン」と父親から振り返ってよばれた。
 「お前、英語出来るか?」
 嫌な予感しかしなかった。





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