010



 マンションに帰れば、おねえさんが目元を真っ赤に腫らしながら台所に立っていた。
 「ただいま」
 きっとこれは自分の無知が招いたもの。おねえさんに、へんな迷惑をかけてしまった。
 「………おかえり」
 肩を震わせ、目元を真っ赤に腫らし、両目を布巾で強く摩るおねえさんの姿は、見ていて決して良いものではなかった。
 考えればわかるはずのことだった。足腰の悪く、もう働くことのできない祖父母と孫一人の三人暮らしでは、年金生活だけでは到底できるはずがない。貯金だって、かなりの金額がなければ、三人で暮らすことは到底不可能に近いはず。
 けれど、できたということは、この三人以外に誰かの支援があったからこそ出来ていた生活。仕送りが一五万と、三人で暮らすのには小額過ぎるかもしれないけれど、仕送りということを考えれば、かなりの高額。
 もっと早く気がつくべきだったことだけに、僕はおねえさんを巻き込んでしまった後悔と、もっと早くに考えておくべきだった自分への情けなさに、いらいらが募っていた。
 「ごめん、おねえさん」
 ぽつりと言えば、おねえさんは驚いたように僕のほうを見るように振り返った。やはりというか、予想以上に目が赤いな、なんて。
 「こんなことに巻き込んでしまって」
 僕は、もっと早くに気がつくべきだった。嫌だ、話したくもないなどといった子供じみた感覚が、結果的におねえさんを巻き込んでしまったんだ。なんとも情けない話だ。
 「そんなことない」と、おねえさんが震えた声で言った。
 「少年は、悪くないよ」
 目元を、かなり強引に摩るおねえさん。もともと化粧をするという概念があまりないおねえさんは、おそらく同年代の女性と比べて化粧品が極端に少ない、と思う。だから目元も思いっきりごしごしと布巾で摩るのだけれど、布巾は机の上を拭くものだからやめようよ、なんて考えは、今はどうでもよかった。
 「わたしは、もっと少年から頼ってほしい」
 小さく、震えた声は、とても強くて、僕を驚かせるのには十分すぎた。
 「私は、少年から助けられたんだ。自由で幸せだった生活から一変して地獄へと堕ちた私を、手をさし伸ばして、助けてくれたんだ。だから、もっと私を頼ってよ。もっと弱音を言ってよ」
 ぼろぼろと泣き崩れながら言ったおねえさんの手は、とても冷たくて、けれど暖かくて、ぼろぼろの僕を支えるのには十分すぎた。
 「ごめん、本当に」
 目元を両手で押さえ、肩を小刻みに震えているおねえさんにそっと触れようとして、
 「おねえさん」
 僕はなぜだかおねえさんの頬に手を添えた。
 「しょ、うね……ん?」
 お姉さんと同じ視線に立ち、気がつけば顔を近づけていた。
 「ごめんなさい!」
 慌てて立ち上がって洗面台へと向かう。自分は、ほんの一瞬でもおねえさんに対して何をしようとしていたのかと考えると、愚かに思えてくる。
 僕にとっておねえさんは、幼い頃に助けてくれた恩人なのに。

 びっくりしたと言えば、嘘になる。
 「なにあれ」
 ぱたぱたと、洗面台へと走っていった少年。思わず涙なんて止まった。
 少なくとも私の中での少年は、どこか頼りなくて、けれど優しくて。いつだって一人だったから、私がいないとだめなのかと思っていた。それは、今になっても同様のことが言えるけれど、少年は、私と最初に出会った頃に比べたら、ずいぶんと頼りがいが身体に染み付いているようだった。
 少なくとも、あのお店に来るような人とは違う。色やお金に貪欲な子ではない。こう思っていたのは、私だけだったのだろうか?
 「びっくりした」
 あんまりの出来事に呼吸も忘れていた私は、大きく深呼吸をして、真っ赤になった頬を両手で押さえる。
 決して触れられることが初めてではなかった。今までだって、お酒とタバコのにおいがきつい男性に、嫌というほど触られてきたはずだった。きっと将来は有望だと高を括ってていた過去の自分をあざ笑うかのように、拒んではいけないと、心を鬼にしながら受け入れていた。
 決して初めてではないのに、むしろほんの半年ほど前までは毎日といわんばかりのことだったのに、どうしてだろう? まるで茹でられたタコのように、身体が熱い。少年のような若い男性だって、お店には時々来ていたけれど、相手をすることもあったけれど、どうしてだろう?
 「まさか」
 ほんの一瞬だけ、まさかと思う自分がいた。今まで相手となっていた男性が、ことごとくお店に来ていて、しかも酒と色と金にばかり目を向ける男の人たちだったから何も思わなかった。
 でも、あの時の少年だったから、身体が熱くなるのだろうか? あの時、ランドセルに「みなしご」や「いらない子」などと落書きをされ、体操着はぼろぼろに、でもやさしいばあ様じい様に囲まれて、幸せな生活を送っていたはずの少年だから、なのだろうか?
 考えるだけ身体が火照っていくのは、考えたくもないと、思っているからなのか? そっと口元に手を添えて、けれど、恥ずかしさのあまり、どうにかなりそうだった。





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