012



 「その真っ赤な頬はどうしたの?」
 朝、出社して先生とばったりと出くわした。僕が挨拶をすれば、先生は「おはようございます」でもなく「書類の確認はしました」でもなく、第一声が「その真っ赤な頬はどうしたの?」だった。
 先生が言いたいのは、僕の頬が真っ赤に腫れていることだろう。
 「………猫にやられました」
 正直に言うこともできない。言えるはずがない。
 昨晩、僕はちょっと横になるだけだった。決して眠る気なんてなかった。
 けれど、僕は自分が感じていなかっただけで、かなり疲れていたんだろう。顔を真っ赤にしたお姉さんから、まさかのビンタをいただいてしまった。朝一番のビンタは、目を覚ますのにはよかったのかもしれないけれど、今でも地味に痛む頬が、馬鹿なことをしてしまった過去の自分が、想像以上につらい。おまけにいつもなら作ってくれるはずのお弁当も無しなんだ。本当につらい。
 「猫に? 垣本くん、ペット飼ってたの?」と目を大きく見開く先生。
 先生は知っているんだ、僕があまり動物を好まないことを。犬は好きだけれど、猫は大の苦手だということを。先生の前で小さな猫に、思わず全速力で逃げてしまったことを、先生はきっと覚えている。だから「頬を猫にやられた」と言って、たいそう不思議に思っているのだろう。
 やがて、何かを察した先生はあきれ返ったように笑って、ゆっくりと言った。
 「うちの事務所で働いている人間が、法に触れるような馬鹿をするのはやめてね」
 先生は、凡そのことはわかったのだろう。
 僕があの件をきっかけとして被害者と対照されるべき女性と、一緒に暮らしていることを。その女性とは知り合いであることを。この件に関して、僕はどこまで先生に言ってもいいのだろうか? 両親のことだってしっかりと言っておかなければならない。必要な書類は、
 「垣本くん」
 不意に名前を呼ばれて、慌てて後ろを振り返る。事務所に行こうとした僕は、足を止めて、一体何事だろうかと思い、
 「おはようございます、言っていなかったでしょ?」
 にっこりと笑った先生。ああ、今日は笑顔が多いということは、何かしら良い事があったんだと心の中で安心した。これで鬼のように書類を配られ、書類の処理をしなくてもすむんだと安堵した僕は、
 「昼休みにネコさんとの経緯を聞かせてね?」
 にっこりと笑った先生に、僕は朝から胃が重たくなった。

 理由は知らないけれど、今日はやたらと忙しい。お客さんが途切れない。みんな、平日の真昼間からどうしてファミリーレストランに来るんだと、苛立ちが募る。おまけに人数が『平日の真昼間だから少なくても大丈夫だ』と、高を括っていたパートのおばさん連中と私。こんなの、平日の真昼間じゃない、休日の昼間並だ。
 「オーダーまだですかあ?」
 一人の若い女性が手を挙げる。見た目年齢凡そ二十代前半。どうしてこんなに若い子がこんな時間に来るんだとの苛立ちを隠し、鉄板スマイルでお決まりの「すぐに参りますので、少々お待ちくださいませ」を言う。厨房だっていっぱいいっぱいなのに、こっちを手伝ってなんて言えない。両手には熱々の鉄板に乗せられた、これまた熱々のオムライス。腰のポーチには注文を通す際に使用する機械。何で朝からこんなに忙しいんだとの気持ちをぐっと抑えながら、指定のテーブルにオムライスを持っていく。
 「大変お待たせいたしました、デラックスオムライス軍艦盛りお二つです」
 『デラックスオムライス軍艦盛り』という大盛りメニューがこのお店には存在する。
 小さいサイズから順番に『ハーフオムライス』、『シェフのオムライス』、『デラックスオムライス』、そして一番大きいサイズの『デラックスオムライス軍艦盛り』がある。『ハーフオムライス』は、基本的にお子様サイズ。そして一番大きいサイズの『デラックスオムライス軍艦盛り』は、胃の大きさがおかしい人が食べるもの。お腹をぺこぺこにすかした男子部活動生向きとも言える。大きさとして、プラスチックの風呂桶をひっくり返した大きさだから、まず女性は食べない、食べられない。食べたとしても一つを複数人で食べるものだと私は思っていた。
 ちらりとお客様を見ると、私は目を点にしてしまった。目をきらきらと輝かせているのは、女子高校生だ。しかもテーブルに座っているのは二人。つまりは一人一つ。一体どんな胃袋をしているんだと心の中で毒をつきながら、商品の確認をする。伝票を置いて、頭を下げる。間違いがないということは、この人たちが食べるんだ、恐ろしい。
 ちらりと店内を見渡せば、朝のパートの人たちもばたばた状態。これは、今日の売り上げがいいな、なんて思っていた。

 他のお店がどうかは知らない。けれど、私が働いているファミリーレストランでは、決まった時間に、決まった時間までの売り上げを日報に記入するという決まりがある。お盆のような忙しさであれば、日報の送り先でもある本社も、見逃してくれるけれど。「うわっ」と朝のパートの人たちが驚きの声を上げた。
 「どうしたんですか?」
 やっと一段落をしたのは、お昼を少し手前。あと三十分もすればまたピークが来る。今日は何回ピークが来たらいいんだとの愚痴は割愛。レジの前でパートの人が目を丸くして私の名前を呼ぶ。
 「日報に書くの、ここの数字で言いのよね?」
 震えた声で言うのは、悪評高い朝のパートの人、ではなく、朝のパートの人たちの中でも唯一評判のいい湯嶋さん。読み方を最初は「ユジマ」と間違えたけれど、店長いわく「ユシマ」らしい。湯嶋さんはいつも日報に売り上げを書く人だから間違えることがないはずだと疑問に思いながら、彼女が指をさしたところの数字を見る。
 「…………合ってます、そこで良いんです」
 午前中の時点で売り上げ二十万越えとは一体何事だ。だから人手が足らないのではと思うほど忙しいし、数字を見て、思わず真顔になってしまう。
 「閉店しても良い? 私帰りたいわ」と湯嶋さん。
 「駄目です。ピークは今からです」
 当たり前だ。くどいようだけれどもう三十分もすれば、本日二度目のピークが来る。何でこんなに忙しいのかはわからないけれど、お客さんから「かわいいパートさん」との評判の高い湯嶋さんが帰ってしまえば、残り二人でホールを回すのは辛い。店長が来るのはお昼を少しだけ過ぎた頃。この時間までたった二人で回せるとは到底思えない。むしろ不可能に近い。「そうよねえ」と何かを諦めた表情で笑う湯嶋さん。申し訳ないけれど、もう少しだけ頑張っていただきたい。私だって、今日は八時間労働の一時間休憩なんだから。






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